第二話

 春というのは駆け足なもので、芽吹きから若葉の香り漂う季節となった。
二之部君は私の書斎が気に入った様だった。図書館の本と並列して読み漁り、内容について私と議論する。夕食前には必ず帰ってくるので、若い時分でありながら遊び回る素振りも見せなかった。真面目過ぎるのも、人生に於いては首が締まる事もある。かと言って私自身、遊ぶという事については才能が無い。打って付けの人物が目の前に居るが、彼らの馬が合うかと言えば、明らかに否であった。年の差もあるので、遊び友達というよりは遊びを教える悪い大人だろう。
「久慈ィ。羊羹ないのか、羊羹。」
「戸棚に無ければ無い。」
 勝手知ったる風に、三木谷は私の家の中を漁る。盗られて困る物といえば本くらいである。だが、奴が盗みを働く真似はしない。本ならば尚更だ。四六時中、紙を触っている仕事からか、奴は本を好き好んで触る性質ではない。
 仕事の話をすると言って押しかけて来たが、先客が来ていた。否、正確には客ではないのだが、庭の手入れをすべく庭師に来てもらっていたのだ。手持ち無沙汰の時に、何となく雑草を抜いていたので地面はそれなりに平らであったが、木々の剪定までは気が回っておらず、放ったらかしていた。躑躅や紫陽花は湿気を多分に含んだ毛玉の如きなりをしていた。
「今迄、きちんとしてなかった文士さんがどうした。」
 答えが解りきっているにも関わらず疑問形で尋ねてくるのは、単に私を揶揄う為だ。私は視線も三木谷に向けず、外で仕事に励む庭師を眺めながら言った。
「二之部君へ、此の状態をなるべく維持できる様にしてくれ、と言う為さ。」
「そうかねェ。図らずとも別嬪が来ちまって、慌てて身嗜みを整えている出不精な男みたいだが。」
 図星なので、笑うしか出来なかった。顔の筋肉が動いているかどうか自信は無いが、付き合いの長い三木谷には見分けられただろう。
 三木谷とは二十年近い付き合いだ。私が此の家に住み始めた時、滅多に行かぬ飲み屋街で知り合った。初めは面倒な酔っ払いに絡まれたと思ったものだ。私は大学生で、三木谷は今の編集社に入ったばかりのヒヨッコだった。
 上に対して常に物申す態度から狂犬の如き扱いを受け、処遇を嘆いていた奴は、今では立場ある役職に就いているのだから年月は恐ろしい。
 そうか、奴と出会ったのは二之部君と同じ年頃だったのかと思い出す。人生の中で息の長い関係を築くには、友人が居なくてはならぬ。彼は優秀であり、見目も良い。夜遊びに誘われぬ訳が無い。それでも全て、私の名誉や立場等を気にして全て断っているのだとしたら、付き合いが良くないだのと悪評を立てられるだろう。私としても、その程度の事で彼が悪く言われるのは面白くない。
「サテ、三木谷。お前は何の話を持って来たのだ。」
「オウ。まぁ座れ。」
 此処は私の家なのだが、何故座布団を勧められているのか。滑稽であったが此れが奴のペースなのだ。特に何も言わぬ事にして、大人しく座ることにした。三木谷と大机を挟んで向かいに収まると、奴は校正刷りを取り出して広げた。
 私の名前と、先々週書いた話が載っている。刷り上がりを確認するのは毎度の事であるが、三木谷が直々に訪ねに来た理由は察していた。
 数頁捲ると、二之部君の名前があった。活版印刷で出来上がった物を見ると、また印象が違っていた。そっと文字をなぞる。瑞々しい感性と、此の歳ならではの危うさから、何処となく雨の匂いが感ぜられた。彼は不思議と、雨が似合う。花の下にいる時もそうだが、彼の凛とした雰囲気が冴え渡るのは、しと〳〵雨の中で佇む瞬間であった。
「載せるのか。」
「そりゃな。目出度く穴も空いたし、お前の弟子は晴れて紙面デヴューだ。」
 勧めておいて何だが、彼の文章が世に出るのを勿体無く感じてしまった。私だけが知っていた、皐月雨の文が手元から離れていく。彼の存在は、私だけが知っていたが、此れが出版されて世に出れば、彼の周囲が放っておかないだろう。彼は文筆家として生きるつもりは無いと断言していた。周囲からの注目を避け、勉学に集中するのならば、執筆名が必要になる。
「執筆名、今から付ける事は出来るか。」
「あの坊ちゃんのかい。」
 過去に、書生として受け入れてきた者たちは、自身の名を持っていた。粗忽者から取って忽田粗一郎と自虐染みて名乗る者も居れば、明鏡止水から明水と自信ありげに胸を張る者も居た。何れも一本立ちした作家となり、誇りに思える教え子である。二之部君に聞いてみなければと考えた所で、玄関口を開閉する音がした。
 二之部君を呼び、部屋へと招き入れると、彼は三木谷に恭しく頭を下げた。ゲラ刷りを見せ、経緯を説明すると、彼はやや曇った表情となった。
「僕に執筆名など、それこそ作家の様です。僕自身としては、本名でも……。」
 彼が言葉を濁すのは初めて見たと思う。
「イヤ、何。君が困る事にならなければ良いのだ。学校には文士志望者もいる事だろう。要らぬ詮索を受ける可能性もあるかも知れぬ。」
 そう私が言うと、眉に寄せて懸命に考え始めた。三木谷は興味を対して示さず、茶菓子を三つ四つと平らげて茶を啜る。執筆名が有ろうと無かろうと、中身が変幻する訳でもない。実存主義的な奴にとって、名は対して問題視していない様だった。
「……いえ、矢張り本名で良いです。秘匿する為の名を持ったら、殻を一つ作る事になります。僕はそれを巧く扱える気がしないのです。」
 明瞭な答えとなったので、私は軽く返事をして頷いた。三木谷に、校正刷りの確認済みである事を示す判を渡す。
「刷り上がったら二人分の本誌を渡してやる。マ、学校で自慢するならしておくンだな。」
 豪快に笑い声をあげながら、部屋を後にして勝手に出て行った。やれやれと私は肩を竦める。二之部君はというと、足の裏に棘でも刺さったのかと言わんばかりの、不愉快さを少しだけ滲ませていた。
 そうこうしていると、庭の手入れが大凡終わった様だった。三木谷に弁明した通り、彼には庭掃除についての仕事を頼むと、晴れやかに笑った。
 
 梅雨になる前と後で、彼の印象が変わったのは間違いではない。私にとっても。彼にとっても。
 
 ◆◆◆
 
 キヨさんと二之部君は仲良くしている様だった。彼は良い所の坊ちゃんであったので家事はあまり期待していなかったのが正直なところだった。今では熱心に料理について教えを乞うていた。キヨさんもキヨさんで、まるで実子の様に鍛え始めた。二之部君の飲み込みが良いので、彼女から雷が落ちる様な指導は入らなかった。私は何度かその経験があった為に冷や冷やとしたが、要らぬ心配であった。
 食費に上乗せして、私塾代としても賃金を払わねば、キヨさんに対して面目も立たないなと笑う。二人が厨に立っている時の声や空気は、健やかな朝をより感じさせてくれるものだった。
「先生、お待たせしました。朝食です。」
 ウンと頷く前に、嵐の夫人が顔を出した。
「鏡四郎さん、お昼はお握り置いときますからね! じゃあ、瑞基くん。夜にさっき仕込んだもの、ちゃんとやるのよ!」
 返事を聞くより先に騒々しく立ち去っていく彼女の気配を見送った。私達は顔を見合わせて笑う。私の家は閑散としているが、此れだけの音が響くと対して寂しさは無いものだとも思った。
 朝食を摂りながら、彼から今日の予定を聞き出す。試験が近いので、教授に聞く所を聞けたら直ぐに戻るつもりだと言う。相変わらず遊び歩く匂いはせず、私はフム、と鼻を鳴らした。
「たまには友人を連れてくると良い。」
 二之部君は優秀で見目も良いのだから学内では人気を有しているはずだ。あまり大人数で来られても困るが、と付け足すと彼は少々困った顔をする。
「では、一番の友人を連れて来ます。」
 そう言うと、二之部君は手早く準備を済ませて、学校へと向かって行った。一人残された私は、部屋に残った喧騒に思いを馳せつつ食事を続け、仕事の残りを考えた。
 
 その日は寝室に置いてある机で仕事をしていた。握り飯を食い、筆を執って紙をなぞる。
 辿る先はいつも決まっている。完結は点であり、常に一つに定まっている。定まる先というのは、それより後は無いという事だ。私はそこを見据え、目指し、文字という梯子を掛け続ける。私にとっての執筆は、そういうものだ。最も長く、最も面白おかしくなる方へ進ませる事もできる。
 もしもの可能性を生み出したい場合は、その梯子の先を掛け変えて、また違う完結点へと手を伸ばせば良い。然し、その様な事をするのは殆ど皆無だ。富士の山を案内無しに登っては遭難する。遭難すれば、唐突にそこで話の芽は途切れる。そうなると、初めに見えた路が最善である事が常であった。
 玄関口から、二之部君の声がした。もう帰宅する様な時刻かと懐中時計を取り出すと、幾分集中し過ぎたのだと気付く。一階に降りて客間を覗いたが誰も居なかったので、茶の間へと向かう。二之部君の隣に、随分と背の高い男児が居た。
「先生、只今戻りました。此方が学友の 駿河するが君です。」
 竹の子の如く、などと言っては失礼かも知れぬ。私も周囲と比ぶるに背丈はある方だったが、駿河君は私より目線一つ高い。聡明そうな黒目には力が宿っていると見えた。野心家で、努力を惜しまぬ性質だろう。二之部君が雨を感じさせる空気を持つのであれば、此の彼は太陽や乾いた砂を想起させる。
「初めまして。駿河功一いさいちと申します。以後、お見知りおきを。」
 低く、どっしりした声であった。年を重ねれば貫禄の出る喉をしている。一目で周囲を引っ張る能力に長けていると分かる人物というのは久方ぶりに見かけた。流石は名門の生徒といったところだろう。
「久慈だ。久慈四葩という名で、物書きをしている。」
 二之部君は弟子であるという立場から、友人を客として扱うのを遠慮したのだろう。客間で寛いで良いと告げる。三木谷が食い尽くしてなければ茶と菓子くらいは出せる筈であったが、駿河君がそれを制した。
「構いません。自分が来たのは、先生にどうしても申したい事があるからであります。」
 随分と言い回しが軍隊染みていた。態度の良い印象でもあったが、同時に射抜き殺しそうな眼光が飛んでくる。そうかね、と返事をして袖の中で腕を組んだ。狭い茶の間が闘技場に早変わりしていく。
「久慈先生の話、拝読致しました。」
「それは、どうも有難う。」
「何故、二之部が惹かれるのか、自分にはさっぱり理解出来ぬと思ったのであります。」
 私の眉くらいは動いたと思う。内心では驚きに満ちて居たし、二之部君は絶句して口をあんぐりと開けて居た。
「二之部が久慈先生の所に弟子として居るのも、自分は納得がいかぬのです。自分は二之部の能力を認むるからこそ、より相応しき学びの場へと身を置くべきと考えるのであります。」
 私は面白くて仕方がなかった。二之部は顔を赤くしたり青くしたりするし、駿河君の息巻く姿は、若かりし頃の三木谷と重なる。
 二之部君の表情は可愛らしい。駿河君の釣り上がった目はいっそ清々しい。若者というのはそれだけで、エネルギヰに満ちた存在である。
「ウン。成る程、君の言いたい事は理解したとも。」
 表情が崩れぬ性質であるので、きっと私の態度は、駿河君にとっては癪に障る事だろう。去なすのは簡単であるが、正面から受け止めるべく、彼と目を合わせた。
「一つ、君に先生と呼ばれる義理はないので久慈さんとでも呼んでほしい。二つ、話の内容や文章の好き好きなど、人それ〴〵。口に合わぬ物を食う必要は無い。三つ、確かに二之部君は優秀なので、僕の所では勿体無いというのは同意するが、弟子を易々と追い出すほど冷酷でもなければ、教える所が何も無いというほど、私は未熟ではない。」
 指を一つずつ立てて、若者の熱を取り込んでいった。良い題材にもなりそうな男児である。二人してぽかんと呆けた表情をするものだから、つい〳〵揶揄いたくなってしまう。意地の悪い中年の悪い癖といったところだろう。
「蔵書は良いものがある。丁寧に扱うと約束するならいつ来ても良い。私は仕事に戻るが、好きなだけ居給え。」
 少々気障ったらしさが鼻に付いただろうか。途端、気恥ずかしくなったので立ち去るべく身体の向きを変えようとしたところで、私の足は止まった。
「ね。僕の先生は此の人だけなんだ。分かるだろう?」
 砕けた口調で甘やかな声音で宥めるのは、間違いなく二之部君の物であった。駿河君の噛み付きよりも、その声にこそ私は動揺した。
「……申し訳ありません。」
 駿河君が苦々しい表情で直角のお辞儀をする。彼の旋毛と、二之部君の顔を交互に眺めてしまった。
「嗚呼、イヤ、何。若者は、それくらいの勢いがある方が好ましい。」
 半拍遅れての返事となったしまった。二人が改めて頭を下げたのを見、私は半ば茫然として書斎へと駆け込んだ。
 友人相手ならば、私の知らぬ二之部君の姿があったとしても当然だ。だが、耳の奥を擽る様な、甘美さに身体が震えた。彼にしかない色香が、間違いなくあった。羽箒で素肌を擽られる様な心地で、私は廊下を歩くうちにすっかり落ち着きを失った。
 ゆっくりと書斎の扉を閉める。私はその間も、二之部君の声を反芻して居た。
 
 僕の先生。先生。僕の先生──……。
 
 あの声で、呼び掛けられたい。そういう欲求が芽生えたのは此の瞬間であった。