第五話

 夏祭りの出来事があってからも、私と二之部君との関係は表立って変わった部分はなかった。心惹かれているという事実が消え失せることはない。二之部君も私も明言しなかったし、互いの胸中にある思いについて確かめ合うことはしなかった。
 八月になってからすぐ、二之部君は帰省した。三週間ばかりの期間を予定しているとのことだったので、弟子を取る以前の生活に戻った。
 不摂生をしがちな私に雷を落とすキヨさんは久し振りで、少しばかり安堵を覚えてしまった事は声を大にしては言えぬ。キヨさんの飯は美味であるのだが、どうにも一人の食事は疎かになってしまう。結局の所、安堵以上に物足りなさを感じる日々となった。
 此の年の夏はほぼ三木谷と会っていた。二日に一度は仕事だとかこつけて家に上がり込んできたし、三回に一度は飲みに出かけた。下戸でも無いのだが、大して得意でもない。それでも冷酒や焼酎が進んだのは、孤独な生活から逃避したい思いから来ていたのかもしれない。
 奴はきっと、二之部君のいない生活に、張り合いをなくしてしまうと踏んだからなのだろう。憎たらしいことに事実であったかもしれない。
「で、順調なのか。愛しのお弟子クンとは。」
「何度でも言うが、そういった関係ではない。」
 奴の行きつけである大衆居酒屋で、頭を酒に浸す。質素な机と椅子は歪んでいるのか、妙にがたつくし、つまみも特上に美味いかと言われると首を傾げたくなるが、騒がしい店内でも気にならなかった。寧ろ、他人に聞かれたくない話は、こういう騒々しいところが却って良いとも思える。
「随分荒れてやがるな。」
 私の素振りを見て、そう指摘できるのは奴だけだと思う。努めて表に出さぬ様にしたし、表情は元より凝り固まっているのだ。
「イヤ、何。彼の友人に、痛いところを突かれたのが、効いているのかも知れぬ。」
 片眉を釣り上げ、内容について吐く様にと無言で促される。私はぐいと冷酒を煽って勢いをつけた。
「発展するつもりがないなら、二之部君を手放すべきだと。」
 奴は大袈裟なくらいに仰け反って大笑いをした。酔いも手伝って、笑いの沸点がかなり低くなってしまっている。大音量の笑い声が唾と共に飛んできた所為で、金属を叩いた様な耳鳴りがした。
「何か新しく始めてみたらどうだ。何なら編集業務でもやってみるか?」
「勘弁してくれ。」
 側から見ているだけでも激務だと分かる。編集作業は融通が利かず、些細な誤りが命取りになる事もしばしばだ。その様に神経が磨り減る仕事など続けようものなら、神経衰弱を起こして、忽ちに使い物にならなくなるのは火を見るより明らかである。
 奴がその作業を乗り越えられたのも、鈍感でかつ集中するという能力に特化しているからであろう。
 三木谷は鈍感で呑気で無神経な性格であるが、では人物についての記憶についてはどうなのだろう、と素朴な疑問が湧いた。
「お前は、過去の女性について、どこまで覚えている?」
「藪から棒だな。どうした。」
 陶器の猪口に結露が起きる。冷えた猪口を覆う水滴も、外気では持ちきれなくなった物の発露だ。
 人間が抱えきれなくなったものと比べ、無味であるが、対して違いは無いかも知れぬ。
「俺はモテるからなぁ! 横浜で囲った女なんか、特に良かった。此の時勢に和装で通している気概が気に入ったし、そうそう、二本松のところのはふくよかで気立てが良くて。」
 自分から話を振っておいて何だが、後悔した。女自慢を聞きたかったわけではなかったのだが、此の男に細やかな心の動きが判るはずもない。編集長であり、腕の良い編集者ではあるが、最高の読者では無いのだ。文面に記された物語が、いかに大衆に理解できるか否かを見抜ける才はあっても、繊細な心を持つという事と同義ではない。
 態とらしく溜息を吐くこともせず、適当に聞き流す事にした(こうして書き記し続けて気付いたが、私は三木谷に対して溜息ばかりだ)。勝手に上機嫌になって、酒を煽って行く姿は、古めかしいからくり人形か何かに思えて笑いがこみ上げた。
「お前だって覚えているだろう。惚れ抜いた女は一人しかいないってンだから。」
 愉快な気分は瞬時に消えていった。代わりに背筋に刃物を当てられたかの様に、冷たい汗が伝って落ちる。騒がしい店内の音がなければ、私の呼吸の乱れを奴に聞かれていたことだろう。
 髪が美しかったこと、肌が白かったこと、雨と紫陽花が似合っていたこと……。私が覚えているのはたったそれだけなのだ。胸の奥でこびりついた塊があるのは間違いないのだが、的確な言葉に落とし込めずにいる。
「どうだったかな。」
「アー、アー、全く。」
 ウンザリだと言わんばかりに大きく首を振られる。機嫌取りの代わりに、通りがかった女給に冷酒をもう一本頼んだ。
 惚れ抜いた相手だったのは間違いないのだ。だがその、離れ顔さえ、二之部君の相貌に置き換わりつつある。
 嗚呼、私が心に抱えられる人間は、たった一人きりなのだ。つまりは──。
 
 自らが、愈々後に引けない所まで踏み込んでいると自覚出来てしまった。夏の夜、蚊に食われて掻き壊した傷からは、血は出なかった。
 
 ◆◆◆
 
 二之部君が戻る日、私はかなり浮ついていた。締切に追われたとしても、その様になった事は無かった。糸の切れた凧の如く、家の中を彷徨うろついては家財の上に積もる埃を払い、床を箒で掃く。玄関の引き戸を開ける音と共に、彼の声が聞こえた。それだけで心の臓がどんどんと音を立てるので、私は息を何度か深く吸っては吐いた。
「久慈先生。只今戻りました。」
 ハタキを持った儘、玄関に向かうと、ほんの少し日焼けした彼がいた。だからといって透き通る肌に変わりはなく、焼きたての白パンに薄くバターが塗られている様にも見えた。
 私は彼の姿を見て、安堵と一抹の郷愁を抱えることとなった。彼とは出会って年にも満たぬというのに、おかしな話である。
「ウン。お帰り。」
 何の気なしに言ったが、弟子に対してお帰りというのも変だろうか。よく戻ったね、が相応しかっただろうか。他人から見たらどうでも良い事かも知れぬが、当時の私はそんな些細な事さえも声に出す言葉を選んでいた。
 二之部君は私の返事に頬を染めたので、私も釣られて赤面しそうになったのを覚えている。
 三週間は長い様で、短い様で、それでも期間としては矢張り長かった。先を見れば長く、過ごして振り返れば短いが、その期間を思い返すだけの日々が蓄積されるのだ。決して、私が彼を一日千秋の思いで待ち侘びていたのではない。その上、何処と無く、二之部君が逞しくなった感じもするのだから、若者というのは目が離せない。
 二之部君が自室に荷物を置き、片付けをし、ある程度落ち着いたのは八つ時だった。休憩と称して、茶と菓子を用意した上で二之部君を呼び寄せた。茶の間の扉を開放していたので、夏の空気が心地よく流れ込む。
 彼から土産話を聞くのは面白く、彼もまた楽しそうに話すので、私にとっては充実したひと時となった。
 東北出身の彼にとって、夏は一番好きな季節なのだという。冬の間は厳しい寒さに見舞われ、春から夏にかけての温かい時期は、欲しいものを取り寄せたり、自らが赴いて各地を見て回ったり出来る為だと言った。
「今は先生のもとに居ますから、冬でもきっと不自由なく動き回れると思います。僕には、それが今から楽しみなのです。」
 ずっと此の地に暮らしていると、気候によって足が止まるという体験は長らくしていない。当然の事であったが、二之部君の言葉で思い出すことが出来た。私も、幼いころ、雪が深い時期は出掛けることが叶わず、庭先で雪玉をこさえるか、家にあった書物を読み漁るかの日々を過ごしていたので、彼の言うことに共感した。
「冬に限らず、行きたいところがあったら遠慮なく言い給え。私も暫く、遠出などしてないので、序でに行くとしよう。」
 そう言うと、彼はもじもじとして、「では果樹園に」と控えめに言った。訳を聞いてみると、仏蘭西文学で葡萄畑の描写が度々描かれており、その近しい空気を体験してみたいのだという。葡萄といえば甲府が有名だろうか。盆地あたりでの栽培が盛んであるので、小旅行としても良い立地であると思えた。
「では、盛りは秋だね。夏が終わったら行くとしよう。」
 次に書く小説の取材だといえば、三木谷の奴から取材費としていくらか工面してもらえるだろうと思ったが、二之部君を連れての旅に冷やかしを受けるのは間違いない。私は三木谷だけには伝えまいと心に決め、あくまで私費による外出にする事にした。
 風鈴が風に流されて、涼しげな音を立てる。八月が終われば、此の風鈴もしまわねばならない。最後の音になるかもとぼんやり考えながら、澄み渡る音を楽しむ。
「その、先生。実は、此処へ戻る前に、駿河に会いまして……。」
 風鈴に負けず劣らず、二之部君の声は良く通り、聞き心地の良い音をしているのだが、此の時はかなり迷いのあるものだった。
 何となく頷いて、彼の言葉の続きを待っていたが、二之部君から出てくる単語は「あの」「なんといえば良いか」「つまり」といったものばかりであった。伝えたい言葉の島が纏まっておらず、どう梯子を掛けるべきかが見えていない様子であった。
「僕は! 先生を、先生として尊敬しております!」
 前後の説明もなく、勢いをつけて、しかも真っ赤な顔をして言うものだから、私は狐に摘まれた様な表情になってしまった。私の手を取って、前のめりになる彼の表情は、色恋に悩み、染まりあがっている。
 彼は、心酔と表現して差し支えない位に、私の全てを肯定してきた。だから、私を久慈四葩として敬っている事は、当然に知っている。少なくとも初対面の時はそうだった。
「二之部君?」
 彼は顔を茹で蛸以上に赤くして、顔を洗ってきます! と飛び出していった。
 態々、そんな事を宣言し直すということ自体、指し示す理由が解らぬ程、私は鈍感ではない。彼は彼なりに、胸の内にある感情について言い訳をしなければならぬ状態にあるのだろう。
 自惚れを恐れず、微妙な言い回しをするのであれば、《久慈四葩》だけではなく《久慈鏡四郎》にも、何か思うところがあるのかも知れぬ。
 大方、駿河君が二之部君を説得しにかかり、何かのはずみで鋭く指摘をされたのだろう。その心酔の出どころは何処なのか、あの草臥れた作家の何処が良いのか、執着する理由は何なのか。きっとそんな所かも知れぬ。
 年上に対する憧憬を、恋慕にすげ替えてしまうのはよくある事だ。若者であれば、肌に触れたいと思う欲求も枯れていない。それら二つは全く別物で、然し対象が乏しかったりすると一か所に集中してしまう。そうなればどんな優秀な人物でも、誤って足を踏み外してしまう……。
 本当に、此処らが潮時だ。これ以上の深入りは私にとっても、彼にとっても、利に成らぬ関係になってしまうのだから。
 
 八月の終わり、つくつく法師と ひぐらしが歌い合う。庭先の紫陽花は季節を忘れたものもあり、未だに色づいている花弁を風に揺らしていた。
 
 ◆◆◆
 
 キヨさんと二之部君の仲は益々親子染みて来ており、とうとう食材の買い物にまで二之部君が駆り出されていた。キヨさん曰く「生活する為の力は男女問わず身に着けるべきであり、鏡四郎さんだけでは教えるに不十分」との意見だった。ぐうの音も出ぬ程の正論であり、私の生活力の無さは自他共に認めざるを得ない。
 大学は九月半ばから始まるらしいが、二之部君は再び図書館と自室、私の書斎を行き来する生活に戻りつつある。その上、本格的な料理まで覚えようというのだから、彼の吸収力には恐れ入ってしまう。
 夕飯の食卓に並んだ、二之部君が作ったという根菜の煮物は、秋の始まりを思わせる。実りの季節が深まれば、茸など旬のものが此の先増えることだろう。そんな中で、二之部君から奇妙な話を聞いた。
「後をつけられている?」
「気の所為かもしれませんが、最近、妙な人影が視界の端にいるのです。先生の周辺には居ませんか?」
 心当たりはない、と言おうとしたが、言われてみれば建物の隙間からこちらを覗いていた不審者が居たことを思い出す。出版社を出た時に見かけたので、掲載を断られた文士希望者が恨みがましく会社を睨みつけて居るのだろうと気にも留めていなかった。
「フム。居ないと言いたい所だが、気になる者は居た。」
 もしや、二之部君が掲載されていることについて逆恨みをしている人物ではないだろうか。そうであれば話の辻褄は通りそうだ。
「暫く一人での外出は控えなさい。出掛ける際は誰かに迎えに行き帰りともに、一緒に誰かといる様に。」
「そんな、男児に大袈裟ではありませんか。」
 二之部君はその美しさから華奢に見られがちなのだろう。恐らく悩みでもあるはずだ。実際は私と背丈も同じくらいだし、運動だって秀でているので、ちょっとやそっとの事を恐れぬ根性も持っている。
「君が優秀であるから故の、まぁ、親心みたいな物だと思ってくれ。駿河君と連絡はとれるかね。」
「既に毎日顔を合わせています。……訳を話して、先生の言う通りにします。」
 ほんの少し、むすっとした表情もまた可愛らしく見えてしまうのだから、自らの性根はどうしようもないものだと笑えてきてしまう。他の料理も味わいながら、明日にでも三木谷に会うべきかと思案した。
 
 ──…………。
 
 ──少々、此の事件については割愛する。結論から言うと、二之部君を狙った不審者ではなく、某記者だった。私としては二之部君が狙われていなかった事が分かり胸を撫で下ろしたのだが、私の過去が結果として、二之部君を深く傷つける事となった。
 これは、後から三木谷に聞いた事だ。競合である某出版社と繋がりがある記者が、私の過去を嗅ぎ回っていたのだ。当然、私の過去といえば駆け落ち騒動についての詳細は外す訳がなかった。私の生い立ちや学生時代での素行は勿論、相手の姓名、家柄、自宅、嫁ぎ先、死に様に至るまで、書き記してあった事だろう。
 私は三木谷の努める出版社お抱えの作家である。当然、作家に悪評が流れるのは何としても阻止すべき事だ。三木谷は個人的な感情を爆発させ、競合の記者に怒り狂っていたのが、私の心の慰みになった。
 兎に角、記事は世間に出る事こそ無かったが、二之部君はそれを目にしてしまった。そもそも、その記事を初めに読んだのは彼だったのだ。不審者に封筒を叩きつけられ、内容を確認するや否や、私に見せず三木谷の元に届けたのだ。二之部君にとって苦手意識を持つ相手であっても、奴が最も信用に足ると判断したからだ。動揺しながらも冷静な行動をした彼だったが、当時は酷く憔悴していたと聞いている。
 ……此の騒動について、中心となって働きかけたのは、……。
 私と駿河君は今でも交流はある。よって、外部からの言及はしないで欲しい。証拠のない出来事であったし、私もまた、その事件については貝の様に口を閉ざす他、手立てが無いのだ。
 
 触りだけ伝えるのならば、こう記そうと思う。
 
 私が今日に至るまで、肌のふれあいを含めて女人と接触を避けていたのは、柔肌が裂け、血が吹き出し、腐敗していく様を想像したくなかった為である。
 伝聞や風の便りを信じることが出来ず、あらぬ妄想ばかりを膨らませてしまう労力を厭うたからでもある。
 久慈という家について、ほとほと嫌気が差した所為でもある(事実、私は騒動の後、此の家を与えられて現在に至る。あらゆる体裁を保つための落とし所であったと理解出来るし、私も納得している)。
 これを切っ掛けとして、私と二之部君の距離は、少々遠くなった。
 以前、二之部君は私に対して、その過去があったからこその私であるという言葉を寄越してくれた。偽りは無いだろう。然し、私の過去に起きた事・引き起こされた事に、どういった犠牲を払い、被害の大きさが如何程のものであったか、想像していたよりも生々しく嫌悪を感じてしまう内容だったと思う。
「先生の胸の中には、その人以外いなかったのですよね。だから、今も、こうして……。」
 此の文章を記している今でも、胸の中に残っている二之部君の言葉。彼の表情は忘れ得ぬ。正直に言うと、自らに言い聞かせる様に声を絞り出して焦燥する姿には、衝動的に抱擁したくなるものだった。然し、若いうちの、憧憬からくる錯覚の恋慕なのだ。これで良い筈だと背を向けた。
 
 それ以来、二之部君は勉学に一層身を打ち込む様になった。家事や庭掃除等の仕事をこなしながら大学と図書館へ赴き、夜分まで机にかじりつき、翌朝は私と食事をして大学へ。私は私で、書斎に籠もる様になっていた。
 此の生活は、十月の下旬頃まで続いた。師弟としての会話はあったが、目に見えて目減りした時期であった。
 
 紅葉の盛りを迎えたというのに、庭先にある紫陽花の花びらは形を残した儘である。