代赭たいしゃの盲信

 部屋の前にまで連れてもらい、施錠を解く。此処を他人に見せるのは初めてだ。俺以外の者が見ても、不気味で無意味な部屋である。然し、M先輩ならば、少なくとも此の部屋の意味を理解出来るはずだ。
 肩を貸してもらいながら入室すれば、古い紙や布の匂いが鼻を掠めた。俺にとっては馴染み深く、心を癒やす匂いだ。
「此処は一体……。」
「Sの部屋ですよ。」
 M先輩が息を呑んだのが、生々しく伝わった。此処にあるものは全て、Sに関するものしか無い。最も目立つ物はSだった諸々だろう。
 Sの目玉、Sの毛髪、Sと分け合ったピアス、Sの骨を閉じ込めた硝子の指輪……。
 これらを組み合わせても、決してSにはならないが、何処をとってもSだった。
「お前、何て物を……!」
「言ったでしょう。」
 十五年に渡って、Sの事を考えていると。
 笑みを作ろうとしたが、立っているだけで冷たい汗が噴き出る。
 二人掛けのソファーに、半ば倒れこむ様にして座った。相変わらず、ヴェルヴェットの光沢が美しい。此のソファーにも、Sとの思い出が詰まっている。
 此の部屋にある物は、全てそうだ。
「乗り越えてなかったのか。Sが死んでからずっと、ずっと……!」
 肩を掴んで揺さぶるM先輩は、怒りと憐れみを混ぜこぜにした様な表情だった。彼は直情型と言うわけでは無いが、悲しむべき時に悲しみ、喜ぶべき時に喜べる人間生なのだ。
 俺には、其れが難しかった。
「俺がSへ抱いていた感情に、名を付けるのは難しかった。」
 執着、という一言で括れれば良かった。然し、執着にしては濃くもあり、薄くもある。心底忘られぬ程、焦がれているのは事実だ。然し、俺はSの全てを背負うだけの心を持って居なかった。
 Sは俺だけのものでは無い。Sには父も母も居て、骨は両親に渡すべきだと考えてしまったのだ。総てを連れ去る権利を、S本人から与えられたと言うのに、俺はそう出来るだけの、気概がなかった。
「硝子に閉じ込めるだけの、ほんの薬匙ひと掬いの灰。血を分け合う儀式をした赤いピアス。此の二つは、先輩も見覚えがあるでしょう。学校へ身に付けて居ましたから。
 其れから、一等好きだったヘーゼル・カラーの瞳。赤いリボンにコーヒー牛乳色の髪……。俺はどうしても、俺の人生にSを連れ回したいと思ったのです。」
 煙色した水晶や、送られてきた手紙の類は、Sの持ち物であり、特に気に入って居た物だった。俺が手を触れるべきか、今になっても分からずじまいだ。
「此れ等があるからこそ、Sは死んだのだと、事実として受け止めていられる。」
 もし無ければ、今此の時でさえ、玄関からひょっこり帰って来るのではないかと思えてしまうのだ。柔らかな髪を弾ませて、紅茶を持って休憩を呼びかけてくるかもしれない。
 ──……Sは遺言として、自らの肉体を検体に出すと申し出た。医師を目指して居た俺の糧にして欲しいと。
「俺は、Sの総てを手に入れた。肉体も、精神も、愛も。
 だが、結局俺は、Sの総て背負えなかった。だから、S足らしめる部分だけを手元に……。」
 息切れが酷くなる。身体が重い。貧血に似た虚脱に、視界がぼやけた。
「Kよ。」
 先輩が、俺の前に膝をついて視線を下げる。子供の話を聞く時みたいに、俺を見上げるような姿勢だ。普段見上げるのが常である先輩を、見下ろすのは少し新鮮だった。
「お前、彼処で何があった。」
 M先輩からしてみれば、何かに乱暴された形跡が残ってる後輩を担いで、身を清めまでしたのだ。何もなかったでは、絶対に引き下がらない。
 頭を振って、意識を保とうとする。凄まじい眠気と思える程の疲労に、頭の芯がぐらぐら揺れる様だった。
「Sは死んだ。死んだのです。其れを確かめるべく、此の部屋に……俺が確かに愛したSに、会わねばならぬと……。」
 不意に腰骨の辺りが痛む。思わず手でさすると、何かの傷が疼いている様に思えた。
「彼処で、Sに会いました。」
 白状する気持ちというのは、大人になればなるほど、後ろめたさが募る。
 M先輩は、莫迦な、と呟いて俺の手を取った。
「なぁ、何の幻を見たンだ。冗談では済まない話だぞ!」
「俺が、何か、貴方に冗談を言ったことがありますか。」
 先輩は黙るしかなかった。俺が元より剽軽ひょうきんで、死した人間について軽々しく口に出来る性質ならば、冗談で済んだだろう。
「Sとは最期の最後で、恋仲になりました。病床のSの爪を切りました。遺灰を、瞳を、毛髪を……此の手で保存し続けてます。だというのに、俺は……。彼処で、確かに、Sと触れ合ったのです。」
 正確には、Sに似た人魚だ。先輩に人魚と接触したと、どうしても言えない。明るみになれば、あの人魚を仕留める為に町の人間をあげての狩りになる。
 人魚が人間を襲ったとなれば、後の出来事を想像するのは難しくない。
 あの人魚の正体は一体何なのだろうか。確かにSの声で、誘う笑みと差し伸ばされた手を見た。
 不可解な事ばかりだ。人の舌ではないものが口内で暴れ回り、絹の様な肌を甘噛みした。噛みつかれ、組み敷かれ、俺は成す術なく受け入れるしか出来なかった。
 再び腰に痛みが走る。痛みに呻くと、M先輩が断りを入れてから様子を見てくれた。
 簡易なズボンをずり下げた所で、先輩が再び息を飲む。
「何だ……此れは……。」
 絶句、という言葉が似合う表情であった。M先輩が狼狽するのは珍しい。痛む箇所に視線を向けると、傷跡にしては不可解なものがあった。
「痣、……いや、傷跡……?」
「オレが聞きたい。お前、本当に、一体何をされたのだ!」
 咬み傷にも切り傷にも見えるそれ。歪な円形であったが、まるで薔薇の花の様な形だった。針金を突き立てて擦る様にして付けた様にも見えるし、何か烙印を押し当てられた様にも見える。
「K、正直に言え。」
 凄む先輩は、はっきり言って恐ろしい。鍛えた肉体が一層迫力を増して見える。学生時代は案山子の如き細さだったというのに、今は、最早海の男達と並んでも引けを取らぬ。
「……口付けを交わし、血を交わした、としか。」
 言葉を選ぼうにも、稚拙で要領を得ないものになる。ここ数日の出来事を何と呼べば良いのか。
「あちこち噛みつかれたのです。」
 特に首を強く噛まれたが、何故か治っている。
 解せないのはそこだ。まるで嘘の様に塞がってしまっている。だからこそ、腰に残る傷は余計に奇妙に思えた。
「オレも、お前が首から血を流しているのを見た。だが、手拭いで拭いたら、傷跡なんぞ何処にも無かった。」
 結局、其れ以上考えても答えは出ず、重い沈黙が落ちた。考えたところで、推測でしか無いのだ。
 Sの面影は間違いなくある。それに声もした。愛も説いた。だがSが俺を傷つける真似をするだろうか。寧ろ、Sに手酷くしてやりたいという衝動に駆られていたのは、若かりし頃の俺の方だった。
「念の為、今日は此処に泊まる。異論は認めんぞ。」
「部屋は好きな所を使って下さい。……此処以外の。」
「当たり前だワ。」
 余所者が居ていい部屋じゃないだろう、と頭をガリガリ掻く様子は、困惑に満ちた雰囲気を和らげていく。
 嗚呼、M先輩は、変わらない。黒炭を撒き散らす様な顰めた貌は、M先輩が寮長だった頃と変わらぬ。安堵を覚える人だ。
 気が抜けた所為か、急激に視界が暗くなる。逆らうことも出来ず、俺は瞼をそっと閉じた。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 翌朝。虚脱は続いているが、辺りを確認せずして倒れている訳にはいかない。気付の薬を有りっ丈飲み干し、臨時休業の札を玄関に吊るす。
 M先輩も俺の付き添いをすると言って聞かず、仕事を休むと言い出した。
「現場の皆が、困るのではないですか。」
「一日くらい、彼奴らなら問題無い。なんせ、町でたった一人の医者がブッ倒れたのだからな! 彼奴らのほうから休めと言い出すくらいだワ」
 三白眼気味の目が人懐っこく緩む。
 M先輩と俺は旧知の仲であると、町中の人間が知っている。俺は患者と医者という間柄以外での人付き合いをしていない。そんな人間が倒れたら、頼るのは必然、M先輩となる。成る程、M先輩の部下がそんな事を言いだすのも、強ち嘘では無いかもしれぬが、俺にとってはありがた迷惑だ。
 昔は突発的な出来事に慌てふためく事もあったというのに、今では随分と強引に動く人になってしまった。
 不意に学生時分の頃を思い出す。まだ俺が一年生で、M先輩が寮長を務めていた時、俺とSとで大量のクリスマスプレゼントを、熱狂的なフロイライン達から受け取った事があった。食い物や使わぬ物品を寮に寄付する形にしたら、むさ苦しい連中間で戦争が起きたらしい。M先輩が酷く疲弊した貌で「派手々々しいのは金輪際やめてくれ」と言って来たのを思い出し、意図せず鼻から笑いが漏れる。
「何か可笑しいか?」
「いえ、思い出し笑いですよ。」
 当時は弓道部の主将を任され、寮長としても責務を果たし、両親と兄弟を楽にする為に稼ぐに稼いでやると言っていた。今では事業を始めると共に武徳会へも参加し、武道其の物を支援している。身体を動かして覚えるのが一番良いと言って、現場に率先して出る。偶に家族旅行の話を聞くので、余裕が持てるだけの暮らしと孝行をしているのだろう。
 此の人は逞しくなった。では、俺は? 
 意識が遠くに飛びそうになっていた所で、M先輩が俺を呼んだ。
「K、朝飯はどうしてるンだ。」
「元々、朝はそこまでは……。」
「馬鹿たれ。いざ、という時に力が出ないだろうが!」
 額を指で弾かれる。勢いが殺せず、呻きながら仰け反る羽目になった。あり物で作ってやろう、と張り切る先輩を止める気力は無く、観念する様にソファに座り込む。
 賑やかな人だ。
 こんなに騒がしい朝は、いつ振りだろう。
 
 缶詰と果物ばかりの食料を見た先輩に溜息を吐かれつつ、昨夜に先輩が持参してきたらしい卵や肉が食卓に並ぶ。食欲は無かったが、口に含めば美味であると思えた。焼いたり茹でたり、単純なものばかりだが、人が作った食事というのは其れだけで美味い。
「お前、いっつも缶詰やらで済ませているのか。」
「一人だと、どうにも適当になってしまって。」
 嘘では無い。人魚と出会う前も最低限のもので済ませていた。時折、Sとの思い出の品を楽しむ位で、日常的にこだわりや工夫を凝らしたものは口にしていなかった。
「食う事は、生きる事だ。自分でやれぬのなら、女中さんでも雇ったらどうだ。」
「父様や母様と同じ事を言いますね。」
 苦笑いを浮かべるしか出来ぬ。だが人を此の家に入れる気は起きないのだ。M先輩なら未だしも、余所の人間に家の中を彷徨かれるのは気持ちが良いものではない。
「……そういえば、お前のご両親は。」
「嗚呼、実の父母は幼い頃に亡くなっています。Sの両親が、俺の育ての親ですよ。」
 俺とSの父親同士は幼馴染であった。Sの父は貿易商、俺の父は外交官であり、そこに至るまでは互いに励ましあって来たという。家ぐるみの付き合いとなり、互いの子供を実の子の様に慈しんできた。
「馬車で山道を通っている時の、落石事故でした。俺は五つか、六つか……それくらいの年頃でした。それから、Sの家に世話になって、今に至ります。」
「それは……、スマン。」
「いえ、もう随分と経ちますから。」
 白米を半分程食べたところで箸を置いた。具合が悪い割りに、よく食べた方だと思う。
 父様や母様が、俺を心配するのは分かっている。Sの死からずっと、Sの事を考え続けているのも、筒抜けなのだろう。
 昔話をしたせいか、M先輩の家族の話が聞きたくなった。飯をもっと食え、と言われるのを避けるためでもある。
「先輩は弟や妹が多くいると以前お聞きしましたが、皆様はお元気ですか。」
「おう、お陰様でな!」
 表情が太陽の様に明るくなる。眩しさを覚える程の笑顔であった。
「一番下の弟が、やっと大学に受かった所よ。まだまだ、稼がにゃならんワ!」
 弟らは必ず大学に入れ、妹は女学校の後、縁談まで世話をすると決めているらしい。明るく笑う先輩は、兄というよりは父親の様だと思った。
「ウチの両親も、暮らしは大分楽にさせてやれたと思っている。弟達も、まぁ其れなりに優秀だ。もう一踏ん張りって所だワ。」
 冷やした緑茶を喉を鳴らして飲みながら、語る先輩は輝いて見えた。生きている人間の為に生きる姿は、斯くも眩ゆいものなのか。
 俺は目を細めるばかりで、何も言えなくなった。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 小舟の停泊場を見回ったが、人魚が現れることはなかった。現れなくて安堵する。何せ、M先輩が一緒なのだ。此れで人魚と別れてしまうのも惜しいが、彼の身の安全を考えれば、見つからないのが一番である。
 だが、自身の具合は悪くなる一方だ。船に乗って見回りを済ませたのが昼過ぎだったが、その頃には漕ぐ事はおろか、乗降すら一苦労であった。
 息切れ、動機、目眩、虚脱。貧血の様な症状だ。力が入らず、立つ事も儘ならない。
 結局、先輩に背負われて自室に戻った。着替えが済むまでは意識を途切れさすまいと、力の入らぬ手を握りしめ、爪を掌に立てる。
「其処の引き出しの……そう、それです。その中の寝間着を……。」
 布団に座り込んだまま、先輩に服を取ってもらう。着替えの手伝いを丁重に断りつつ、自らのシャツの釦を外していく。その間、腰以外にも、身動ぎする度に全身が疼く様な痛みが走る。
 鈍間な動きでどうにかシャツを脱いだが、目を疑う羽目となった。
「──……な、」
 先輩も、俺の肌を見て言葉を無くす。異変は明らかだ。全身に、毛羽立つような細かな鱗が生え始めていた。
 震える手で、先輩が俺の肌に触れる。
「うっ……!」
「痛むのか?」
 手や指、足などの末端には、異変は起きていない。腰の傷らしき物は径が広がりを見せていた。禍々しくも美しい、薔薇の花に似ていた。
「お前……。真逆、人魚に襲われたのか。」
「違う!」
 思わず叫んだが、弾みで身体が軋む。呻きながら蹲ると、身体の鼓動が妙に強く感じる。
 体内が作り変わっているというのを、直感と感覚のみで察知する。先輩は驚愕の為か、俺を注視したまま動けずに居た。
「彼奴は、害なす物では、無い……!」
 二の腕に爪を立て、変化に耐える。虚脱による鈍化が無ければ、のたうちまわる程の痛みかもしれぬ。
「彼奴は、Sかもしれない。俺を迎えに……。だから、俺は、彼奴を、拒絶するどころか、……ッ!」
 熱された硝子が急激に冷えた時の様な、弾ける高音が体内から鳴る。出口を求め、表皮を突き抜け、傷となり、そして瞬時に癒えていく。
「あ、ああ、っ……!」
「K!」
 癒えた側から、突出した表皮が形を変え、瓦の如く重なりを持ち始めた。その変化を目の当たりにした先輩は俺の肩を抱いて支える。
「ひ、ぃ……っ!」
「しっかりしろ、気を飛ばすな!」
 視界が明滅する。腰の傷部分が熱を持つ。此れは人魚が掛けたまじないなのだろうか。
「ぁ、先輩ッ……、」
 M先輩は、俺よりも強い痛苦に歪む表情をしていた。事情を説明しようにも身体の変化に精神が付いていけない。
 あの人魚は、俺を仲間にしたいと言った。それが目的ならば、人魚が俺にしたあの行為はなんらかの儀式であり方法であるはずだ。
 ならば、襲ったというよりは、同化させようとしたのだ。
「彼奴は、彼奴はっ……!」
「分かった、分かったから! あまり喋るな!」
 変化に慣れ始めたからか、ふとした考えが過ぎる。人魚の血が、身体の変化を促進しているのならば……。
「先輩、ナイフを……。俺に、考えが、……!」
 俺の血も、人魚の物と同じになり始めているのなら、先輩が浴びる訳には行かない。先輩が持つ小さなナイフを受け取り、布団からどうにか這い出ると、己の手首を縦に切った。このサイズのナイフならば動脈に達する事は無い。この方法でもし効果が出るのならば、仮説は明らかな根拠を持つ。
「ば、莫迦野郎! 何をしているのだ!」
 先輩から見れば、俺が発狂して自死しようとしたと見えるだろう。夥しい血を流した儘、俺はナイフを持った右手を上げ、制止する仕草をする。
「瀉血です。効果は、分かりませんが……。」
 息切れに喘ぎながらとなったが、何とか説明できた。功を奏したのか、身体の変化は緩やかになってゆく。
 今付けた手首の傷が、光を持っている。青白いぼんぼりの様な、雪灯りが丸くまとまったかの様な、不思議な色合いだった。駆け寄ろうとした先輩は目を見開いて、更に驚嘆の色を深くした。
「何が起きている……?」
「直感による、仮説ですが……。」
 人魚の血が肉体を作り変えているならば、瀉血により血を外に出せば良いと考えた。更に、傷を負うことにより、肉体の変化よりも、傷を癒す事を優先させるだろうと睨んだ。光が宿っているのは、治癒による細胞の活性化によるものと思われる。
「それなりに深手なら、血も出せる。その上、治癒を優先させられる。それにより、変化が遅延する。……そう考えました。」
 目眩が一層酷くなる。当然だ。絶対的な血量が足りて居ないのだ。頭の裏が矢鱈と冷たく感じる。
「K……!」
「触れるな!」
 手助けしようとする先輩を遠ざける為、咄嗟に出た声音は刺々しくなってしまった。
「俺の血が、人魚の血と同等ならば、……触れたら、先輩にも……。」
 壁を支えにして立ち上がる。膝から下が抜け落ちそうだ。昼下がりの日差しが、厭に眩しく感ぜられた。
「人間の血を、体内に入れればどうにかなるのか。」
 先輩は硬質な声で尋ねた。単純に考えれば、人魚の血を全て流し、人間の血を入れ替えれば良さそうな話ではある。
「輸血……。」
 例がない訳では無い。先の世界大戦でも、多くの患者の命を救ったという。方法も知っている。だが、成功率は高くはない。
「俺には、家族が居ません。供血斡旋業者に、頼む方法もありますが、……。」
「オレの血では駄目か。」
 血の交わり。Sとピアスを分け合った儀式。それから人魚との直接的な接触。M先輩の申し出は有り難いものだったが、俺は首を左右に振った。
「それよりは、血肉になるものを食った方がいい。気持ちだけ、頂いておきます。」
 話すだけで疲労が蓄積する。
 出血が垂れ流しになっているのを見兼ね、先輩が引き出しから、清潔な手拭いや綿タオルを取り出してくれた。床やら俺の身体に付着した血が肌に触れぬように丁寧に拭く。血塗れのスラックスは自力で脱ぐことが出来ず、結局手を借りた。
「お前は、もう少しオレを頼れ。オレにとって、お前は他所ン家の、弟みたいなモンだ。」
 嬉しい様な、くすぐったい様な、申し訳ない様な気持ちが綯交ぜになる。何と応えたら良いか分からず、曖昧に笑うだけになってしまった。
 布団の上で丸まっていた寝間着に袖を通されると、張り詰めて居た気が、フツリと切れた。倒れ込む様に横になる。
「少し……、睡眠を……。」
「ああ、側にいる。安心して寝てろ。」
 気が付けば、かなり汗をかいていたらしい。額に張り付く前髪を、細く節榑立った指で梳かされる。
「M先輩……。」
 緩やかな指の動きが睡魔の手招きに思える。こういうのは、普段は言えぬ様な物まで引きずり出してしまう。重くなる目蓋が影を作り出し、先輩の貌も周囲も朧げになっていく。
「Sに、会いたい。」
 閉ざされた目蓋の裏に、くっきりとした輪郭を持つのは、Sの存在であった。見目も、仕草も、声も、当時の其の儘に思い出せる。
「嗚呼、そうだな。オレもだ。」
 何も生まない会話だ。不毛な物だ。だが俺の胸に沁み渡る言葉だった。熱された目の奥から涙が滲み、閉じた目から横向きに流れ落ちる。
「ゆっくり休め。Sもきっと、そう望んでいる。」
 先輩の言葉は若葉薫る季節の、穏やかな木漏れ日を思い出させる。言うなれば温かで、穏やかな日々の積み重ねによって出来る、幸福の小道だ。
 小道に沿って進めば、あの頃の俺達が、春風に吹かれ走り去っていく。
 
 ──……S。嗚呼、俺のS。
 
 お前が死んでから初めて、弱音を吐いた気がする。