第四話

 空に滝でも出来たのかと思う程度には、酷い雨の日。どうにも体調が優れず、筆が乗らぬ。あっという間に午前が過ぎてしまった。書く事は決まっているというのに、次に掛ける梯子となる単語が繋がらぬ。こういう日はあまり無いのだが、解消方法は知っていた。ひたすらに昼寝するのである。一階の八畳間に座布団を一つ敷き、枕にして寝転んだ。
 二之部君は今日、試験を受けると言っていた。学生は試験漬けで常に能力を測られる存在であるが、求められる勉強量に押し潰されそうにしている姿を見ると、少々気の毒に思える。彼は優秀な生徒が集まる大学の中でも、頭一つ抜けて優れている。教授にも目を掛けて貰っているらしく、外国語の本を借りて来る事はしょっちゅうだ。その本を写しながら訳し、そして私にその内容を口頭で説明する。彼なりに知識を咀嚼し、智恵に変えていく姿は見ていて気持ちが良い。手と頭、口を動かして新たな事を得ようとする試みは、私も学ぶべき所だ。
 翻訳などは大学教授の方が私より優れているだろうが、私も全く学が無い訳では無い。二之部君の説明から不足する箇所を、私が質問する。推測の域を出ない部分は、彼の意見として聞く。その間、私達は──少なくとも私は──純粋な師弟で居られた。時に厳しい事を言う師として振る舞えたし、彼は師である私の発言を、一言一句逃すまいと耳を傾ける立派な弟子の顔をしていた。
 己の立場があるからこそ、私は久慈四葩として世に出る事が出来るし、二之部君という弟子を得た。立場あってこその今がある。充分に理解しているというのに、彼を見ていると、何もかも放り出して触れたくなる。衝動的・短絡的な昂りは、手綱を握っていなければ直ぐに暴れ出してしまいそうで、いっそ恐怖を覚える。後先考えぬ行動など、後悔しか生まぬ。若気の至りという歳でも無し、額を自らの手の甲で冷やした。
 私が此の家を与えられたのは、表向きは進学に合わせて独り立ちする為であった。然し実態としては、久慈家の敷居を跨ぐ事を許されぬ為である。
 天井の木目を見つめているうち、只の模様に見えてくる。模様がぐねぐねと動き出し、別の像を結ぶ。当時、馬鹿な事をした私が、未だに茫然として玄関を見つめている。帰って来る筈もない人を、待ち続けている。いつしか私は──元より表情豊かな性格では無かったが──、顔に感情が乗らなくなっていた。凝り固まった時間は、私の肉も魂も、石に変えてしまったのだ。
 再び木目が像を変える。かつて焦がれた ひとの顔は、薄らいでしまっていた。残っているのは只、紫陽花を抱えて笑う姿であった。掛け替えの無い記憶であるというのに、色とりどりの花を抱える麗人は、二之部君に置き換わろうとしている。
 薄情者だ、と私は呟いて、激しくなる一方である雨音に意識を投げ出した。
 
 ◆◆◆
 
 妙に滑らかな感触が頬に触れる。枕にしていた座布団の生地ではなく、もっと温かく、それでいて水に濡れた様な冷たさもあった。漂う雨の匂いは、畳の藁と混ざって人の匂いに似た質量を感じる。
 頬にかかった髪を、誰かに梳かされている。
「先生。お目覚めですか。」
「……二之部君。」
 寝惚けた声となってしまったが、私は驚きで身動きが取れなくなる。彼の太腿に頭を載せ、仰向けに寝転んでいる姿勢となっていた。私の顔を覗き込む様にして、二之部君はにっこりと微笑んだ。
「お疲れのご様子でしたので、簡単に掛ける物をお持ちしました。」
 そう言われて初めて、私の腹の辺りに、二之部君の浴衣が掛けられている事に気付いた。淡い青色のそれは、着て馴染んだ生地をしていて肌触りが良く、目を瞑って二度寝したくなるくらいだ。
「お顔。畳の跡が付いています。」
 頬を撫ぜる、二之部君の指が心地良い。くすりと笑う表情。嫋やかな仕草。水墨で描かれた美人画から抜け出してきたのかと錯覚してしまう。
 再び眠気に微睡みたくなるが、どう考えても今の状況を飲み込めなかった。
 何故、彼の太腿を枕にしているのか。
 漸く起き上がる気力が湧いたので、ゆっくりと身を起こした。外の雨音は随分弱くなっている。室内は薄暗くなっているので、夕方に近い時刻なのだろう。長い昼寝をしてしまった様だ。
「ウン、寝すぎたな。起こしてくれて有難う。」
 誤魔化す為の、独り言に近かった。もう少しお休みになられては? と言ってくれたのを丁重に断り、ぐっと伸びをする。
「何故、……。」
 言い掛けて、止めた。仮に、私が彼の温度を求め二之部君が仕方なく受け止めたにしろ、二之部君が何か理由を付けて私に触れたにしろ、聞き出したところで目を背ける事になるのだ。
「せんせ。」
 甘やかな香りがする声。私は、此の声音が堪らないと思ってしまう。背中や腰を痺れさせながら撫で、耳元を擽っていく。
「僕は、先生の側に置いてもらって、幸せ者だと思っています。」
 柔和に笑う彼は艶やかでもあり、純朴でもあった。私は、試されているのかもしれない。私は彼に好意を持っているし、彼も若しかしたら……と考えぬ訳ではない。
 私へ向けられた、吸い込まれる様に青黒い瞳からは、彼の考えは見えない。
 誤魔化そうとして曖昧に笑う。彼を否定する筈もない。然し、彼が誘う先に身を委ねては、私は忽ち、骨抜きとなって今以上に愚図になるだろう。自分の事は自分で理解しているつもりであった。
 
 雨はしと〳〵と落ち、梅雨明けの気配を漂わせていた。
 
 ◆◆◆
 
 梅雨が明け、暑気は高まり、蝉が鳴く。毎年恒例の納涼祭が近づいてきていることもあり、数日前から近所が賑わい始めていた。私は神輿を担ぐ体力は無いが、祭というものそれ自体は楽しみである。人混みは苦手なので、脇道に疎らにある屋台などで物を食べるのが精々であるが、非日常的空間にいる感覚は歳を重ねる度に味わい深いものになった。
 二之部君へ、友人と──つまりは駿河君を指す──祭を見て回るのも良いと言ってみたら、そわ〳〵としていたので、彼もまた無邪気な一面があるのだろう。
 キヨさんにその事を伝えると、彼女の息子が置いていったという浴衣を直して、持ってきてくれた。古着ではあるものの、殆ど袖を通さず仕舞いだったとの事で、新品同様にきちんとしていた。二之部君は、初めこそ断っていたが、根負けして浴衣を受け取った。心底嬉しそうにする表情に、キヨさんも満足いったらしい。
 私に対して何か目配せをしてきたのは、その日くらい弟子に頼らず飯を食えと、言われたのだと思っていた。後から思い返せば、それは勘違いであったと理解出来るのだが。
 祭は花火の打ち上げがある。江戸から続く伝統ある行事に、多くの人が川沿いに集まるだろう。私は遠くから眺められれば十分であるので、適当に仕事を片付けてぶらぶらしようと考えていた。
 
 祭の当日。駿河君が家までやって来て、二之部君を迎えに来た。試験が終わり、夏休みに差し掛かる頃で少しは余裕が出来たのであろう。眉の間に力が入っているのは相変わらずであったが、雰囲気は随分と和らいで見えた。
 暑さが地面から立ち昇る。軒先と庭には打ち水をしておいたのが功を奏した。駿河君を縁側に誘い、其処で涼んで貰うことにした。
「久慈先生……。イエ、久慈さん。暫く振りであります。」
「君は、変わりないかね。」
 温い茶くらいしか出せないが、無いよりは良い。汗を滲ませる彼もまた、浴衣姿であった。濃紺の生地は鍛えた肉体を際立てており、女学生が放っておかないだろうと眺める。
「課題に追われておりますが、何とか。」
 硬い表情であったが、会釈をして茶を飲み干した。もしかしたら私にした数々の発言について、後ろめたさを抱えているのかもしれない。
 若者の、前後を考えぬ勢いは、私が持ち得ないものだ。私が駿河君くらいの年頃でも、表にはでなかった。故に、突き進む矢の様な真っ直ぐさには羨ましささえ感じさせる。
「ハハ、二之部君も同じ事を言って参っていた。期待されている証拠だろうさ。」
 弟子の友人と友人の師匠という間柄で話す事となれば、世間話が共通の人物についての話題になるのは自明の理だ。大学での二之部君の様子を聞かせてもらうのは興味深かった。同輩からも一目置かれている事、運動も出来るので助っ人としても頭数に数えられる事、本の虫で巨大な図書館をそのうち食らい付くしてしまうだろうという事……。
「久慈さん、彼奴の事、どう思っておりますか。」
「優秀であるし、能力を鼻にかけない姿勢は素晴らしいとも。自慢の弟子だ。」
 暫しの間が空いた。
 夕暮れ時、庭先の紫陽花が西日に照らされて揺れる。
未だに咲いているものもあれば、一足先に色を無くして遠い日の記憶の如く、褪せた姿になっているものもあった。飲みかけの茶を盆の上に置いて、心の中に残る一朶を想う。
「……諦めていません。俺は。」
 何を、と言わずとも理解出来た。駿河君から、抑え込んでいた物が漏れて、彼自身に燃え広がっていく。そんな風に見えたのは勘違いでは無いと確信出来る。
「他所が預かるべきだ、という話かね。」
 すんなりと解ってしまうのは、自分でも心当たりがあるからかもしれない。二之部君を手放すつもりは全く無いし、教えられる事もあると思っている。然し、矢張り、私自身が得たものを切り取りするだけでは彼が才覚を伸ばすには足りぬと感じていた。
「久慈さんも、当然秀でた方であります。ですが、貴方自身、発展なさる気概は無いのでありましょう。」
「ハハ、……。耳が痛い話だ。」
 彼は直情型とでもいうのだろうか。言葉にしてから後悔するのか、それとも、問い質したいだけで後先が見えなくなるのか。
 何れにしても、瞳に灯った眼光に虚偽は無く、私は居心地の悪い思いをする事となった。
「久慈さんの事、もっと前から存じてあげているのであります。」
 彼の眼光は炎である。勢いを増して、夏の夕暮れと同じ色で、赤く燃える。私はその炎に囲まれて、逃げ出すことさえ出来なかった。
「久慈家といえば、静岡に拠点を置く商家ではありませんか。貴方は其処の末子である、久慈鏡四郎氏。」
 腹が冷え、手の平から熱がさぁっと引いていく。既に一生分の非難を浴びたつもりでいたが、そうではなかったらしい。お前を知っている、と目を逸らさずに言われるだけで身が竦む思いをするのは、人生において疚しい心がある証拠である。
「久慈家は縁談の度、揉め事があったと。そして、貴方は……!」
「奉公に来ていた姉やと駆け落ちして、入水未遂の騒ぎを起こした。」
 彼が言いたかった言葉の先を、私が横取りした。他人の口から言葉にされて平気な顔をして居られる自信が、全くなかったのだ。
「参った事だ。君みたいな、若い人にも知られているのかね。」
 多分、此の時の私は、酷い顔をしていたのだと思う。私がもっと、余裕のある大人であれば良かった。過去の自分を認め切って、何と言われようともいなせる人物であれば良かった。
 自虐的な台詞を吐くのが精一杯で、息を呑んだ駿河君と対峙する。
「駿河。」
 背後から、硬質な声が聞こえた。一瞬、誰が発したものか分からなかったが、私は振り返らずに居た。
「先生に、何を言ったの。」
 寒気すら覚える圧がある。それを直接向けられた駿河君が、気の毒に思えてしまった。然しそれ以上に、複雑な思いをした。二之部君が私を庇う様にして怒る部分に、救われる様な、縋りたくなる様な、そんな事を思う自らの弱さを自覚せざるを得なかった為だ。
真逆まさか、僕の先生に、失礼を働いている訳じゃないよね。」
 愈々、怒りが滲む言葉となった。私は、彼等の友情にひびを入れたい訳では無い。唾を飲み込み、努めて普段通りの言葉と声音を発しようとした。
「二之部君。心配要らないとも。昔話をしていただけさ。」
 背を向けた儘、立ち上がってゆっくりと振り返る。薄い灰色の浴衣に、紺の帯を締めた彼は、清涼感のある印象を与えていたが、顰め面がそれを台無しにしていた。
「ウン、良く似合っている。」
 世辞もなく、無理もなく出た本音であった。彼の眉に寄ってしまった皺が、緩々と元に戻っていくのを見て、私はもう一つ頷いた。変わりに、引き結ばれていく口元には気付かぬ振りをして、二之部君の肩を軽く叩く。
「二人とも気を付けて行くと良い。毎年、圧死寸前になる程に混雑するからね。」
 何とか笑みの形をした唇にして、私はそう言った。元より硬い顔の肉が、筋を切られてしまったのかと思う程に動かなくなっていたが、精一杯頬を釣り上げてから、縁側を後にした。
 
 ◆◆◆
 
 問い詰められた言葉が硝子片になって、胸を串刺しにしていた。深く息を吸うと、酷く痛んだ。
 傷付く、という表現は的確だ。何処から見ても出血する様な深い傷は無いのに、胸からどく〳〵と垂れ流しになる何かを感じずには居られない。
 心が死ぬというのは、中に入った液体が空になって干上がる事を指すのかも知れぬし、或いは流れ出る物が何も無くなっても繰り返そうとする愚かさなのかも知れぬ。
 無人になった家の中で、怠惰にも寝転ぶ。二之部君が膝枕をした時と同じ八畳間だ。夏の夜でも蒸し暑さは残り、不快さを伴うものでもある。私はそのどちらも感知する事なく、只管に広がる寂寞の中に居た。胸に紫陽花の簪を載せ、両手でそれを包んだ。胸の太鼓に合わせて、僅かに上下する女物の飾りは、私が最後に感情や情動を燃やした象徴である。私が贈ったものであったが、今、こうして私の手元に残り、誰に役立つでも無く、当時と変わらぬ陰を宿していた。
 本来、傷付くといった資格すら無いのだ。自業自得であり、そして後悔する事もない。今更取り戻せぬし、取り零した事柄が余りにも多過ぎるのだ。
 目の前の渦に身を委ね、沈むだけ沈む。自身の手や足の先から熱が抜けて、口からも魂が抜けていく。此の儘、薄暗闇の中へ溶けていったらどんなに楽だろうか。
「先生?」
 二之部君が私の目の前に現れたのも、抜けた魂魄が見せた幻覚かと思ったが、いつぞやの雨の日と同じく質量のある物だと直ぐに理解出来た。心臓が跳ね上がるほど驚いていたが、私の肉体は感情について行けず、薄く瞳を開いただけになった。彼は私の側に正座して、此方の様子を窺う。
「……駿河君は、どうした。」
「撒いてきました。」
 悪怯れもせず、舌を出して笑う物だから、私は唖然としてしまった。撒いてきた、と思わず鸚鵡返しをしてしまった姿は、師匠らしかぬ間抜け姿だっただろう。
「僕、先生とも共歩きしたかったのです。今から、少しだけ行きませんか。」
 柔らかに微笑む二之部君は、私が彼を想像する時に思い浮かべる顔をしていた。駿河君を睨みつけていた顔は、幻だったかも知れぬと思えるくらいには、穏やかな表情であった。
「フフッ。また、畳の跡が付いていますよ。」
 寝転んだ儘の頬を撫ぜる手の平は、あまりにも恋しさを呼ぶ温度を宿していた。思わずその手を取る。頬に彼の手を押し当てると、形の良い爪の柔らかさ、僅かに冷えた指先が、私の表面を通じてずっと奥まで伝わってきた。
「二之部君、……。」
「はい、久慈先生。」
 自身の中に、燻る何かがあるのは間違いなかった。それが世間では、何と呼ばれているかも知っている。だが、認めるわけにはいかなかった。
 数秒の間、見つめ合う。瞳の奥底を探っても、二之部君の考えは見えなかった。
「……行こうか。」
 私は凡ゆる言葉を飲み込んで、そう言うのがやっとであった。二之部君は、双眸を弓形にしならせて、静かに頷く。
 甘さを含む雨の中に居る様だ。彼は命の水でもあり、それを充分に含んで咲き誇る紫陽花でもある。流れ出てしまった心の血液を満たしてくれそうだと、縋りたくなる。白黒でしか判別できぬ景色を塗り替えてくれそうだと、救いを求めたくなる。
 だから、私は惹かれるのだろう。あまりに背徳に満ちていたとしても。
 簪をそっと胸元へ仕舞って、立ち上がる。不意に、外から祭を楽しむ人々の声が聞こえ始めた。二之部君が音を運んで来たかの様な感覚になる。初めからあっただろう音が、今まで耳に入っていなかったのだ。
 私はその事に危機を覚えた。彼が私の世界を彩るだけならばまだ良かった。然し、此の儘では私を世界に繋ぎ止める存在になり得てしまう。ともすれば、彼さえいれば良い世界に、生きる事になる。
 
 過去の私と同じ様に。
 
 否、私は結局のところ、昔から変わっていないだけなのだ。閉塞的で退廃的な生活にのめり込み、何も生む事もなく、何も得る事なく、無くしたくないという感情にのみ突き動かされるだけの、どうしようもない男なのだ。
 
 ◆◆◆
 
 街は活気に溢れ、出店が賑わう。 角灯ランタンを携えて歩く人々のおかげで街中は光の粒に満ちていた。
 大通りに沿う道を選んで混雑を避けつつ、辺りを歩く。土道ではあるが歩きやすく、混雑というほどでは無い程度に人々が行き来する。
 占いを掲げて、老婆が若い女性に助言していた。心に決めた人と、結ばれるにはどうしたら良いかを説いているらしかった。
「心に決めた人、か……。」
 心の中で呟いたつもりが、声にしていた。二之部君がくす〳〵と笑うので、何だかバツが悪くなり、私は頭を掻く。
「二之部君は、言われる側に見えるな。」
「恥ずかしながら……。今は学ぶ身であるので、全て断っております。」
 隠す事なくそう言った。嫌味たらしくならず、寧ろ誠実そうに見えるのは、彼の持つ見た目は勿論、人柄や性格による所が大きいだろう。
「……先生のことを、お聞きしても?」
 駿河君と私の間に横たわった只ならぬ空気を目の当たりにしていた後だ。
「知っているかもしれぬが、少々厄介な家でね。私は勘当同然で追い出されたし、私自身も実家に戻ることは無いだろう。」
 駿河君が知っている事は、事実である。静岡にある商家で、茶を中心とした食品や嗜好品を専門としているのが久慈家だ。私はその久慈家の本流にあたる家系におり、四人目の子供として生を受けた。私の初恋は、住み込みで働く姉やである。歳は私よりも一つ上で、二十歳を前にしても嫁に行かず久慈家に尽くしてくれていた。
「……私は連れ戻された。彼女は、別の男の所へ嫁いだ。幾許もなく、彼女は病で亡くなった。それで、終わりだ。終わっている話なのだ。」
 夜の風が吹き抜けて、土と木の匂いを掻き立てる。訃報を聞いたのは丁度今時期だっただろうか。彼女を忘れるべきだとぼかした記憶は、とっくに隅に追いやられて、細かな部分は曖昧になってしまった。
 思い出せないと自覚したらしたで、今度は忘却する恐ろしさに見舞われている。
「駿河君の事を、あまり怒らないでやってくれ。事実なのだ。」
 二之部君は、返事をしなかった。彼は聡いのだ。紫陽花の簪を見ている時点で、大抵の事は察しているだろう。
 彼女の形見であるのだ。捨てられない。捨てられるわけがない。彼女の髪を飾っていた記憶だけは焼き付いて、静かに揺れる後れ髪は、二之部君と同じく美しさを感じさせる黒だった。
 だと言うのに、顔も声も朧気だ。
 こんなものは亡霊の執着心と同様である。 枯四葩かれよひらが自らの色を思い出すことはない。枯れた後も、褪せた後も、散る事も出来ずに姿だけを保っているに過ぎない。
 私は、そういう男なのだ。過去に囚われた儘、何時迄も塞ぎ込んで、自らと向き合おうともしない。そうこうしている内に、取り零してしまうのだ。
「せんせ。」
 甘さを含む声と共に、花火の開始の合図が鳴る。大太鼓を叩いた時と同じく、身体の芯にまで響く音に顔を上げた。
「そんな先生も含めて、先生なのだと思います。」
 慈しみに満ちた瞳がそこにあった。立ち止まって私を正面から受け止める彼は、天から舞い降りた人外の存在に思えた。
「僕は、貴方が良いのです。僕の先生は、貴方だけだと──……。」
 明確な言葉を聞くのを恐れた私は、二之部君の口を手の平で塞いだ。天に咲く光の花は、轟音を伴って頭上から降り注ぐ。光を背負う彼の姿に、心を奪われてしまう。
「……有難う。」
 君にそう思ってもらえるのならば、私は、……。
 救われる、とでも言うのか。彼さえ居てくれれば、とでも言うつもりなのか。自問する心に、私は回答出来ず、目を伏せる。
 私が抱える、二之部君への想いは、過去にあった煌めきを追い掛けているだけで、彼そのものに対する意識では、無い。
 そう言い聞かせ、彼を追い抜いてゆっくりと歩く。その年の花火は、例年よりも鮮やかであり、目蓋の裏に焼き付いてしまった。