硝子の鱗

 日差しが辛い。そう言うと「医者の不養生だナ。」とM先輩は笑う。鋼の様な身体つき、真っ黒に日焼けした肌。彼の笑い方は高校の時から数えて十五年、一切変わっていない。
 海に面したこの街は天気が変わりやすい。五月だというのにまるで真夏だ。暑気あたりで担ぎ込まれる町人がいるだろう。水風呂を溜めておかなければならぬ。しかし、M先輩は俺の都合は何も考えず只管引きずり回す。
「イヤ、お前に診てもらいたい奴がいてナ。漁師連中じゃあ、皆目見当もつかんのだ。」
「俺は、元々外科医ですので、役に立つかどうか。」
 まァ良いから、と押し込まれた民家には布団が敷かれ、周りをぐるっと数人が囲んでいた。布団の中には、M先輩と同じく、若手を束ねる主格を務める男が転がっている。
「ああ、K先生。どうかうちの人、診てやって下さい。」
「状況と症状を、まずは。」
 聞けば漁から帰ってきてから三日ほど、反応がなくぼうっとしているのだという。話しかけても上の空、食は細く、眠りも浅い。病では無いが虚脱状態にあり、仕事どころではないという。
「こんにちは、俺が分かりますか。」
 半目の黒色がこちらへゆっくり向く。焦点が徐々に合う。上下する腹から呼吸は正常であった。
「……先生。……忙しいのに、すまんねェ。」
「構わんさ。海で何か、あったのか?」
 ゆっくりでいいから教えてくれ、と付け足す。彼の目玉が右下、左上に動いた。散漫になった意識をかき集めているようだ。
「信じてもらえるか、分からんが……。」
 重々しく口を開く彼から飛び出た話はにわかに信じがたいものだった。
「人魚?」
「間違いねェ。」
 漁をしている時に、彼は人魚と思しき存在に出会ったのだという。銛で突いたが逃げられ、海に飛び込んだが追いかけられなかった、と。
「ありゃ、人間の泳ぎじゃねェ。青っぽい目に、コーヒー牛乳みてェな髪で、……。」
 それきり彼はまた黙り、眠ってしまった。 静かすぎる寝息だけが繰り返される。
「人魚、と来たか。」
 先輩は後頭部をガリガリと掻く。溺れかけた人間が可笑しな物を見たと言うことは、実は珍しくない。しかし彼は命の危険に晒された訳ではない。誤って足を滑らせて落ちはしたものの、自力で上がれる状態だった。つまりは比較的正常な精神状態で、其の人魚を目撃したのだという。
「ねぇ、先生。うちの人、大丈夫よね?」
「当然だ。人魚に魂抜かれるなんて、あってたまるか。」
 吐き捨てるような台詞になった。緑の目に、コーヒー牛乳色の髪だって? 
 俺は一つ深呼吸をして、身体に異常が無いかだけを確認する。心拍、呼吸、心音共に正常であった。
「気付の薬は置いておく。目が覚めたら飲ませてくれ。疲れが溜まっているのかもしれないから、先ずは安静に。」
 俺が出来る事は大して無いが、気休めも必要だ。退出するとM先輩も付いて来た。
「Kよ。……お前、まさか。」
「Sの事でも、考えていると思いましたか。」
 頭一つ高い彼は、懐っこい貌を強張らせた。
「俺はいつでも、奴の事を考えていますよ。」
 十五年に渡って。そう言うと先輩は苦虫を噛み潰したようだった。
「今日は暑くなります。日射病に気を付けて。若い衆に無茶させんで下さいね。」
 俺は来た道を戻るべく、ひらひらと手を振り、自宅兼診療所へと向かう。
 俺がここで医師としてやって来たのは三年ほど前だ。今ではすっかり馴染んだ。何年も時の流れを止めたこの町は海があり、山があり、湖もある。医療技術を身につけるべく海外留学までしたが、都心の病院ではなくここに落ち着いた理由はたった一つだ。
 自然に囲まれた土地、煌めく海、輝く空。Sと過ごした日々は——特に、最後の夏は——俺の目に焼き付いて離れない。
 親友Sは、高校の時に死んだ。西洋人のハーフであったため日本人離れした見た目であった。見目麗しく、天使か妖精と見紛う姿であった。彼と俺は、竹馬の友であり、好敵手であり、そして恋仲だった。青とも緑とも言えぬ瞳の色に恋い焦がれ、キャラメル色の髪に指を遊ばせた。
 自宅の鍵を開ける。元は別宅だったのを改装し、診療所として機能させている。小高い場所にあるため年寄りには少々通いづらいかもしれない。
 真っ直ぐに伸びる廊下の突き当たり。そこは俺だけが入れる部屋だ。
「ただいま、S。」
 彼の写真、彼が使っていたもの、彼が身に付けていたものを保管し、それらを眺めるための場所。ここは彼と夏休みごとに遊びに来て、そして愛を囁きあった部屋だ。
「今日は朝イチから連れ出された。全く、M先輩はいつだって強引だ。」
 そう、俺がここに引っ込むと決めた日もそうだった。彼は何故か造船所の中継地を新たに開き、担当監督としてここに移住すると言い出したから驚いたものだ。
 窓辺から吹き抜けていく風は若草の薫りを孕んでいる。嗚呼、全く、ここは本当に何一つ変わっていない。川のせせらぎを聞き、夏休みの宿題を片付け、料理を共に口にして、布団を並べて寝たあの頃から……。
 海辺の光線はSの肌を焼いた。砂まみれになった笑顔に目を細めた。海に溶けるような錯覚と共に、背後から抱き締めた最後の夏。口付けを交わせばよかったと、今では思う。
「日差しは、お前を焼いてしまったからな。好きになれん。」
 水風呂を溜める用件を思い出した俺は、部屋に錠をかけながら「ならば氷も作らねばなるまい」と独りごちた。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 夕方から夜にかけての海を、眺めるのは好きだ。若き月が揺蕩い、遠くから星影を揺らす。毎日眺めているからこそ、其の変化にはすぐ気がついた。
「光、の帯?」
 夕陽が作る反射かと思えたが、それは天の川の如く伸びていた。凪いだ海だ。何かが滞留しているようにも見える。漁港がある海とは逆方面であり、かつ一部の海辺は俺の土地だ。好奇心には勝てず、とうとう小舟を出す。
 比較的浅い所にキラキラとしたものが続いていく。掬ってみると薄いガラスに似た何か、という事しか分からなかった。
「あれは……。」
 それを辿っていくと、人一人がやっと通れそうな穴ぐらを発見した。日は沈みかかっているせいか、謎の光の粒は輝きを増すばかりだ。
 降りられそうな場所を探し、小舟で乗りつけた。薄暗い所であったが、どうにか目は効いた。
 細かな光の粒は、陸に上がっても続いていた。中はフラスコグラス状の形をした、やや広くなった空間が広がっていた。其処で信じがたい物を目の当たりにする。
 魚にしては大きすぎる尾鰭。鯨や海豚とも違う造り。滑らかな曲線を描く煌びやかな鱗、それに覆われたしなやかな筋肉。そして人間の少年……いや、人間に近い肌をした、少年に似た何かの上半身。
 どこからどう見ても、人魚であった。
「何てことだ、……。実在するとは。」
 乳房は無い。男の人魚もいるのか。体長は2Mほど。突っ伏した体勢であるため貌は分からぬ。もしかしたら魚に近い頭かも知れない。だが毛髪はミルクを溶かした珈琲と同じ色だ。……丁度、Sと同じ色。
「馬鹿馬鹿しい。」
 観察を兼ねて近づく。ピクリともしないので死んでいるのかもしれない。不意に薄いガラスを踏みつけたような音が鳴ったので、思わず足元を見遣った。
「鱗……。なるほど。」
 煌めきの正体は、この人魚の鱗であった。どうやら尾鰭に近い——人間のバランスで考えるならふくらはぎに当たる辺りかもしれない——に傷を負い、それが剥がれて筋を作り出したらしい。なるほど、身体を休める為に安全な場所へ雪崩れ込み、そこで息絶えたのか。
「可哀想に。しかし、魚の怪我は治るものなのだろうか?」
 独り言を零しつつ、仰向けにさせた。脱力した身体を動かすのは慣れている。
 露わになった貌に俺は釘付けとなった。
 筋の通った鼻、和毛の睫毛、形の良い厚みがある唇。
 蒼褪めた生気がない表情でも、それは俺がもう一度会いたいと願っている存在に瓜二つであった。
「S……!」
 脈を取る。微かだが動いている。人間と同じ基準で判断とするならば、体温が低すぎる。恐らく失血しすぎている。
 俺は医者だ。あいつは死んだ。ならば俺の為すべきは。
 
 死なせない! 絶対にだ! 
 
 ◆ ◆ ◆
 
 運び出すのは不可能であったため、傷口を塩水で浸す。と言っても海水を汲んできた物をタライに入れて、患部をそこにさらしているだけだ。定期的に新しい水に入れ替える。それから毛布で人肌に似た部分を包んでやった。
「人魚は肺呼吸なのか、エラ呼吸なのか……?」
 分からない事づくしで、出来る事が殆どなく、焦燥に駆られる。魚は人肌で火傷するというし、火を起こして問題ないという確証が持てず結局やれず仕舞いだ。ランタンを岩肌に引っ掛け、光源を確保した。
 輸血という概念も通ずるか分からない。それでも呼吸の安定と血色よい唇になったので、あとは暫し様子見だ。
 彼の肌はきめ細かな光を放っている。初めは分からなかったが、今まで見たどんな物より、ずっと細やかで柔らかな鱗に覆われていた。触れればしっとりとしており、絹のような触れ心地であった。
「S……。」
 見れば見るほどそっくりであった。天使と見紛う容姿。女人のような肌触り。長い睫毛が明かりに照らされ、繊細な影を作り出している。どこを取ってもSしか思い出せない。
 
 やがて、夜明けが迫る。
 美しい朝焼けと共に、彼は目を覚ました。ゆるゆると開かれた瞳までも、Sと同じ美しい色合いだ。堪らなく泣きたくなる。
「おはよう。」
 何か話しかけねばと思い、咄嗟に出てきたのは挨拶だった。人間の文化が魚に通じるか不明だが敵意がないことを示さねば。上半身を支えて起こしてやれば、自身が置かれた状況を思い出したらしい。
「……。……っ、……!」
 何かを伝えようとしているが、発声される訳ではなかった。口は動いているし、身振りもある。意思の疎通は出来そうだと判断した。
「俺の言葉が分かるか。分かるなら地面を二度叩け。」
 人魚は慌てて、手のひらで地面を叩いた。
「声が出ないのか?」
 再び二回叩き、しゅんとした表情になる。思っていたよりずっと人間らしい。
「お前は怪我をしている。俺はそれを治したい。理解出来るか。」
 満面の笑み。益々S其のものだ。とうとう堪えきれず、涙が溢れた。
「嗚呼、すまん。お前が無事に目を覚まして、安堵したのだ。」
 一瞬、驚きで彩られた表情となったが、また花が零れる笑顔となる。 Sではないと分かっていながら、心が締め付けられる。
「……、何を?」
 頬に彼の指が触れる。指の腹で泪を拭われる。手の甲や手首には丸い鱗がある事を知る。指先は滑らかで柔らかい。心地よく、ずっと触れられていても良いとさえ思えた。
「もしや、慰めてくれているのか。」
 こくり、と頷く。不意に人魚の貌が近づき、目元に彼の唇が触れた。
「ン、」
 泪を啜られる。以前俺が、Sにした行為だ。Sの泪は何故か甘く感じたものだった。それを今、彼に似た人魚にやられ、くすぐったさに笑う。
「友好的で助かる。」
 ふわふわとパーマがかった髪を撫で付けた。指にくるくると巻きつけ、手遊びをする。
 不意にぐぅと間抜けな音が響いた。互いの腹が空腹に耐えかねた知らせであった。
「……飯にしようか。持ってきてやる。」
 朝焼けに輝く海に、広大さを思い知る。
 奴は天使ではなく人魚として生まれ変わったのだろうか。仮にそうだとしても、そうではなくとも、この広い海を住まいとする彼と、陸で暮らす俺が出逢えたことはまさしく神の悪戯だ。
 すぐ戻る、と洞窟を後にする。不安げな瞳が愛おしい。
 さて、人魚の食い物は何が良いか考えなければ。こんなに晴れやかな朝は一体いつぶりだろう。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 すぐに用意できるものが缶詰と干し魚、林檎しかなく、食えるものを知る為にありったけを持ってきた。回復させる為には消化が良いものを摂る必要があるが、そもそも人魚の構造を知る必要がある。消化があるならば排泄があるはずだ。
 診療所は休診日と札をかけておいた。お節介なM先輩に押入られる可能性もあることから、さっさと帰るのが望ましいが、目の前の人魚男から俺は目が離せなかった。
 初めて見るらしい缶詰の形状に不思議そうな貌をされた。蓋を開け、スプーンですくった鯖の味噌煮を口に突っ込む。目を丸くしたかと思えば、両頬を抑え、何やら感激していた。
「美味いか?」
 こくこくと何度も頷く。スプーンを持たせると不器用ながらも自力で食事をし出した。食欲アリ、とカルテに記入する。
 鯖缶の他に林檎を食すことも分かった。摩り下ろしたほうが良いかと考えたが、嬉しそうに丸ごと齧るので其の儘にしてやる。俺は俺で、其の様子を眺めながら食事を摂った。
「こうしていると、世間知らずの子供と大差がないな。」
 乾燥するといけないので、タライに汲んだ海水に手ぬぐいを浸し、それで肌を拭く。人魚はされるが儘であった。傷口を見れば、回復し始めているのが見て取れる。新鮮な海水に替え、傷口を浸した。魚で言うところの塩浴だが、海の生き物の怪我に対して本当に有効なのかは疑問が残るが、感染症を防ぐ手立てになるかもしれない。
「さて、問診だ。いくつか質問をする。『はい』なら頷け。『いいえ』なら首を振れ。分かるな?」
 自信たっぷりに頷く。今までの素振りからして、この人魚は人懐こい陽気な性格をしているのだろう。
 傷は痛むか。他に怪我は無いか。ここ三日ほどで出来た傷か。
 なるべく説明が要らない質問を選ぶ。
「これは人間に付けられたのか?」
 即答していた人魚の貌が曇る。迷っていたが、やがて頷いた。
 三日ほどに出来た傷で、人間に付けられた。ならば傷の形状とも辻褄は合う。昨日診察した患者の仕業だろう。彼を銛で突いたという発言とも合う。銛は抜けはしたがそれは肉を抉り、出血が止まらず、弱っていった。休む為、人を避けて泳ぐうちここに辿り着いた。そんな所だろう。
「よし、分かった。治るまで面倒を見てやる。」
 人間であれば大怪我であるし、縫わねばならぬが、先程診た様子だと必要無さそうであった。傷の奥底は肉が膨らみ、結合し始めていた。
「そういえば、俺が触れると熱くないか。何ともないか?」
 キョトンとした表情であった。やがてクスクスと笑い、俺の手を取り、人魚の頬へ誘導される。
「大丈夫、なのだな。」
 溶けるような笑み。それから少し大人びた雰囲気。十代半ばの少年の見た目をした彼は、もしかしたら俺よりずっと年上なのかもしれない。頬や耳に触れると、猫が撫でるのを強請るような視線を寄越した。誘われるまま額にキスすると、照れる様な様子を見せた。
「また昼に来る。暑くなるようであれば、水浴びすることは許可する。ただし傷口は地面につけないように。」
 ちゃんと出来るな? と頭を撫でると、人魚は力一杯頷いた。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 人魚の存在は、秘匿すべきものだというのは十分に分かっている。だが、仮に俺があの人魚の存在を町中に言いふらしたところで、俺の過労による幻覚を疑われるだけだ。
 存在に感づかれたくないが、情報は欲しい。あの人魚がどこから来て、何者であるのかは知らねば気が済まない。  ……否、気が済まぬというよりは、証拠を得たいのだ。あの人魚が、Sとは全く無関係の存在であると──。 「M先輩。よろしいですか。」
「おお、Kよ。お前から来るのは珍しいナ!」
 先輩の仕事場へ顔を出す。彼は造船所を事業として立ち上げ、忙しそうに働いている。仕事熱心であるが故に、自ら現場に赴き、職員と寝食を共にする生活を送っている。元の生まれは貧しかったと聞いているが、今では若き事業家であり、土と太陽に塗れずともいい身分であるが、性分でないらしい。
「調べて欲しい事が。」
「良いとも。あぁ、君! その木材はあっちの地点へ!」
 忙しそうに指示を飛ばす先輩だが、実に楽しそうに働く。簡素な休憩所へ腰を下ろし、茶を頂いた。
「それで、どんな内容だ。」
「少々、オカルティックな事を申し上げます。」
 人魚の傷口から察するに、彼は多量の血を海水と共に浴びたはずである。そして、其の後混乱に陥った事だろう。であるならば。
「人魚の肉についての伝承はこの町にありますか。」
 案の定、先輩は眉を顰めた。
「あるには、ある。それを祀った祠もある。だが、何故だ。」
「彼の話が嘘でない、というのを前提に置くならば。もしかしたら彼は、人魚の血を浴びたのかもしれません。」
 先輩は頭をガリガリ掻いた。内容が内容であるし、現実主義的な俺がそんな話をする事自体、先輩は理解が出来ぬだろう。
「本気で言っているのか。」
 勿論です。と即答すると先輩はウロウロと辺りを歩き回る。昔からの、考え出した時のクセだ。
 やがて、これはオレなりの持論なんだが、と話し出した。
「人魚の肉を食せば不老不死を得る、という話はこの土地にもある。だが大抵、大きな利益を得る場合は、例外なくリスクがあると踏んでいる。」
 先輩は歩みを止め、冷たい茶を一気に流し込んだ。
「不老不死を齎すのであれば、それはきっと劇薬だろう。」
「其の通りだと思います。」
 今日も暑い。あの洞窟はヒンヤリとしていたから余計に暑く感じる。俺も先輩に倣い、喉を鳴らして茶を飲んだ。汗が一筋、首筋へ流れていく。
「では、血はどうなのか。先輩ならどう考えますか。」
 焦げ茶の瞳が、俺の目の真ん中をジッと見つめる。三拍置いて、先輩が口を開く。
「……恐らく、不老不死とは行かずとも気付になる物体だろう。だが強すぎれば……、或いは、身体に合わなければ忽ち弱ると思うワ。」
「……馴染むまで時間がかかる可能性も。」
 じっと互いに見つめ合い、やがて席を立つ。
「二、三日の間は定期的に診る事にします。……出来る事はあまり無いですが。」
「イヤ何。海の近くで働くと、神の思し召しと感ずる所もある。一先ずお前を信じて、オレも動くとするワ。」
 にかっと笑う男は正しく海の男だ。この真っ直ぐな人柄に、俺はいつだって助けられている。
 それでも、心はずっとSに囚われたままだ。そして今は。
 《早くしなければ。昼前には、人魚の所へ。》
 今は、人魚の彼へ奪われている。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 洞窟へ小舟で乗り付けると、彼が水を跳ねさせた。どうやら水浴びをしていたらしい。
「……!」
「何だ。俺が来て、嬉しいのか。」
 影になっている岩場へ腰掛けると、人魚は俺の隣へとやって来た。言い付けは守られていた。傷口が地面に擦れないよう、器用に身体をくねらせている。
 手を差し伸べると、頬を擦り付けて柔らかな笑みを浮かべた。猫が懐いた様な嬉しさと、Sの面影による懐かしさと愛おしさで胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
「ん、どうした。」
 何か言いたげにして海を指差す。白魚のような指、という形容があるが、彼の指はそれに値する。
 見ていて、と言われている気がして暫し彼の様子を伺う。
 くるり、くるりと指先が円を描き始めた。少しずつ、海のごく一部が忙しなくなる。彼の指が何かを引っ掛けて手前に寄せる——丁度釣竿を引くような——動きをすると、騒がしかった海の一部が猛スピードでこちらへ駆け寄って来た。
「これは……魚?」
 バシャバシャと派手な音が足元で跳ねる。不思議な事に数匹の魚が、水面近くで蠢いていた。
「これ、お前が?」
 にっこりと笑う様子から、彼の仕業と分かる。パチンッ、とフィンガースナップを鳴らすとそれらが勢いよく打ち上げられた。
「なんと……!」
 人魚にこの様な神通力があるとは思ってもみなかった。
 小魚の群れをどうやら引きつけたらしい。相変わらず笑みを絶やさない彼は、一匹を此方へ差し出した。
「くれるのか。」
 コクリと頷く人魚は、眩い笑顔を振りまいた。正しくSと同じ表情であった。幼い頃、こうして海辺で遊び、日焼けした肌を比べあった日を思い出す。
 目頭が熱くなったが、人魚の行動でそれは引っ込んだ。
「————!」
 生魚に其の儘齧り付いたのだ。魚から勢い良く血が噴き出し、わたが溢れる。激しく身を跳ねさせる魚に構わず、丸齧りしていく。宝玉の様な存在が血腥い臭いと風景を作り出し、其のアンバランスさに釘付けとなった。
「……、……?」
 キョトンとした顔で此方を見る。口の周りを血塗れにし、蒼玉えめらるどの瞳を瞬かせた。食べないの? と言われている様な気がした。
「嗚呼……。人間はな、焼いたり、捌いたりせねば、食えんのだ。後で頂くとする。」
 やっとの事でそう返答すれば、人魚は納得したらしく、一つ微笑んで魚を喰らい続けた。
 良く良く観察すれば、人魚の歯は細かく、鋭かった。二重、三重に生えたそれは、珊瑚畑の様でもあり、粒状の水晶群にも見えた。
 彼が満腹になるまで、其の様子に唯、只管、俺は魅入っていた。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 夕暮れ前に、患者の元へ足を運ぶ。相変わらず虚脱状態にあり、意識はあれど反応は鈍い。
「あのぅ、うちの人、どうなんでしょう。」
 婦人が心配そうに声を掛ける。
「まず、幻覚を見た訳では無い。近辺で巨大な魚の影を見たと噂が立っている。彼もそれを人魚と称したのだろう。」
 嘘では無い。本当の事を告げることはないが、それだけで彼女は幾らか胸を撫で下ろした。
「虚脱状態も、長時間の漁や慣れぬ物を食った場合に良く見られる。漁の間、何かを口にした可能性もある。」
「慣れぬ物、とは何でしょう。」
「何かの卵や肝……言うなれば、栄養価が高すぎるものだ。昼間は過労と言ったが……。そんな話を、彼はしていなかったか。」
 していないだろうし、食してもないだろう。婦人は記憶を掘り返そうと必死になっていた。其の姿に申し訳無さを覚えながら、薬を差し出す。
「何、心配しなくとも良い。身体の調子を整える薬を出しておく。水を良く飲ませて状態を清潔に保てば、後二日もあれば起き上がれる様になるだろう。食欲があるなら何を食わせても問題ない。」
 婦人は小さな身体を折りたたんで、何度も礼を言った。俺は罪悪感の小さな針でチクチクと刺されている気分になる。
「様子を見に、何度か来ることにする。気になる事があれば、どんな小さな事でも聞いてくれ。」
 家族総出の見送りを受け、居心地の悪さに家を後にした。嘘は言っていない。患者も恐らく治るだろう。それでも真実を言わず、対処だけを取る事を心の奥で苛んだ。
 
 人魚から貰った魚は、氷漬けにして保存している。M先輩を呼びつけて捌いてもらおうかと考えたが、止めた。
「……お前が人魚となって会いに来た訳では、無かったのだな。」
 Sの面影を追いながら、夕焼けに伸びる影へ呟いた。今にも背後から、駆け寄って抱きついて来そうであるというのに、それは永久に起こり得ぬのだ。
 
 夕飯にしよう。あの赤い口許を思い出しながら。