帝哭 ていこく ノ段

 其れは死に向かっているという感覚はなかった。例えば演舌会の準備の様であったし、晴れ舞台の為の根回しでもあった。成すべきを成し、動かした物を元に戻す作業に似ていた。
 昨日の騒動で散らかった床は其の儘だ。其れよりもやるべき事がある。やつがれは本棚を漁り、目当ての本を取り出す。
 やつがれが所有する物の中でも、最も過激な蔵書。青泉の伝手によって手に入れた、大陸帰りの活動家が記した本だ。著者は厳しい取調べの末に、既に死したと聞いている。今では此の本を持っているだけで、白い目で見られる事だろう。
 偏った思想にこそ、自身に足りぬ要素が詰め込まれているのが常だ。其れを知る為に目を通したが、捨てるに忍びなかった物である。特段、内容に同調した訳ではないが、此れは使える。
 やつがれは其の本を、昨日書いた手紙と共に、再生紙で包み紐で閉じた。宛先と差出人を記す。差出人は、城島先輩の名前にした。それからもう一通の手紙は、灰藤先輩宛てだ。此方の差出人は、誰の名も書かなかった。
 窓の外を見遣る。未だ学校は授業の真っ最中だ。誰にも怪しまれず行くなら今しか無い。思うが早く、やつがれは寮から靴を鳴らして、包みと手紙を携えた。
 息苦しい程の暑さの中、繰り出した街は埃っぽい。文化を練り固めた様に洒落た街並みだというのに、今日に限ってはよそよそしく汚らしい。学帽を被り直し、日射に目を細めた。
 額の汗を拭い乍ら郵便局へと赴く。経年劣化もあってか灰梅色の壁をしていたが、建物は何処と無く涼しげに思えた。
 中に入ると、郵便員が背筋を伸ばして勤労している。流石は東京の郵便局と言ったところか。量の多い郵便物を効率的に捌いている様である。
 程々に空いて居たので、受付の順は直ぐに回って来た。
「速達で頼む。」
 簡潔に用件を伝えれば、丁寧に包みと手紙を計りに掛けていく。テキパキとした動きは見ていて気持ちが良い。真剣な面差しで、やつがれの包みの中を改める事はなく、只の郵便物として処理していく。
 やつがれは学帽を目深に被る。顔をはっきり覚えてもらわれては困るのだ。其れよりも《帝都大学生》が、郵便局に来た事を印象付けねばならぬ。
「時間はどれほど掛かるだろうか。」
「お二つとも市内ですので、明日の昼には確実に届くかと。」
 丁重に扱ってくれと言うと郵便員は愛想よく返事をする。料金を払い乍ら、会釈を一つして背を向けた。
 愈々、やつがれの仕掛けが発火されたのだ。十中八九、やつがれの思惑通りになるだろう。
 そう思えた途端、血肉が湧き上がる程の昂奮に身体が揺れる。全身の皮膚が火照るのは気候の所為では無い。己を両腕で抱きしめる様にして、法悦に似た寒気に浸る。
 外に出ると、通り抜ける空気が清々しい。形容の出来ぬ高ぶりを一旦落ち着かせるべく、肺に一杯の空気を取り込む。
 遠くに吹く秋の風を感じ取りたかったが、相変わらずの日差しである。やつがれは空と街の境目を暫し眺めた。
 
 ◆
 
 寮に帰って直ぐ、やり残した事を思い出した。些細な物ではあるが、計画に罅を入れかねない。目的の人物の行動パターンは決まりきっていて、尚且つ分かり易い場所にしか居ない筈だ。
 未だ日が高い。彼は学内に居ることだろう。昼飯がてら課題の本を読むか、中庭の日陰で昼寝でもしているか。図太い神経の持ち主であるから、人が居ようと居まいと、のんびり過ごしているかもしれぬ。
「城島先輩。」
 予想通り、城島先輩は中庭の 長椅子 べんち に寝そべって休んでいた。背の高い けやき の下で、実に健やかな いびき をかいて居眠りしている。周囲には多くの生徒が行き来しており、やつがれと部長が対面している事を気に掛ける者は誰も居ないだろう。
 これ幸いとばかりに声を掛け、頬を突く。ふが、と鼻を鳴らして先輩は此方を見た。寝惚け眼が覚めるのを待つ必要は無いのだが、先輩の間抜けな表情が面白く、覗き込むようにして眺める。 鈍々 のろのろ と身を起こしたところで、先輩の両目に驚嘆が見え隠れし始めた。
「手拭い、有難う御座いました。」
 差し出すと、城島先輩はやや戸惑い乍も無言で受け取った。寮ではなく、態々学内で手渡しに来た事を疑問に思っているに違いない。詮索される前に立ち去るのが吉だ。
 では、と踵を返そうとすると、城島先輩はやつがれを呼び止める。其の声は何処と無く、やつがれの後ろ髪を引こうとする。刹那、木陰が風に踊り、夏の残滓が香り立った。
「香月と、話した。」
 声には未だ 睡気 ねむけ が横たわっているが、谷の湧き水の様に澄んでいて、不安などは一滴も含んでいない。
「そうですか。」
 背を向けた儘、返事をする。無意識のうちに安堵の息を漏らしていた。尚の事、もう思い残す事は無い。彼等の仲を裂かずに済んだのは、僥倖である。
「お前も帰ってこないか。」
 俺が全面的に謝罪する。そう告げられる事は予想外であった。振り返ると、胸を詰まらせた顔が目に入る。
 行き交う学徒の声が一瞬遠ざかったが、やつがれは小さく首を横に振る。甘美に響く提案に乗るには、時期が遅過ぎた。
「やつがれも、今は新たな倶楽部の筆頭ですから。」
 眉をハの字に寄せれば、部長は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。取り返しが付かぬ事をしたと、自責の念に駆られているのだろう。
 今度こそ、やつがれは先輩の側から離れた。一歩一歩進む毎に、城島先輩と重なっていた道から遠ざかっていく。もう二度と彼と会う事は無いだろう。やつがれは、良くも悪くも無垢で捻くれていない彼を、利用しようとしているのだ。
 外履きの底が石畳に擦れて、軽快な音を奏でた。次いで、講義の開始を告げる鐘の音が鳴り渡る。
「立科……?」
 背後で呟かれた名は、何故かやつがれの元まで届いたが、其れに反応してやる事はしなかった。
 
 ◆
 
 洋燈が必要になる暗さになった頃、灰藤先輩が訪ねて来たのは嬉しい誤算であった。灰紫色の黄昏に立つ灰藤先輩は、海外の童話に登場する気高い王族の様だ。
 そんな彼が、斯様に見窄らしい部屋を訪ねてくる心当たりは、一つしか無い。
「城島先輩に、何か言われましたか。」
 悪戯を見つけられてしまったた子供が、年長者の叱責を逃れる為にする様な笑みを向けてみた。
「様子が妙だと言っていたのでな。」
 蝋燭の光を受ける灰藤先輩は、幾らか緊張した面持ちだった。声も普段より硬質である。
 彼は、人の機微に対して敏感だ。やつがれの変化について、今迄勘付いてきた実績がある。実際、やつがれから発せられる微小な違和感を肌で感じ取ったのか、検閲するとでもいう様な目つきを此方へ向けた。
 誤魔化すよりは、手の内を曝け出した方が得策だろう。それに、彼宛へ手紙を認めていたが、行き違いがあっては困る。
「貴方宛に手紙を送りましたが、丁度良い。口頭でも伝えておきましょう。」
 散らかった部屋を訝しげに眺める灰藤先輩に、やつがれは最後の演舌を繰り広げる事にした。
「城島先輩の名前で、警察宛に速達でとある物を送りました。発売停止となった本と、告発文とを。」
 怪訝な顔をますます深める灰藤先輩は、非常に新鮮であった。嗚呼、常に冷静な彼がやつがれが描く奇劇のあらましを聞いたら、どのような顔をするだろうか!
 肋骨の中で跳ね回る心臓が、やつがれを急かす。早口になってはならない。明瞭かつ明確にして、忘我する程に聞き惚れさせねばならぬ!
 
 やつがれの筋書きはこうです。
 辯論部から離反したメンバアの中に、危険思想を持った者が居る。辯論部内で吊るし上げたが、一人でも活動する意思を見せた。予め口裏合わせをしておいた人間に監視を頼み、活動の様子を報告させていた。
 《寒蘭》のインタヴューを受けて居る事。
 メンバアに脅しをかけ県外に進出する人脈を盗ろうとして居る事。
 更には、否、何より! 辯論部の後援者であった柳夫人を唆し、情報を得、心中を持ち込み、彼女だけ死に追いやったという事を自白した! 証拠品は、立科永の自室である本棚の一番下に隠されてある。薄紫の草履がある筈だ。
 《民主倶楽部》の機関紙が作成されているが、其処に記された主張は表向き。政府に打撃を与えんとする計画を練っている! 
 誇り高き、帝都大学辯論部の部長として看過出来ぬ。故に危険思想の証拠に当たる物品を同送する──。
 
 灰藤先輩は、目を見開いて青褪めた。二の句が告げぬと顔に書いてある。其の表情は、やつがれの計画が充分に上手くいくと裏付けしてくれた。
「どうです。昨日今日の思い付きにしては、中々筋が通っているとは思いませんか。」
 口が良く回る。発音もまずまずであった。最後の雄弁としては、及第点であろう。久しぶりに、そして最後に心が満たされる演舌が出来たと胸を張った。
 そうとも。最後だ。
 やつがれは、活動家としての生命を断つと決めたのだ。由芽子さんへの罪を背負い切れず、またメンバア同士の諍いを解消出来ぬ不甲斐ない筆頭から降りる為だ。
 灰藤先輩は、今にも爆発しそうな焦燥を前面へ出して、やつがれの肩を揺さぶった。
「莫迦な事を……!」
 掴まれた肩に爪が食い込む。灰藤先輩の瞳の中が物凄い勢いで変化していく。恐らく止める算段を怒涛の速度で組み上げているのだろう。入道雲の変化を何倍にも短縮にした物を観察している様だった。
「私が郵便局に掛け合って、其れを阻止するとは考えぬのか。」
 冷や汗とも、脂汗とも区別できぬ物が、灰藤先輩の額に滲む。一通りの筋道が見えたのだろう。彼はやつがれを引き留めようと必死な様子だ。
 やつがれは静かな笑みを象り、彼の頬を両手で挟んだ。
「仰ったではないですか。」
 右手を取り、やつがれの左胸へと這わせる。薄い洋シャツ越しの肌を伝える為だ。
「やつがれの活動を側で観たい、と。」
 やつがれの鼓動は極めて正常な脈を繰り返す。当然といえば当然だ。やつがれは至極冷静であり、此の大それた計画は、大真面目に考えた結果なのだから。
「やつがれは、舞台から降りたいのです。」
 不意に鼻の奥が突っ張った。ついで胸腔の辺りに強い圧迫感を覚える。喉が鉛の塊を飲み込むかの様に、こくりと動いた。
 分かっている。呆気ない結末である。やつがれが理想とした物とは程遠い。然し、やつがれ自身がこの手で幕引きを行わねば成らぬのだ。
「最前席で、やつがれの終幕を……やつがれの行く末を見届けて下さい。」
 目の奥から滲み出る熱を堪えようとしたが、身体は言う事を聞かなかった。一粒零れれば、二つ三つと続いて落ちていく。
「最初で最後の、後輩の我儘です。力になって下さい。もう、耐え難いのです。」
 涙を流すつもりは無かった。此れでは泣き落としだ。瞬きをする度、瞳の雫が切られ、溢れていく。先程まで感じていた昂奮は幻だったのか、すっかり鳴りを潜めた。代わりに顔を出したのは、奈落を思わせるほどに心を刳り貫くいた、深い虚無であった。
「城島先輩は混乱に陥るでしょう。やつがれに辯論部へ戻って来いとまで言う程、甘えた人ですから。」
 灰藤先輩は、やつがれの涙を指の腹で拭い去る。見目に反して温かい手だった。無言の儘、苦悶の表情でやつがれを見つめる。いつもの美しい かんばせ はくしゃりと歪み、泣かんばかりであった。
「貴方の持つ力の全てを使い、やつがれの芝居を押し通し、城島先輩を守ってやって下さい。」
 有難い事に、やつがれは灰藤先輩に一目置いて貰えた。そして彼にとって城島先輩は大切な人間であるのは明白だ。
 此の願いは、聞き入れざるを得ないだろう。
 先輩は様々な思いを飲み込み、深く長い息を吐く。喉元にまでせり上がっている言葉の数々を無理やり踏み潰しているのだろう。
「……彼奴等に、何か伝える事はあるか。」
 誰を指しているかは明白であった。二人の顔を思い浮かべる。
 あの様に乱れた関係となっても、真っ先に思い出す表情は、皆でバアに飲みに行った日の物であった。遥か遠くへと消えてしまった日に、睫毛が涙に濡れる。
 やつがれは、奴等が断罪されるのは望んでいない。あるとすれば、踏み外した道から何とか元に戻る事だ。
「お前達は被害者である。お前達を狂わせたのはやつがれだ。やつがれへの想いは過ちである。因って、 早急 さっさ と忘れろ、と。」
 正当化でもなく、当てつけでもなく、心から願う事だ。あの凄惨な口論が起きぬのを望むし、制御できぬ程の衝動が消えるのを祈っている。
 やつがれが消えた後、あの二人がデモクラシーに影響を与える中心人物になる事は、明白なのだから。
「立科。」
 灰藤先輩は、最後に掛ける言葉を選んでいる様だった。何度か口を開いては閉じるを繰り返し、唇を噛んで引き結ぶ。
 やつがれの前に右手を差し出した。
「……。達者でな。」
「ええ。灰藤先輩も、お達者で。」
 固く握手を交わす。灰藤先輩は目に涙を溜めて居たが、覚悟と責任を背負った男の顔をしていた。
 出来の悪い後輩の不始末を負わせるのだ。本来なら何か礼を差し出すべきだが、生憎やつがれには何もない。
 
 何も。
 
 ◆
 
 斜陽過ぎ、真夜中の昏闇を経て、薄明かりが部屋に忍び込む。東の空の黎明が雲から漏れ出でて、淡紅色が新しい日を告げた。猶予は確実に無くなっている。
 簡単な身辺整理を行い、新品の洋シャツに着替えたやつがれは、アオバに掛けた儘だった布を取り払った。
 アオバは相変わらずだ。大口を開けて不揃いの歯を覗かせ、力の限りの叫びを上げている。
「お前の貰い手を考えて居なかったな。」
 出来る事なら、誰の手にも渡って欲しくない。然し燃やされてしまうのは勿体ない気がした。
「お前に魅力を感じたのは、結局やつがれだけであったな。」
 青泉も嵯峨崎も、アオバを見て顔を引攣らせて居たのが、随分と前の事の様だ。バアで出会った日から、やつがれはアオバに心を奪われたというのに。
「……アオバ。」
 不明瞭な顔に触れる。耳まで口を割く程の叫喚は、一体どの様な物だろうかと常々思っていた。
 今なら腹落ちする。ある種、此れは同調だったのかもしれぬ。所構わず泣き喚き、絶叫したくなる衝動は、今だって収まって居ない。
 自らの頬を指先で撫でる。肌荒れは無く、やや乾いた肌だ。
「アオバ。周囲の人間は、やつがれの外見を褒めるのが、お前から見たらどうだ?」
 問い掛けが返ってくる事はない。だが此の会話が、アオバとの最後のやり取りになるだろう。
 今日には警官がやつがれを拘束しに来るだろう。由芽子さんの不貞の相手だけではなく、彼女を殺めた罪人であり、其の上危険思想の持ち主であれば、動かざるを得ない筈だ。
 
 今更乍らに思う。
 
 やつがれの見目が、此度の ひず みを生んだのではないか。由芽子さんは、凛としたお顔と言ってくださった。嵯峨崎は、容姿端麗と評した。安賀多は眉目秀麗であると讃えた。
 斯様な顔でなければ、違う結末だったのだろうか。否、仮定から妄想を繰り広げたとて、恐らくやつがれの根底は同じだろう。
 淫売で、無価値で、優柔不断で、孤独に苛む人生には変わりない。根拠は無いが、確信があった。
 孤独。
 やつがれは孤独だろうか。篤志家に支えられ、此処迄来た。短い間であったが由芽子さんと愛し合った。青泉という親友、安賀多という信奉者、嵯峨崎という後輩、城島先輩や灰藤先輩……。
 人から敬遠される事も多かったが、決して一人だった訳では無い。
 然し、今は確かに、孤独である。
 嵯峨崎や青泉が此の部屋に訪ねてこない事から、灰藤先輩が手を尽くしているのは明らかだ。やつがれの希望通りになる様、邪魔が入らぬ様に何か言付けているかもしれぬ。
 やつがれには、もう止めてくれる人間など居ないのだ。誰も、──……。
 
 眼前に光が弾けた。
 何と卑しいのだろうか。到頭、終幕だというのに、やつがれは未だ観客を求めている。活動家生命を断つ為に自ら手を回したのだ。何に於いても死は常に孤独である。然し、未練たらしいやつがれは、其の孤独からまた逃亡しようとしている! 
 そんな者が、投獄され、取調べされたくらいで、活動家の座を諦められるのだろうか。思想を捻じ曲げ、喝采を浴びんが為に、再び誰かを巻き添えにするのでは──。
 アオバ。
 アオバは、常に孤独だ。心を通わせる事はない。だからこそ、此の表情だ。
 アオバがアオバたる所以を、俄然、正しく理解した気がした。
 
 そうか、アオバ。お前はずっと、やつがれに答えを示して居たのだな! 
 
 稲妻に撃たれたかの様な衝撃であった。ある意味、真理を得たに等しい! 何故、たったこんな事を思い付かなかったのだろうか! 
 床を這い、とある物を探す。記憶に間違いが無ければ、未だ何処かに転がっているはずだ。さして広くは無い部屋である。目的の物は直ぐに見つかった。
 昨夜、青泉がやつがれに向けた、剥き身のナイフである。
「はは、……! 此れは、そうか。所謂、神の思し召しとやらか!」
 刃渡りは十糎程度といったところだろう。鋭利な輝きを宿した鋼は触れただけで傷を負いそうだ。何より青泉の持ち物なのだ。ナマクラな訳が無い! 
 舌を切らぬ様、歯を浮かせて刃を左側の口角に沿わせる。氷の如く冷えた刃の感触は、奇妙な昂揚感を齎した。
 短い呼吸を三度し、一気に奥へ押し込む。みるみるうちに口内は鉄の味が満ちていった。
 焼け火箸を押し当てられた様な痛みが襲いかかる。勢いよく後ろに引き抜けば、口内が空気に触れる。
 文字通り風通しが良くなった気分である! 
 未だだ。もう片方、もう片頬も! 
 右側に刃を沿わせ、口を開いたまま右頬を耳に向かって裂く。肉が切断される音が頭蓋にまで響いた。繊維を切る手応えに、やつがれは歓喜に震えた。
 此れだ。此れで良い。此れならば! 
 頬が締まらねば、発音は出来ぬ。これでやつがれが演舌を振るう事もない! 
 其の上、此の顔ならば誰かを惑わせ、堕落させる事もない! 
 手放しで喜べる姿となったのだ! 
「ア、アァァァ──!」
 身体が千切れる様な嗚咽とも怒号とも付かぬ叫びが咽喉を破く。洪水の如き血流は喉を潤し、快感に感ぜられる程の奮激に酩酊しそうになる。激しい出血と激痛が意識を明滅させて立って居られなくなった。
 アオバへと手を伸ばす。経験した事の無い愉悦と倒懸の中、愛おしい同居人の顔を確かめたかった。否、心が急激に、アオバに対する枯渇を覚えた。
「あお、あおあ、あおぁ、アオ、……!」
 油絵の感触を期待して居たのだが、矢鱈とぬるりとしていた。自身の血の所為であったが、不思議な事が起きた。やつがれから吹き出た血を吸って、アオバはより深みのある色を見せたのだ。
 其れは丸で、欠けていた色を取り戻し、漸く本来の姿に近づいたかの様であった。
 
 アオバ。
 お前はやつがれを取り込んで、世を見てくれるのか。
 ならば、やつがれはお前を通して、この先の行く末を見届けるとしよう。
 
 ナイフを取り直す。
 もっと血が必要だ。アオバが命を宿すための、絶望を含んだ多量の血が! 
 アオバを床に倒し、やつがれは額縁を抑え込む。丸でアオバを組み敷いている体勢だ。痛みは上限に達した為か、然程感ぜられなかった。
 首を落とす勢いで、青泉のナイフを貫く。引き抜かねば。血を多く流すのならば!
 咆哮と共に無理矢理に抜けば、噴水の如く血が噴き出た。アオバはやつがれの血を飲み干していく。渇きに飢えた植物が、水を吸い上げて青々と輝く様に、アオバもまた姿を変えていく。
 信じられぬ事に、アオバはやつがれへと変貌を遂げた。額縁の中で裂けた頬を歪めて、微笑みさえ浮かべた。

 嗚呼、アオバ。
 やつがれはお前だったのか。
 倒れ込んで、アオバを見つめる。裂けた口唇同士を触れ合わせると、水中にいる様に身体が冷えていった。アオバの唇の感触は、温い粘土の様にも思えたが、それでも貪らずにはいられない。泥に似た味と血の香りは鼻腔を満たし、恍惚に引き摺り込んでいく。
 
 我等は、我等として、唯一である!
 肉体を手放そうとも、舞台から立ち去ろうとも、我等は慟哭を残すだろう。演戯に冴えた役者が、観客の目蓋裏に情景を焼き付けてしまう様に。
 ならば境界はたった一枚の幕である。慟哭の緞帳で閉ざされた彼方より、我等は熟視し続ける。
 
 我等は、業火に焼かれ灰燼に帰す迄、我等の激情と、哀哭と共に! 
 
 
 了