散崩さんほうノ段

 おさまっていた頭痛と歯痛をぶり返している。合同演説会の終了と共に、緊張の糸が切れたのかも知れぬが、波打つ痛覚に苛々とする。其の上夏の日差しは体力を削っていくものだから、部屋に閉篭もる日が増えた。
 試験を終え、後は休みを待つばかりだ。
 当然、講義ごとに試験が合った。青泉と取っているコマは殆どが同じものであったので、試験会場には奴も来たが、やつがれは目も合わせず退出してしまった。
 彼奴とどうにか元の間柄に戻れないか、と考えたが切掛が無い。何度も機会があったのにだ。そもそも彼奴に詫びて欲しいかと問われても、首を傾げてしまう。ただ、無かった事に出来れば……否、単に過ちであったと認めさえすれば良い。
 だが、惚れた腫れたを過ちと素直に認めるとは到底思えぬ。
 青泉の事であるから、辯論部内や先の合同演説会については情報を仕入れている事だろう。もしや、懇親会で孤立していたことさえ知っているかもしれない。
 青泉や嵯峨崎が居たら多少は真面に溶け込めたのだろうか。
 何時ぞや、嵯峨崎に酒を奢ると言って例のバアへ行った日を思い出す。安賀多や部長、灰藤先輩らと電氣ブランをかっ喰らい、其々に酔っ払ったのが随分と懐かしい。
 青泉は確か、やつがれの火消しに回って居たと言っていた。あの時は何を莫迦な事を、と思った。今であれば――癪ではあるが――実際起きた事から紐付けられる現状に、理解は出来る。
 やつがれは重い溜息を吐いた。
 遅かれ早かれ周囲から浮くのは自然な流れだったのだ。
 やつがれは独りで良い。ずっとそうして来た。今迄、青泉が勝手に付き纏っていただけだった筈だ。青泉がやつがれの好いた所は、辯論に於いて容赦なく物を言う態度や素振りが面白かっただけだろう。嵯峨崎もやつがれに傾倒しているだけで、崇拝しているのだ。其れが為、幻を見ているに違いない。
 何れも、やつがれ自身の何かに惹かれている訳ではない。
 演説会や辯論部、或いは何処かの壇上にいる《立科永》だけが、人気を得て信者を集め、率いているに過ぎない。
 そうであるならば、やつがれ自身が壇上に上がる必要は無い。少なくとも、自室で芋虫の様に転がっている人間は、何か発信する類の人種では無いのだ。
 由芽子さんが抱える辛苦は、こういったものなのだろうか。彼女は貴族であり、歌人であり、涼やかな美しさに溢れている。才女であるからこそ期待され、其の華々しさに惹かれる人間も多いことだろう。
 家柄や立場が放つ光が強いからこそ、彼女自身を見て、近づく人間はあまりに少ないと推察する。
 少なくとも、《柳由芽子》という人間として振舞っている時は、ガルベラの如く明るい笑顔を咲かせては居なかった。
 
 仰向けになった体勢から、寝返りを打つ。散漫な動きは正しく、転がされた青虫が手足のような凹凸をもぞもぞと動かす様子と重なった。
 怠惰な仕草の儘、布団から起き上がる。換気のために窓の鍵を外せば、強い日差しと共に風が吹き抜けた。
空は区切くっきりとした青と白の対照色が眩しく、やつがれは思わず目を細めた。
 
 《立科永》の演舌は今月の機関紙に載せた。賛否両論は当然にあるだろう。其れでも読者や支援者が増えたというのだから、矢張り、やつがれは間違っていなかった。
 《立科永》は、間違っていない。
「間違っていないよな、アオバ。」
 様々に飛び散る思考を其の儘に、同居人へ問い掛ける。耳まで裂けた大口から、愈々怨嗟えんさが聞こえて来そうだ。
 アオバを眺めていれば、時折何もかもを放り出して喚きたくなる気分が紛れるのだから、不思議なものだ。
 寧ろ、アオバが代わりにやつがれの負の感情を吸い取っているのかもしれぬ。
 珈琲の美味いカフエに行こう。其の後バアに行こう。頭痛は悪化するだろうが、寮から一歩も出ずに居ても仕方がない。
 
 やつがれは暫く、夏の空を見上げた。
 
 ◆
 
 バアは相変わらず盛況であった。良く冷えた酒が夏に熱された身体を落ち着かせる。カラカラとマドラアで氷と酒を混ぜれば、苛む悩みが溶けていく様だった。
 由芽子さんと会うのは来週末だ。今迄は学業や活動の隙間を縫って、時間を取っていたが、休みとなれば予定が合わせやすくなる。
 酒を飲んだり、匂いを嗅いだり、氷に移る洋吊燭台しゃんでりあの光を眺めたりした。無視しても良い人間の声は程良い雑音となり、頭を空にすることが出来る。
「立科。」
 不意に、良く通る凛とした声が耳を掠めた。声の方へ顔を向けると、涼しげな色男が其処に居た。
「灰藤先輩。」
 色白の男はどうやら一人らしい。一言断ってからやつがれの隣へと着席した。
「電氣ブランか。」
「ええ、まあ。」
 では私も、とバーテンダーへと注文する。灰藤先輩は制服ではなく背広姿であった。服の良し悪しに詳しいわけではないが、パリッとした雰囲気からして伊太利亜製だろうか、と見遣る。
「随分と消耗した顔をしているな。」
「普段通りですよ。」
 程なくして運ばれたグラスを掲げたので、無言で乾杯する。軽やかで澄んだ音が、周囲へと溶けていった。
「懇親会、一人で抜けただろう。」
「嗚呼、あの日は疲れてしまったもので。」
「編集主幹がゆっくり話が出来なかったと残念がって居た。また機会を設けてくれと言われている。」
 そうですか、とやつがれは曖昧に笑う。
 やつがれは自身の性質について理解し始めていた。例え何処であろうが、其の場の空気や雰囲気に関わらず議論を繰り広げてしまう。他者の話を聞いていても矛盾が気になってしまう。故に険悪な流れになりやすいのだ。だからと言って適当な賛同をする事も、やつがれには出来ぬ。
「酒がない席でなら、喜んで。」
 やつがれは自身が酒に弱い事にして、そう呟いた。舐める様にグラスに口を付けると、強い刺激が舌と喉を通過していった。
「其の割に、電氣ブランを良く飲むな。」
「強い酒をチビチビ飲むのが好きなのです。金もかかりませんし。」
 成る程、と一言だけ発して、灰藤先輩も黙した。
 此の人の側は静かで落ち着く。物静かな先輩の雰囲気は、すっと馴染む清水に似ている。城島先輩に彼是と世話を焼いているのが常なので、休息がてら一人になったのだろうか。
「部長は置いてきたのですか。」
「いや、彼奴は一足早い帰省だ。」
「ははぁ、成る程。てっきり、世話疲れで一人飲みに来たのかと。」
 余計な言葉が口から滑っていった。灰藤先輩はキョトンとしたかと思うと、少し笑う。
「其れもあるな。宗介は仕様の無い奴だから。」
 さらりとした黒髪が頬の紅さを引き立てる。男に言うのも妙ではあるが、灰藤先輩は美人であると思う。やつがれの美醜の基準が如何許りかは分からぬが、彼は異性の信奉者を抱える人であるので、其の形容に間違いは無いはずだ。
「宗介は面白いからな。見ていて飽きんし、素直で単純である故に放っておけん。」
 グラスに付いた水滴を軽く拭い、何処か嬉しそうにした。青泉がやつがれに対し、浮かべていた表情と似たものだった。
 此の人達も、我等と同じ様な過ちを犯すことがあるのだろうか。
 やつがれは顳顬を押さえて頭を振る。莫迦な事を。居た堪れなくなり、酒を煽る。直ぐにでも酔っ払ってしまいたくなる。
「庵野と何かあったか。」
「何も。」
 脊髄反射でそう答えてしまった。却って何かあったと断言している様なものだ。頭を抱えて転がりたい衝動に駆られたが、頬の肉を口内で噛んでやり過ごした。
「何があったかは知らんが、取り次いでやろうか。」
 明日、親同士での談合があるんでな。そう言い乍ら、何でもない様に先輩はつまみにナッツを注文する。
 〈何でもない〉様な仕草だからこそ、気を遣われているのが判る。自らの情けなさに恥じるばかりだ。藁にもすがる思いを、堪らず寄せてしまうことも……。
「カフエで待つ、と。」
 承知した、と短く告げられる。安堵と、有り難さと、申し訳なさが綯交ぜになって酒の中へ無音で落ちていく。
 先輩は一つ、軽く肩を叩き、其れから黙したまま二人で飲んだ。
 
 ◆
 
 矢張り此処の珈琲は美味い。
 何時ぞや、青泉が駆け込んで来た時と同じく、雨が降り出しそうな天気であった。やつがれは課題と機関紙に載せる論文を交互に進めて居た。
 合同演説会での論文を読んだ篤志家から手紙が届いた。今後の活動も期待しているとの内容と、偶には故郷へ帰って来いと身を案ずる文面であった。
 やつがれは間違ってはいない。そう強く思えたからこそ、再び筆を取ることが出来た。
 やつがれの存在意義は、賛否両論在れど何かしらの形で世間に影響を与える事だ。其れがある限り、孤独ではなく孤高であると言い切れる。
 
 ふと、手が止まる。
 
 此の活動を進め、例えば将来、大臣などになったとして、やつがれは何かを遺せるのだろうか。
 否、遺せなくとも良い。何かしらの影響を世間に与え、其れ等が未来でどうにか形になれば良い。正直、民主は一朝一夕で成るとは到底思わぬ。其れこそ、やつがれが生きている間では完成しないだろう。
 では其の完成とやらは? 其れ其のものについて、果たして意味があるのか。
 此の活動の意味とは何か。其れは民衆による政治を実現する為である。
 民衆による政治の意味とは何か。其れは自由と平等を実現する為である。
 自由と平等を得る意味とは何か。其れは人間が人間足り得る為の要素であり、不当に取り上げられては成らぬ為だ。
 不当に取り上げられてはならぬのは、何故か。仏蘭西革命後、人間と市民の権利として浸透し、今や当然として考えられているからだ。
 幾らでも言語化出来る。筋も通る。だと言うのに、背筋がヒヤリとする。
 軽快に鳴る来客の鐘で我に返る。青泉か、と顔を上げたが、見知った別の人物が目に入った。
「立科先輩!」
 大きな犬が駆け寄って来るように見えた。嵯峨崎であった。
「偶然ですね。執筆ですか。」
「嗚呼……。まあな。」
 正面に座り、女給に珈琲を注文する。面倒な事になった。やつがれは目を合わせるのも厭で、凡ゆる質問と賛美を曖昧に返した。
 機関紙の反応凄かったですね、懇親会はどうでしたか、具合はどうですか、また雨になりそうですね、……。
 あの痴態を知るまでは、可愛い奴だと思えた。然し今となっては、矢鱈と詮索する鬱陶しさが勝る。
「嵯峨崎、お前は何を、」
 しに来たんだ、と言葉を続けようとしたが、再び鐘が鳴る。
 ドアの天辺に頭をぶつけぬ様、潜るように姿を現した大男は、間違いなく青泉であった。
「……永。」
 酷く窶れていた。生気が抜け、瞳は暗く、唇は荒れていた。やつがれと会わぬ間、生活が荒んでいた事は明らかであった。
 後悔の中で自らを責め続けていたのだろう。
 やつがれが立ち上がろうとすると、嵯峨崎がやつがれを制止する。更に、庇う形で立ち塞がった。
「嵯峨崎。退け。」
「退きません。庵野先輩、立科先輩に何の用ですか。」
「やつがれが呼んだ。」
 淡々とそう告げれば、嵯峨崎は信じられぬ物を見る表情で振り返った。
「何を、何を考えてるんですか!」
「お前には関係無い。」
「関係あります!」
 とりあえず来い、と青泉を手招きし、嵯峨崎を隣に座らせた。本当に面倒だ。然し追い返すにしても、其れは其れで骨が折れそうである。
 思考を半ば放棄し、筆記本と原稿用紙を脇に追いやる。
 着席した後、直ぐにはどちらも語りださなかった。徐々に高まっていく緊張を和らげるべく、珈琲を啜る。手が震え始めていた。
「灰藤先輩に言伝を聞いて、来た。」
 そうか、と短い返答をする。数秒の間があった。
 青泉はぐっと唇を噛んだかと思うと、机に両手を強く叩いた。衝撃で机が哭く。
「すまなかった!」
 形振り構わぬ勢いで頭を下げ、直球の詫びが飛んできた。周囲に人は居ないがため、沈黙が落ちる。無言で青泉の旋毛を見つめ、やつがれは深呼吸を一つした。
「お前もやつがれも、……ある種、被害者だ。全ては安賀多から始まったことだ。」
 珈琲に口をつけ静かにカップを置く。ソーサーとぶつかり、カチカチと音が鳴るのを無視した。
「死人に口なしとしている様で卑怯な気もするが、真実だ。そうだろう。」
 そうだと思え。
 言外に含んだ命令に似た懇願を、青泉は察知したらしかった。顔を上げると、目が赤く滲んでいるのが見えた。
「最早、お前に詫びて欲しいとも思わぬ。」
 溜息混じりに言えば、青泉の肩が大袈裟に揺れた。やつがれに赦されぬ事を恐れているのが分かる。
 誤解を与えぬ様、言葉を続けた。
「ただ、互いに誤っただけだ。過ちだった。そう認めた上で以前の様に戻れるのなら、やつがれの隣に立つのは構わないと考えている。」
 脚を組み替えても落ち着かぬ。嵯峨崎は交互に我等を見、苛ついた様に腕組みをした。
「やつがれへの行き過ぎた想いは、過ちだった。」
 稲光に次いで、窓を叩く雨音が響く。夕立であろう。室内の空気が湿っぽい。交差する青泉との視線が、何か光を放つのではと思う。
「認めてくれ、青泉。」
 見ていられなかった。俯いてはならぬというのに、やつがれは居た堪れなくなってしまった。
 これは、『お互い様』なのだ。如何に身勝手であろうと、此方の都合を押し付けていようとも。
 そう言い聞かせ、やつがれは珈琲を再び飲む。温くなった事もあり、碌に味がしなかった。
「残酷だ。」
 低く這う声は間違いなく青泉のものだった。思い詰めた声音は、震えていた。
「お前に無理強いしたのは、確かに道理から外れていた。其れは認める。詫びもする。」
 吐いた息には膨れ上がった強い感情が含まれている。其れを、どうにかしぼませようとしている。湿っぽい空気に混ざる、ヒリヒリとした緊張感を感じ取る。
「お前に抱いてしまった感情其のものは、撤回出来ない。」
 青泉が机の上に置いた両手を握りしめる。手段を選ばぬ癖に、不器用な奴なのだ。青泉にとって無理難題を押し付けている自覚はある。
「だから、隣に立つ事も無理だ。そんな風に切り替える事は、俺には……!」
 頭を掻き毟り憔悴する姿に、やつがれは少なからず動揺する。感情を否定する事は難しいと知っている。其れでも、あっけらかんとしていた青泉が斯様になるほど、やつがれに惚れているとは考えていなかった。
 耳が痛くなる様な沈黙を和らげるのは、外から聞こえる風と、微かに揺れる窓の音のみである。
「――其れなら。」
 陰鬱とした空気を壊したのは、嵯峨崎であった。
「僕が立科先輩の隣に立ってもよろしいですか。」
 信じられぬ事を言い出した。青泉を遠慮なく蹴落とすと言っているに等しい。
「却下だ。」
 当然である。そういう意味での危険度合いであれば、最早青泉よりも嵯峨崎のほうが高いのだ。
「下心あっての事だろう、嵯峨崎。」
「な、僕は! 僕は純粋に、貴方を尊敬しています!」
「どの口が言う。」
 ピシャリと言い断つと、嵯峨崎は言葉を詰まらせた。反論を待たず、睨んだ儘、言葉で距離を取る。
「お前には借りがある。やつがれの不都合を忘れてくれた。だからお前の不都合を、やつがれも忘れてやるつもりだ。」
 こう言えば、聞き分けの良い此奴なら恥じて引き下がるだろう。そう踏んでいた。
「ご存知でしたか。」
 だが、其れは全くの誤りであった。
 ニヤリと歯を覗かせて笑う顔に、青泉もやつがれも思考が停止する。
 嵯峨崎は身振りを大きくして、こういうのはどうでしょう、と演説めいた口調で語り出した。
「庵野先輩が側にいないなら僕にとって好都合です。僕は心置きなく、立科先輩を追いかけることが出来る。」
 悪寒がする瞳だった。大型犬と言ったが、そんな柔和なものではない。狼か何か……肉を食らう獣の顔であった。
「でも、僕に易々と奪われるというのは、庵野先輩も許せないでしょう?」
 確証に満ちた言い方であった。見えもしない糸が、我等の身体に纏わりつく錯覚を覚える。嵯峨崎は一体、何をしようと云うのか。気が付けば全然すっかり嵯峨崎が優位に立っていた。
「僕と庵野先輩とで、互いを邪魔し合えば良いのです。そうすれば立科先輩が望むようになる。」
 鼻歌を歌い出しそうなほど、上機嫌な声音だ。不安と不快を混ぜた寒気が辺りに立ち込めていく心地がする。
「庵野先輩は立科先輩を、此の僕、嵯峨崎から守る為に隣に立たざる得ない。僕は僕で、立科先輩の逆隣に立って庵野先輩から立科先輩を守る。
 結果、立科先輩が望む事は実現される。」
 まぁ僕は、邪魔かもしれませんが。軽口を叩くが如く、ヘラリと人懐っこい表情を差し込んできた。何時もの嵯峨崎が浮かべる顔だ。然し歴然とした違いが、瞳の奥底にあった。
「上手いこと、行くと思いません?」
 蜜を溶かした瞳が、弓形ゆみなりにしなる。
 今迄は垣間見える程度だった歪みが、隠されることは無くなった。
 此れが嵯峨崎の本性なのか。其れとも、やつがれが此奴を壊してしまったのか。
「いつも通り、好きにしろ、と言えば良いのです。手を繋ぐのを許した夜の様に。深く考える事もせず引っ張られる方へ流される様に。さあ、永先輩。」
 頬を撫でようとする嵯峨崎の指先に、反射的に身を引いた。奥側の座席にいる為、逃げ出す事も出来ない。
 身を引いたのと同時に、青泉が嵯峨崎の手首を掴んでいた。
「永。駄目だ、此奴は。」
 獣が警戒心を露わにする声であった。眼だけで射殺せそうな程、敵意に溢れた気配でもって掴んだ手には、相当の握力が込められている。僅かに軋む音がし、嵯峨崎は眉を顰めた。
「俺が言うのも何だが……、此奴は間違いなく、お前を害する。
 此奴の思惑に嵌るのは心外だが、俺はお前の側に立つ。」
「決まりですね。」
 乱雑に青泉の手を振り払うと、愛想の良い表情で我等に笑いかけた。
「そうだ。未だ合同演説会の打ち上げ、してないですよね。此の儘、三人で夕食でぃなーと洒落込みませんか。お二人共久しぶりに会ったのなら、近況報告も兼ねて如何でしょう。」
 
 何なのだ、これは。
 元よりねじれていた関係が、更によじれ、結果、訳の分からない形に着地してしまった。
 歪な形であるというのに、安定してしまう気配がする。
 此れは互いを消耗し合う関係だ。嵯峨崎は行き過ぎた敬愛でやつがれを。やつがれは都合のいい友愛で青泉を。青泉は全くの敵意で嵯峨崎を……。
 
 何かを捨てなければ、脱せられない。
 だが此の状態で一体何を選ぶ? 
 辯論部や大学を辞めた程度では、嵯峨崎を振り払えないと確信していた。青泉も、やつがれが選択を誤れば、此の後輩を秘密裏に消す事だってありえる。
 
 強い目眩と頭痛に襲われ、頭を抱えた。
 雨は未だ止む気配は無い。
 
 ◆
 
 二人の追跡を断つ為、出掛けてくる、と一言書き置きを残して部屋を後にした。
 自暴自棄になる衝動は日に日に増していく。ギラリと光るアオバの歯と、剃刀の鋭さが重なる。
 いっそ一思いに、と薄っすら思う事が増えた。
 《立科永》の責務を果たす事より先に、背負わ無くても良かった重荷に押し潰されてしまう。
 然し今日ばかりは、ややこしい二人を撒いて一人で行くべきところがあった。約束の日である。 
 正午を過ぎ、幾らか陽射しが和らいだ事もあり、庭園は木々の薫り立つ、清涼に充ちていた。
 太鼓橋の頂上に、白い着物に薄藤色の羽織を身に付けた彼女が居た。やつがれは前の時と同じく、静かに横に立つ。
「お元気でしたか。」
「変わりは、ありませんわ。」
 良かったです、などとは言えぬ。彼女は変わらず苦しみの中にいる。掬い上げることが出来ぬ拳を握れば、掌に爪が刺さった。
 一言、二言。静かに近況について話す。たった其れだけの時間でも、やつがれの心は隅々まで晴れゆく様であった。
「……由芽子さん。何処か、遠くへ行きたいと思うことは有りますか。」
「遠く、ですか。」
 例えば紅葉が見事な山奥。例えば見渡すばかり新緑だけの春の山。指折り数えて行けば、二人が共に過ごせる場所は多く在るはずだ、という気が湧いてくる。
「遠く……。そうですわね。」
 何処も素敵ですわ。彼女は優しげに微笑んだ。近くを見ているようで、ずっと遠い景色を見ているような瞳であった。
「永さんは、自死について考えた事はありますか。」
 思わぬ言葉にギョッとする。思わず由芽子さんの顔を見つめれば、ポロリと雫が一つ、落ちていった。
「あの人ね、何人もの妾を囲っているの。地位も財力もある人なら、世間からみたら其れが普通でしょうけれど……。」
 声が次第に引き攣っていく。ガルベラは萎び、目の前にいるのは、年頃の気弱な女性に他ならなかった。
「もう、耐えられない。」
 くしゃりと顔を歪ませて、堰を切ったように雫が溢れる。指先で涙を拭い、彼女の肩に手を置いた。
「やつがれにとって、貴女は心安らぐ人です。」
 暫く、彼女の泣き顔から目を逸らさなかった。何もできぬ自らが出来ることは、彼女の苦しみを少しでも受け止めるだけである。
「秋の紅葉もみじや桜は此処で見れましょう。然し、遠くへの旅は叶わぬこと。此の儘では我々は此処から一歩も進めず、戻る事も出来ません。其れ位はやつがれでも分かります。」
 純粋に、悪くないと思えた。此の様な美しい景色の中、惚れた人と共に在り続けるのだ。恥辱と孤独ばかりが山積している現実に比べれば、救いの国への入り口にさえ思える。
 たった、此の橋から飛び降りれば済むことなのだ。
「道ならぬ恋に溺れるなら、貴女と共に死ぬほうが幸せだ。」
 彼女の手を強く掴み、由芽子さんを見つめ合う。はらはらと落ちる涙は、まるで金剛石だいやもんどが零れている様だ。
「愛のない生活の中で心を殺すなら、美しく閉ざしたほうが私は幸せよ。」
 儚い笑顔であった。何不自由なく、手に入れられる立場にありながら、漸く自らの心を掴んだ様にも見えた。
「すむ池の底は見えねど身は晴れず、ならばやならん、とわの藤波。」
 藤の花。初めて二人で此処に訪れた時、盛んであった見事な花幕。互いの心に寄り添い合い、やつがれの心が如何に支えられたか。
 白魚の指がやつがれの指に絡んだ。
 彼女の唇に吸い寄せられる。仄かな花の香りと、由芽子さん自身の匂い。
 触れるだけの口付けであったが、永遠を手に入れたとさえ思えた。不貞を踏み抜いてこそ、得られた幸福に、やつがれの心は決まった。
 夕陽が煌めく水面。光と共に咲く水花。辺りの木々の橙色した木漏れ日は、誰そ彼時なのも相まって黄金こがねにも見える。美しい物しか、目に入らなかった。
「由芽子さん。」
 其れらは彼女を引き立てる物でしかない。彼女こそ此の世で最も美しく、だからこそ、現世うつしよには馴染まなかったのだ。
 其の人と共に新たな扉を開けるならば、何も恐れる事は何も無い。
 太鼓橋の柵は易々と越えられた。僅かな足場を靴底で確かめる。由芽子さんの手を取り、彼女を此方へと引き寄せた。
 彼女の涙は止まっていた。代わりに、歓喜と安堵とが滲み出ていた。頬に触れ、再び接吻を交わす。
「永さん……。」
「貴女となら、何処へでも。」
 池を背にして固く抱擁を交わす。彼女は徐々に身体の力を抜いて傾く。やつがれも軈て重力に逆らうことなく、逆さまに落ちた。
 冷やかな衝撃に次いで訪れたのは空気の泡が爆ぜる音。目を瞑って、呼吸を止めた。水を吸った服は忽ちのうちに重くなる。
 腕の中の彼女を抱き締め直す。結っていた長い髪が解け、艶やかな黒髪が手に触れているのが分かった。
 嗚呼、此れまで。此れで良い。やつがれが彼女と共に死体となって浮いた所で、最早やつがれには何の関係も無いのだ。最期に彼女と共にあるなど、やつがれには勿体無い結末だ。
 例え、主幹とまだ充分に語らっていなかろうと、篤志家の期待を裏切ろうと……。
 
 流石に息苦しくなり、彼女を見遣る。せめて互いの苦しさを紛らわせられれば……と思い、腕の力を解いた。
 微笑みを湛え、何もかもから解放された表情は、此の池で泳いでいた錦鯉の如き姿であった。鮮やかな着物の色が、黒髪の天の川が、泥混じりの水中で艶やかに踊る。
 
 彼女は既に事切れていた。
 
 何故、同時に飛び込んだというのに。刹那、やつがれは理解する。
 彼女は草履を履いていない。橋の上で脱いできたのだ。最期にしな垂れてきたのも、息を吐いて力を抜いた為だ。 
 結局、やつがれ自身は死などは望んで居ない。死しても悪くない、と思っただけであった。証拠にやつがれは今でさえ、呼吸を止めて生にしがみ付いている。
 やつがれは彼女とは同じではなかった。やつがれは彼女と似てなど無かった。
 やつがれは、卑怯な畜生であった——! 

 由芽子さんは本当に死にたかったのだ!
 
 尋常では無い苦しみに身体が暴れ出す。夢中で水を掻き、無我夢中で陸へと上がる。
 多量の水を飲んだ。口の中は水が腐った様な藻の臭いが付いて離れぬ。上がった岸も雨後の泥濘ぬかるみで、直ぐに泥まみれとなった。
「ああ、ああぁ……!」
 死んでしまった。死ねなかった。
 
 やつがれは、やつがれは! 
 否、由芽子さんが——! 
 
 えずく合間に漏れる声は人とは思えぬ物となる。
 喉を割いても未だ出ずる。醜い獣の叫びが木々に反響する。頬や喉を掻いている内、血が滲み、泥と混ざった。
 
 由芽子さんの羽織は正に藤波の如く、静かに、水面に揺蕩っていた。