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 ヘッドホンの音量を上げて、遮断する。周辺の雑踏、話し声、息遣い、舌打ち。全てが雑音に過ぎない。駅のアナウンスはわざとらしいイントネーションの女性の声。機械で再生され続ける音声は、情報という付加価値のみを貼り付けて垂れ流される。
 営業回りをサボるサラリーマン。スタートアップメンバー気取りの意識高い系エンジニア。丸の内OLになれなかった美人風メイクの女。清掃業の制服のまま柵に寄りかかって飯を食う中年男女。
 どれも省略線で首から上を無くしたって動きそうな連中に溶け込むのがこの俺で、バイトを掛け持ちするフリーター。駅前の喫煙所で一服して四番線へ。それが昼勤の時の日課だった。
 正午過ぎの街中は色んな格好をした人間が溢れかえる。誰もが疲弊して見栄はって水面ギリギリで息継ぎをしてる溺れかけの奴ら。俺は普通の道から脱落した側の人間だが、俺とこの連中を比較してもさしたる差は無いと思えた。吹けば飛ぶような程度の価値しかないゴミの塊が、人混みを作り出す。飯を食うだけ食って浪費する物体の中で、紫煙を燻らせて突っ立ってる時間は、自らの辺りを見回せる貴重なひと時。
 昼間はコンビニ、夜はバーテン。バーテンといっても肩書きだけでたいした酒は作れないし、知識もない。ホールとして動き回り、雑用と簡単なフードを作って出すだけ。髪も服も自由にできる仕事は限られていて、しかしそれに甘んじている。
 酒を作らせて貰えないのは、年功序列と体育会系の縦割りを、足して質の悪い水で割ったみたいな古臭い体制と風潮のせい。カビが生えそうな所でも一度所属してしまうと抜け出すのも面倒で、ため息混じりに惰性で煙草を吸う。クリーンシガレットに唾吐きたくなるのはちっぽけな意地だけで、単なる貧乏性だとしても「結局お前も同じだろ」と思いながら灰皿でもみ消した。長い前髪の隙間から、最後の煙が滑り込んだ。金属粉末を無理矢理煙に含ませたみたいな、強くて不快な臭いが目に沁みる。
 
 二十歳になった。成人式に行った。地元の友達は居ないし居るとすれば元カノくらい。何となくスーツ着て、会場に行って、一服して帰ってきた。「お前誰だっけ?」と言われるのも苛立つし、「ああ、懐かしい〜!」と間抜けな合図を送られるのも面倒だった。俺が遠まきに、「ああ、そういえば居たわ、あんな奴」と思えれば充分だった。何となく会いたい奴や顔を見たい奴が居たはずだと思っていたが当人を思い出せず終いだった。
 当日、会場の人ゴミからは結局お目当ての人間を見ることができず心残りだったが、距離にして精々電車で一時間もない所で暮らしてる。いつでも来れるだろう。そう思って、見たい人間が誰だったか思い出す努力をせず帰宅した。
 両親は居ない。十歳になるころ、叔父にあたる人の家で育ったが、散々だった。居ないものとして扱われた方がマシで、必要としないものを押し売りしては、中学に上がったあたりから恩を返せと脅迫してきた。公立の高校に入学できたのは確かに資金面では叔父のおかげかもしれないが、替えが利く存在だと自ら証明しているのは笑えた。それに学力は俺の実力だというのに、進学校に進んだだけで周辺に自慢して回るのは馬鹿げていた。交換可能な価値なんて、誰かが真似できる。金なんて最たるものだ。出せさえすればそれで良いのに。
 叔父から逃れるべくバイトを始めた。誰からも隠れていた。近所の大学の目の前にある古めかしい本屋。ただの本屋ではなく、映画雑誌、脚本、音源、ポスター、パンフレットなど、映画に関する半分趣味みたいな店。オーナーは金持ちボンボンで、業界人ぶってる面倒くさい奴だったが、その空間は好ましかった。
 そこに立ち寄る客のほとんどは大学の演劇や映画のサークルに所属していた。ある種絶望したから、俺は進学をやめた。
 どいつもこいつも俺よりクズで、俺より不出来に見えたからだ。バイトをしていれば必ずといっていいほど居る。そこに来る学生連中は猿にしか見えない。そんな奴らが大学を卒業したあと、何かを成す人間には見えなかった。金をドブに捨てるのに等しく思え、ならば働きに出て稼ぐほうがマシだと考えた。とはいえ高卒が定職に就いたところで賃金はたかが知れている。副業できるアルバイターのほうが身軽だと判断して、今はこうして立派でクズなフリーター。
 
「おはようございます」
 裏口からバックヤードに入ると、パリッとしたシャツにくしゃくしゃ頭の店長が振り返った。遅めの昼飯中だったらしく、人懐っこい笑顔を浮かべて、箸を持ってない右手を挙げた。咀嚼して嚥下。茶を飲んで一息ついてから「おはよう土屋(つちや)くん。今日もよろしく」と言った。
 更衣室はカーテンで仕切っただけの空間だった。年上に対して表現するのも可笑しな話かもしれないが、小犬みたいな雰囲気を持つ店長なので、狭い空間に居ても嫌悪は抱かない。
 この人、若くみえるが歳はいくつだっただろうか。この店は客も程々に来るので潰れることは無いと思うが、コンビニ店長で一生食っていく人なのだと思うと、無性にやるせなく、そして憐れみさえも湧いた。ついでに言うなら人が良い性格に見え、要領が悪そうに見える。詐欺にカモられるような、無防備な人種だ。
「今日は七橋(ななはし)さんが十六時から二十二時まで。万津(よろづ)くんが十四時まで。土屋くんは十四時から二十時だったよね。お昼食べてきた?」
 簡単なメンバーの確認をしながら、俺に話しかけてくる。「はい」と「いいえ」だけを告げて、カーテンの仕切りから出た。薄緑色の、ミントっぽい色がうちのコンビニの制服だ。茶色のネームカードを胸元に差す。
「これ要る?」と差し出されたのは賞味期限がギリギリラインの鮭おにぎりだった。廃棄や見切り品を正々堂々と勧めてくる店長はこの人くらいじゃないかと思う。「ッス」と軽い返事をしてありがたく貰った。食費が浮くのは助かる。
 カバンの中におにぎりを放り込んでから店に出ると、店長が言ったとおり万津が居た。
「お疲れっス」
「おまたせ。上がっていいよ」
「や、あと十分ちょいあるんで居ますよ」
 万津は体育会系の、生真面目な大学生だ。授業が午後からだけの日は、朝から昼までのシフトで入っている。客も居なかったので、簡単に在庫やフードの状況を聞きつつ、キャンペーンの対象商品についての確認をしたが、それでも時間は余った。
 世間話として、前に聞いた話題を思い出しながら「結局髪型、どーすんの」と聞いてみた。万津は柔道を高校までやっていたのでガタイが良い。坊主に近い髪型にしていると、いかにも「怖い人」に見られて困るのだという。髪を伸ばしてみてみたものの、どうしたら良いのか分からない、という回答に、万津らしいと笑ってしまった。
「その髪型っていうか、前髪、目ェ痛くないんですか」
「別に。結構見えてるよ」
 俺の前髪はかなり長い。長い部分を水に濡らして櫛を通すと、毛先が顎まで来る。適当に梳いてセットしているので、そこまで不気味な面構えにはなっていないが両目に掛かって簾(すだれ)みたいになる。髪型自由なバイトをしていると楽なものだと思うし、実際そこを重視して選んでいた。
「土屋さんみたく、背ぇ高くてスラッとしてたら、そういうのも似合いそうなんスけどね」
「筋肉つきにくい俺に対する嫌味かよ」
 冗談めかしたやり取りの中で、万津は可愛がられるタイプの後輩だと思う。真面目だし、勉強漬けになっていると聞く。将来は整体師になるべくダブルスクールをしているというから、聞かされた時は驚いた。
 ふと、その理由が頭を擡げる。専門卒よりも、四大卒が有利だからとキッパリ言ったのだ。学歴主義はクソだけど、うまく使わない手はないと笑っていた。
「この後、大学の授業?」
「あ、ハイ。夜は専門の方ッス」
「大変だね」
「好きでやってることッスから」
 迷いなくそう言って、バックヤードへ引っ込んで行った。軽く手を振って、顔の表情筋がだらりとする。
 猿みたいな人種とは違い、真っ当な学生はああいうものだ。未来を考えて、その為にもがいて、苦労して、それでも笑う。
 
 俺は? 
 
 他人と比較して気分の浮き沈みを起こしても意味がない。まずは目の前の仕事に集中しなければ。そうすれば、一瞬は忘れられる。それが時間を二束三文で売り渡しているとしても。
 
 ◆
 
 七橋さんは近所に住む女子高校生だ。進学校の生徒だが、社会勉強を兼ねてのアルバイトだという。進学した後は一人暮らしをしたいので、今のうちに慣れておきたいとも言っていた。勤勉な人材が揃っているのは、店長の人を見る目が正しいからなのかもしれない。
「土屋さん、お疲れ様です」
「お疲れ様」
 黒髪ボブで、一重の目。それでもそれを生かしたメイクを施していて、クールビューティな雰囲気を纏っている。絵を描くのが趣味だと言って、自分から進んでポップ作りをしたり、ブラックボードに白のマーカーでカフェ商材のメニュー書きなどをしたり、色々と得意なこともやってくれている。
 夜のピークに備えてホットスナックの充填が終わったところで、そろそろ配送が来る頃合いだ。品出しに備えて機械の確認をしつつ、彼女とも世間話をする。
「土屋さん、休憩とりました?」
「暇だったから特には。ああ、タバコは店長と入れ替わりで吸ったから大丈夫」
「銘柄、セブンスターでしたっけ。美味しいんですか?」
「まぁ、極限に疲れてる時は。それ以外は普通。興味あるの?」
「好奇心はあります」
「吸わなくていいよ、あんなもの」
 そう言うと、彼女はクスッと笑った。ニコチン依存者の矛盾した言葉が少し可笑しかったのかもしれない。彼女の様な存在からしてみれば、俺の様な奴は、バイトくらいでしか出会えない種類の人間だろう。俺自身、進学校出身だからこそ思う。進学もせずフリーターとして生計を立てるなど、選択肢の一つにもならないのだ。だが見下す素ぶりなく──その心の中は分からないとしても──、違う価値観を持つ人間として接する距離感は心地良い。
 このバイトは平和だ。世話焼きの店長に、生真面目純朴な男子大学生、トゲがなく会話できる女子高生。他にもあっけらかんとしているオバちゃんが複数人いるが、どれも俺の嫌悪する、自堕落なクズが居ないのだ。
 ピーピーと、一定間隔で鳴る音が外から聞こえる。トラックのバック音だ。配送がやってきたのだろう。
「じゃ、ここよろしく」
「承知しました」
 未だに安蛍光灯が使われている看板の明かりが、外の駐車場でパッと光った。十六時でつく設定ももうすぐ切り替わる。
 
 ◆
 
 バーの職場に比べれば、コンビニバイトはとてつもなく平和だ。例えピーク時間帯が目の回る様な忙しさだとしても、クズみたいな客が来たとしても、同僚に恵まれているというのは大事なことだ。フリーター生活の中で骨身に染みるほど実感しているのだが、しかし決断力もないので、二十二時を回った俺は未だにこのバーカウンターから脱出していない。
「いやね、コイツほんっとに入ってきた時は使えねぇ奴でさ。オレがここまで育てたってわけ」
 常連客相手に口を滑らかにして言葉を垂れ流している。俺は肯定とも否定とも取れる笑みを浮かべてグラスをひたすら拭いていた。洗った後のグラスは手で直接触れてはいけない。柔らかな素材でできたクロスで丁寧に扱わねばならない。台座とグラスボウル部分を捻るようにするのはNGなのだ。この男はそんなこと一つも理解せずに、こうして俺に雑務を押し付けて客と会話らしきものを楽しんでいる。
「マチ君は後輩できると同じこと言うよね」
「そーそー、オレが育てた奴はすぐ独立してくから!」
 今すぐその口を閉じろ、と思う理由は二つ。客が望みもしない会話に区切りを付けたがっていること。阿呆な勘違いをやめろということ。居なくなった人間達は育って巣立った訳ではなく、単にお前にウンザリしたからだ。
「チャラく見えるけどさぁ、オレは師匠のお墨付だし? この界隈って超縦割りなのよ。だから、こうして色々経験積ませてるってわけ」
「ふぅん」
 若い女性相手に、店員同士のマウントを見せつけてどうする。合図も出せないので咳払いするくらいしかできない。気まずい空気を醸し出してちらりと客に目配せすると、申し訳なさだけは伝わったらしかった。「いつもの事よ」と言いたげに、目元を緩ませてくれたのが幸いだ。
 濃い青のシャツに黒のVネックエプロン。ギャルソンユニフォームを一目見て気に入ったことと、給料が良いことが決め手となってここのバイトとして入る様になった。バーテンダーという肩書きはあるが、それだけだ。滅多に表に出てこないオーナー、店を任されている店長、場を取り仕切っているのはこのクソヤローのマチと他数名。
 店の内装はレトロなショットバーとカフェバーを足して割った様で、カジュアルにも見えるしお忍びにも使えそうな雰囲気だ。そこは気に入っている。オーナーの趣味を詰め込んであり、知る人ぞ知る隠れ家でもあり、誰でも訪れて良いという二面性を両立したかったのだろうと見て取れる。カウンター席の他にはテーブルが五つ。集団は入らないが、グループなら収まる。お一人様はカウンターに通すので、必然こうしてバーテンダーが話し相手になる。
「ね。どっちが作ってもいいからさ何か甘くて飲みやすいの、作ってよ」
 落ちかけたグロスと前の酒で濡れた唇。そこに少しの媚びを織り交ぜた声が、耳を撫でた。
「おい、ドボン。オレの技術は見て盗めよ」
 ドボンというのは、ここでの俺のあだ名だ。土屋の文字が、店長の汚い字のせいで土門に見えたことから由来する。それが濁って、蔑視込みでドボン。
「よろしくお願いします」とか適当なことを言って、雑に計量したものをシェイカーに入れていく。レシピから組み立てて、何の酒を作っているかはすぐにわかった。マチがシェイカーを振る姿を眺める。作らせる気が無いくせに、そして俺が雑用以外のことをしないように監視しているくせに、客がいる前ではカビた職人じみた台詞を吐く。石を投げ込むような言葉や態度は取らないと決めている。磨き終わったグラスを置いて、マチだけでなく、ヤツを熱心に見つめる客を見ていた。クソヤロー相手でも、思いを寄せてしまうのは、人間ならば仕方のないことなのだろう。この人を昼間に見かけたら「丸の内OLになれなかった美人風」と判を押すだろう。そして今でも、そうとしか見えなかった。
 洒落た店に、お一人様。初めは穏やかなひと時を過ごしたいからこの店を選んだのかもしれない。今ではこの男に会いたいから来ている。欠点が見えたとして、それがかえって魅力だと言わんばかりに受け入れているつもりなのだろう。だがその実、そうではない。退屈そうな素振りを見せるし、ウンザリしたら酒を作らせて理想的に振る舞う姿を鑑賞する。
 カウンターの区切りは動物園の檻や柵と変わりやしない。向こう側からしてみれば姿を眺めるだけで良い。こちら側、檻の中は劣悪な環境だ。餌がわりの金は出るが、ボス猿に付き合わされる下っ端は言い様のないストレスを溜め込み続ける。
「はい、お待ちどうさま」
「ありがと」
 紳士めいた手付きで酒を差し出す。フラミンゴレディだった。グラスの縁をシロップで濡らして砂糖をまぶし、スノースタイルに仕上げられていた。ウォッカベースで、ピーチリキュール、パイナップルジュース、レモンジュースを材料にしてシェークしたもの。うちでの隠し味は何だったか。なるほど、フラフラした女には最適か、と頭の中で吐き捨てた。
 どうせ飲みやすい、美味しい、などと語彙の少ない感想しか出てこない。哀れみさえ抱いて笑えてくる。顔を歪めようとして思い留まった。今の髪型は、前髪も含め後ろに撫で付けたオールバックだ。簾の前髪が無いのだから、醜悪な表情を晒す訳にはいかない。
 グループ客が入ってきたので、案内するためにカウンターを離れる。マチも客も、二人で話したいと思っているだろう。俺は喜んでホールに出た。
「いらっしゃいませ」
 そうして初めて、俺はようやく笑えた。