第六話

 早朝と深夜に冬の気配が漂い始めた、十一月目前の、小雨が降り頻る夕方前。私は三木谷と喫茶店に行った帰りだった。先程の事件から、三木谷は二之部君のことを揶揄わなくなった。言うなれば、古傷が開ききった状態だったのだ。流石に無神経な三木谷でも、その傷を抉る様な真似はしなかった。今まで通りの日常を送る事で精一杯だった私だったが、二之部君の変化については敏感であった。数日前から陰鬱な表情でぼんやりとしていた。根掘り葉掘り尋ねるのは余計なお節介かと思い、私からしたことといえば茶菓子の種類を増やしたくらいである。
 三木谷が目をつけることも見込んで、羊羹を幾つか買って帰った。雨宿りに軒先で毛繕いする三毛猫を横目で見つつ、帰路を進む。足元に広がる水たまりを避けながら傘を担ぐのは、出不精な私には面倒に思えてしまった。
 たかだか半刻に満たぬ道程であったが、自宅近くになる頃には傘を畳むのも億劫になってしまい、傘を干して庭先から茶の間に直接上がろうと横着に考えた。
 
 枯れ紫陽花の前に、二之部君が立っていた。傘も差さず、呆然と立ち尽くしており、泣き濡れているのは後ろ姿だけで分かる。
 かける言葉が見つけられず、私は何も言わずに彼を傘の中に入れた。艷やかな黒髪は水気を含んで房となり、水滴を滴らせている。手持ちの手拭いを頭の上にひらりと載せた。
 冷え切った手を引くと、されるが儘についてくる。
 私も二之部君も、無言であった。着替えや手拭いを持って来ると、もたつきはしたが自分で身を整えたので、私はその間に温かい茶と最中を用意した。腹に何か入っていると心が安定するのは、老若男女誰しもそうである。夕飯前であったが、二之部君も私も、一つずつ口にして、茶で胃の中に流し込んだ。
 体の内側から温まったからか、二之部君に落ち着きが見られてきた。私は彼の言葉を、無言で促した。
「同輩らが、根も葉も無いことを……。」
 二之部君の言葉は断片的であったが、状況を理解するのには十分すぎるものだった。
 彼に対して「教授に色目を使っている」「学長には身体さえも明け渡している」「試験の範囲を逆に指定している」「夜はパトロンと共に過ごしている」といった、出鱈目な噂が流れているというものだった。
 当然、教授や二之部君らは否定している。然し、騒ぎが大きくなり学校に居られないかも知れぬ事態にまで発展しているという。
 第三者の立場から見ても、彼の能力に嫉妬したみっともない発言であると分かるが、噂というのは真実については二の次になるという性質を持つ事を、私は知っている。単に、面白いかそうでないかでしか語られず、より過激な嘘を孕んで肥え太るのが常なのだ。
「……冷えたろう。」
 そう言うと、二之部君は顔をくしゃりと歪ませて泣きじゃくった。声にならない声で礼を言う彼を宥め、湯に浸かる様に勧めた。心身が弱った時は、腹に何かを入れた後に、全身を温めるに限るのだ。
 
 巷談に晒されるというのは、吹きさらしの荒野に水も食料もなく彷徨うが如く、辛苦に耐えるのと同じ事だ。私は事実であり、自業自得だったので耐えることが出来たが、二之部君は潔癖の身である。恐らく駿河君もなんとか沈静化させようと躍起になっているに違いない。明日の朝、もし此処に来るのであれば事情を聞いてみたいものであるが、苛烈な彼の事だ。再び私と口論になるやも知れぬ。
 それ以上に、要らぬ想像を働かせてしまう。此の騒動も裏で駿河君が糸をひこうとして、しくじったのでは無いだろうか。元より、駿河君が二之部君に対する執着が、私の持つものと近しいものだとしたら、という前提ではあるが、二之部君が駿河君へ居場所を求め、依存してしまう関係性に持ち込もうと考えた策だとしたら……。
 直情径行であるが、それが転じて横紙を破るが如く意固地になっている可能性だって否定出来ぬ。彼の人間性を疑いたくはないが、心が尖った大人故の邪推だ。勘違いで済ませたいばかりである。
 思考を渦巻かせて考えに没頭していると、廊下を踏みしめる音がしたので振り返る。湯上がりの二之部君が、そこに居た。
「せんせ、」
 泣く様な、笑う様な、心底安心しきった表情に、私の心は音を立てて動き出した。
 透き通る様な肌、熱された頬の赤さ、濡れた産毛の柔らかそうな質感。浴衣から覗く手首から、匂い立つ色香に、私は瞬きもせず見入ってしまう。いつぞやの時よりも庇護欲を掻き立てられるのは彼が傷心している為なのか。
 彼を守りたいと思ったのは、此の時が初めてであった。
 
 無言で彼に頷くと同時に、キヨさんの声が玄関から響き渡る。普段と変わらず騒々しく、張り詰めていた空気が霧散していくのを感じたので、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
 
 ◆◆◆
 
 案の定、駿河君は二之部君を迎えにやって来た。二之部君には、今日一日書斎に居たら良いと伝えていたので、のんびりと朝食をとっている。ほとぼりが冷めるまでは、二之部君は大学を欠席する旨を伝えたが、私が一言添えただけでは彼は納得しないだろう。
「駿河君も上がっていきなさい。」
 上がるかね、ではなく、上がっていきなさい、と私は伝えた。その言葉の差を、駿河君も理解したらしかった。
 茶の間に通すと、二之部君は煮物の椎茸に齧りついていたところで、駿河君が通された事に少々驚いていた。適当なところに座ってもらい、茶を一杯置いた。
 私は一つ、提案をすることにした。学校での騒ぎが落ち着くまでの間、私の取材に付き合って欲しいという内容だ。
「次の話に、果樹園の場面があってね。取材旅行に行くので、二之部君にも手伝ってもらいたい。」
 結局、私の精神というのは未熟である。あの様な事件があったというのに、二之部君と理由をつけて親密になりたいなどと下心があるのだ。一番の目的は二之部君の心を癒やすことであるが、その隣に自分が居たいと欲を出すあたり、懲りぬものだと自身で呆れもする。
 そして、手を打っておくべきことがもう一つ。
「マア、長く家を空ける訳では無いのだが、留守の間、駿河君に家を見てもらうかと考えてね。」
 彼等は茶を噴き出しそうになっていた。
「駿河に、ですか? 先生に散々、失礼を働いてきたのに!」
「何故、その様な事、……。」
「イヤ、何。最早、君に隠す事柄が無いのでね。気になる部屋があるなら掃除してくれても構わない。ただし物は元の位置に戻す様に。」
 勿論、君の都合が付けばだが。そう付け足すと、駿河君は目を白黒させて驚いていた。彼は正面切って会話すれば逃げも隠れも、誤魔化しもしない性質なのだ。裏でこそこそと動き回るには目立つというのを理解していないもかもしれぬ。
「……イエ、何も、問題ありません。」
「ウン、済まないね。土産を沢山買って来る。頼まれてくれ給え。」
 駿河君に信頼しているとも、と言葉を掛けたのが、一番の楔になったかと思う。駿河君が二之部君のものに悪戯出来るとは思えぬし、私の書物に関してもだ。仮に盗みを働いたとしても、蔵書は珍しいものばかりである上に、名前やイニシヤルを記してある。二之部君からの信用が欲しいのであれば、此の手は有効だっただろうし、事実、これを記している現在は私と駿河君の間に刺々しい雰囲気は皆無である。
 善は急げ、というわけで、私は三木谷のいる出版社へ行き、二之部君には旅支度と駿河君へ家の説明をお願いしておいた。
 三木谷は結局、私の事を散々に揶揄ったが、腫れ物に触る様にされるよりはずっと良いと感ぜられたので、私の古傷もかさぶた位にはなったのだろうと思う。旅費は取材費として扱われる事となったので、簡単に打ち合わせだけして直ぐに自宅に戻った。
 
 一日目は移動だけで終わるだろう。東京よりも冷えるとのことだったので、私は着物の上に厚手の羽織を身に着け、立て襟の洋襯衣に袷と袴といった、所謂、書生の出で立ちで鉄道列車に乗り込んだ。
 珍しい物や気付いた事を、私と二之部君は報告し合いながら楽しむ。書記本に走り書きや感想を書き込んでいると、二之部君も私に倣って辺りを観察しては書き留めていた。
「二之部君は、あれから話は書いてないのか。」
「勉強ばかりしていました。」
 苦笑しながら、前髪を指で梳かす仕草は、普段の制服姿よりも大人びて見える。がむしゃらになっていたのは、傍から見ていてよく伝わっていた。秀でている、と評されていても、目指すべき道が定まっていないが故に見聞を広げようとしていたのだという。
 ありとあらゆる知識を詰め込み、思想を学び、思考の鍛錬をすればする程、自身のあるべき姿を模索せざるを得ないのだ。
「折角だ。旅行のことも踏まえて、何か一つ書いてみたらどうだ。心を休める手段にしたら良い。」
 物を書く、というのは心模様をその儘書き写すのが始まりだと考えている。あくまで手段であり、出来上がったものが目的ないしは成果になるのだ。物を書く事そのものが目的になってしまう事は自らの首を締め、苦しみの中に見を投じる事となるが、手慰みにするにはちょうど良いだろう。
 鉄道から馬車へと乗り継いだ。ゆっくりと進む道もまた、風情があるものだった。辺りは畑や草原ばかりになり、昼を過ぎた頃だったので、昼食にお握りを食す。キヨさん直伝の、二之部君が握ったものだ。短い時間ながら準備を滞りなく進めてくれたのは、上京する際の経験を活かしたのだといっていた。
「久慈先生は、初めて書いた話はどういう背景があったのですか。」
 初めて書いた話。彼からの質問がある迄、自らのうちからすっかり追い出していたものだ。確か実家の閉塞感を打破すべく、書きたくった物だったはずだ。若さ故の傲慢さや希死念慮に溢れかえった文章を今見返したら、家の柱に頭を打ち付けたくなる程度の代物だろう。
「ハハ、大した事はないさ。此処ではない何処かに行きたいとか、そんな事ばかり思っていたとも。」
 あれは高等学校の倶楽部活動で発表した筈だ。遥か昔の事なので、目を細めて思い返す。当時の友人とは全て縁が切れてしまったが、良い思い出である。
「僕、それが読みたいです。」
 思いがけぬ要望に、私の首の関節が固まってしまった。元々硬直していた顔の筋肉がますます固くなったが、二之部君は朗らかな笑顔を浮かべて、
「僕より年下だった先生が、書いたものを読んでみたいのです。」
 と言った。
私は眉間に皺が寄りそうになるのを堪え、馬車の窓から遠い景色を眺める。
「……母校の文集くらいしか、無いのではないかな。」
 気が進まないが、愛弟子の頼みであれば、身を捩る位は我慢出来るというものだ。
 
 途中、馬車から人力車に乗り換え、宿屋街で活気づいている区画で降りた。銀行前通り沿いに散水車が走っている為か、あまり土埃は立っておらず、新鮮な空気が肺を満たす。長時間の移動だったので背伸びをすると、背骨が奇妙な音を立てた。
 八つ時を過ぎた頃で、赤みのある日差しが影を伸ばし始めていたので、早速宿探しをするとした。都合よく合いている宿屋がすぐ見つかったので、これ幸いとばかりに三泊ほどで手続きをした。
 葡萄の収穫時期としては末の頃なので、辺り一面葡萄だらけという絵は見られないかも知れないとのことだった。旬の葡萄が採れる場所を聞くと、宿屋から人力車を使えば問題なく行ける範囲だったので、明日の天気が悪くなければ行くことにした。
 私はてっきり、二部屋取れたものだとばかり思っていたが、ハイグレエドな一部屋で手続きされていたと、案内されてから気がついた。二之部君も私も苦笑してしまったが、部屋を仕切る事も出来そうだったので、その儘過ごす事とした。如何に師弟関係であり、同性であったとしても、布団を並べて眠れるほどの心臓ではない。
 部屋は良質なだけあって、美しい内装だった。純和風に仕立てているのは観光地故なのかも知れぬが、私としては妙な和洋折衷よりも落ち着くし、好感が持てた。窓からの景色は、宿屋の中庭にあたるところ。立派な楓があり、なるほど、月夜ならば此の景色が酒の肴になりそうなものであると感心したものだ。
 食事に温泉、どれも申し分ないもので、二人でゆっくりと羽を伸ばすことが出来たのは良かった。だが、正直に告白するならば、私には目の毒になる場面ばかりで、思い返すのも心疚しい。
 移動の疲労もあったからだろう、布団に寝転んだ途端、二之部君は沼より深い眠りに就いた。心を休めるにも体が休まらねば始まらないのだ。彼にとって、良い効果になれば此の上無いことである。健やかな寝息を聞きながら、赤く染まった紅葉で一杯飲んだ。
 
 ◆◆◆
 
 翌日は、見上げると胸が躍るくらいの秋晴れであった。人力車で向かえば果樹園まではすぐだという事だったので、多くの葡萄農家が集まる地帯へと足を伸ばした。道中、荷物は書記本と財布のみの身軽な出で立ちにした。
 旅先の健やかな空気は、それだけで期待を膨らませる。景色を見るだけのつもりであったが、車夫から葡萄狩りも出来る場所を紹介された。折角の旅であるので、味覚も合わせて楽しむと決め、帰りを含めて案内を頼むこととした。
 
 果樹園に訪れ、葡萄狩りをしたい旨を主人へ伝えると、土産用に持ち帰る為の網袋と、収穫鋏、種や皮を置く為の小皿を渡された。三房までなら採って良いとされており、気前の良さを感じたものだ。
 想像していた以上の光景に息を漏らす。葡萄の幹と葉は天に伸びた柱と雲にも見え、古くからある自然の聖堂にも思えた。頭上から降り注ぐ葡萄の房は、日の光を受けて輝く。大粒の宝石が連なっている様だった。
 馥郁ふくいくたる香りに満ちた空気を、目一杯吸い込む。大粒で張りのある姿は、緑味をところどころ帯びており、何とも言えぬ繊細な色の重なりが美しい。
「ワア、見てください先生! 僕の顔よりも大きいです!」
 興奮した様子で、低い位置に実った葡萄の房に顔を並べ、早速その房を鋏で切り取り、香りと味を楽しむ。泣き濡れて厭世的な表情を見せたあの日のことなど、吹き飛んでいた。柔らかそうな唇が、宝石を含んでいく姿は愛らしい。その表情が見られただけで、水が胸に染み渡る気分になる。
 そっと、近くの房に触れる。日に透かすと、葉脈が現れて、まるで血管にも見える。薄皮の奥に芳醇な果実を秘めて、歯を立てれば忽ち破けてしまう脆さに、危うげな魅力が漂っていた。
 私は、とある花を思い出していた。
 秋の色に数えられそうな褪せた色。枯れて、それでも姿を保つ、私の名と同じ花……。
「庭の、紫陽花の色みたいですよね。」
 同じ事を思い浮かべていた。それだけで、和らぐ様な歓喜を感じる。淡く湧いた喜びに対し、私は常々それを否定し続け、同時に目を背け、然し捨てられぬ儘、此処まで来た。
「ウン。そうだな。」
 一粒を毟り取り、口の中に放り込む。くるりと舌で皮を剥いて噛みしめると、甘味と酸味が口内で溶け合った。苦味を感じるまで含んでから、皮と種を吐き出す。
 如何に美しく、甘く、心惹かれるものにも、吐かねばならぬ事はあるのだ。此の苦味さえも飲み込む事が出来るなら、私も少しは前に進めるのかも知れぬ。じっと種を見つめ、私はもう一粒、二粒と舌を濡らしていった。
 
 二房食べ終わる頃には腹が膨れたので、一房ずつ網袋に入れて持ち帰ることにした。果樹園の主人に聞けば、他のところでも葡萄狩りが出来るので、日を跨いで来る観光客も多いという。また、少し登ったところの景色が良いという事を教えてもらったので、腹ごなしがてら行ってみることにした。
 車夫に二刻程で戻る旨を伝え、意気揚々と歩みを進める。普段、出歩かない私にとっては厳しそうな路であったが、非日常を楽しんでいる時は疲労を感じぬのだから不思議なものである。
 半刻ほど歩いた先に、拓けた場所があった。簡単な木の長椅子が置かれていたので、此処が目的地で間違いなさそうだ。ある種、此の景色も名物となっているのだろう。
 素晴らしい眺めだった。先程居た果樹園の辺りを含め、ほんのりと赤くなっている木々が、なだらかな斜面を埋め尽くしている。点々と見える葡萄色が農道に続き、更に先には街並みが見えた。ぐるりと囲う様にして見える山々は、鰯雲の広がる空と共に一帯を見守っている。
「見たいと思っていたものが、見ることが出来ました。」
 二之部君は感慨深そうに、そう言った。私も同感であったが、言葉にしたら簡単なものになってしまいそうだったので、胸にしまう。
「一書生の為に、憧れの先生から、こんなに良くしてもらえて、僕は……。」
 ぐっと飲み込んだ声が、震えていた。せり上がってくる熱を飲み下すのは、結構な気を張らねばならぬ。私相手に強がる必要は無いと伝えようとしたが、彼なりの矜持を崩すのも無粋だと考え、頷くだけになった。気安く肩や背を叩く間柄でもなし、隣あって座り、互いの存在を感じるだけで十分であった。
 私にとっても、良い刺激になっている。一人では中々、旅に出ようとなど思わぬし、何をするにも今更遅いという思いが先立っている。諦めは老いであるという言葉を正しく理解出来た瞬間だった。
 彼が居るならば、此の歳になっても見聞を広める事が出来る気がしていた。師弟というのは、そういうものなのかも知れぬ。かつて取った弟子達とは、こうした行動はしてこなかった。彼等は彼等で、目指すべき姿を決めており、私はその手助けをしたに過ぎぬ。二之部君は、あらゆる選択肢を持っているからこそ迷いもするし、惑わされるのだろう。
 私に必要だったのは、二之部君の様な存在だったのは間違いない。彼もまた、彼に必要だったのは私の様な年長者だったのだろう。だが、二之部君自身を私が欲しているのだろうか、彼が私自身を求めているのだろうか、と考えに耽る。
 書記本を広げ、簡単に周辺の地形の絵を描きながら頭の整理をしていく。彼みたく優秀で、向上心があり、性根が正直な若者は他に居るだろうか。大人が望む様な若者の姿でもある。友人相手には崩した態度にもなり、かといって清廉な印象が壊れる事もしない。それも、私が執着を持つ花に近しい雰囲気を持つ人間である。男女を問わずして、その様な存在は稀有である事には間違いない。私にとっての四葩は、最早取り除く事が出来ぬ位には根付いてしまっている。今から取り除くのであれば、私という人間を根こそぎ入れ替える様な事態であり、一挙手一投足を意識してすげ替えていく労力となるだろう。そこまでして、変化する事自体、私自身が望んでいない。良しにつけ悪しきにつけ、私は《久慈四葩》として一個体を持っているからだ。
 彼にとって憧憬を抱える存在であり、彼を一人間として気にかける存在に、私がなっているのだとしたら、彼にとっての特別な存在が崩れぬ限りは、互いに向き合い、惹かれ合う関係となるのは、むしろ自然なことなのかも知れぬ。彼が持つ憧憬を否定してまで──自身を否定せず、相手を否定する様な真似をするなど──、二人の関係を砂の様に崩すというのは、虫の良い話である。
 何度考え直しても、同じ結論にたどり着いてしまう。自身の望みが織り込まれているのは承知の上である。
 集中していた気が切れたので、横目で二之部君の様子を窺う。彼もまた、書記本に何か言葉を綴っていた。次の短篇の為に、単語からかき集めているのが見て取れた。風と、鉛筆の音だけが、暫く二人の間に響いていた。