第七話

 甲府の旅は、私の人生を彩る思い出となった。果樹園の他、美しい渓谷や寺社仏閣を見て回った。旅慣れぬ身としては心が弾み、二之部君もまた心底楽しんでいる様であった。予定していたよりも二日延びたが、彼の気力も回復し、私の腹も据わった。
 自身が変われぬのであれば、それを認める他に無い。過去を受け入れ、情動の根拠を捉えて生きる覚悟が決まったと言っても良い。胸中を占めるのは戒め染みた諦めについてばかりであったのが、煉瓦の隙間の様な細く、だが確実に区切りのある線引がなされていた。
 念の為、記しておこう。自宅は全く変わりなかった。駿河君は真面目にも、大学の講義が終るや否や、部屋と庭の手入れをしていてくれたのだ。どころかキヨさんとも面識を持ち、二之部君並に気に入られたとの事だった。彼女の押しの強さに負けて、飯の世話もしてもらったというのだから、彼女よりも強い存在は居ないのでは無いかと思い始めた。彼なりに何か思うことがあったらしく、私の書斎にあった本を粗方読み漁り、二之部君とも意見交換が出来るのを喜んでいた。同じ書物について語り合う喜びというのは、何物にも変え難く、世代を問わぬものだと改めて知る。センセエショナルな内容の物は手薄いが、頁をめくると沸き起こる古い紙の匂いが似合う内容を、駿河君は上手く血肉へと変えたのだ。
 二之部君は十一月の二週目には大学へ行き始めた。彼の噂については、旅から帰ってきた時期の段階で、ある程度収束したと駿河君からの談もあり、彼が再び通い始める時には煮え返る様な騒ぎにならずに済んでいた。
 難癖をつける輩も居たらしいが、騒ぎを大きくした者については、風紀を乱すという事から厳重注意を行う措置が取られた事もあり、半ばを過ぎた頃には殆どの生徒が噂自体を忘れ去っていった。
 講義の遅れを取り戻すべく、各教授に個別に教えを乞う事となり、暫くは大変そうではあったが、前より生き生きした様子であった。水を得た魚の様に、溌剌とした新鮮な気持ちを胸にしていたのは、見ていて清々しい。心身から自然に湧く力が、彼の精神を軽やかにしていた。キヨさんにもそれは伝わった様で、弁当に力が入っていた。よく勉強するなら頭を使う。そうしたら自然とお腹が空くのだから、もっと力が付くものを食べないと。そう言って張り切っていたのが印象的である。
 私は私で、きちんと取材旅行の成果を出した。新たな話は羽が生えた様に売れて人気が出た。三木谷は笑いが止まらないとまで言っていたので、出版社としても記録に残る位に良いのだろう。私の名が世間に一層根付く事で、自身の中に一つ揺らがぬ島を築くことが出来たし、それなりの報酬が手に入った。奴からは私費で遊びに行って来いとまで言われた(三木谷からの揶揄いの語彙については機会があれば本に纏めてやろうかと思っている)。題材に対して多角的な光を照らして取組むやり方というのを覚えたので、小説家としての生活の中でも心身ともに最も安定と充実に満ちていた。
 
 何もかもが、丸く収まったと思えた。
 
 師走となり、世間でも慌たゞしさが増す頃。私もまた、作家同士の繋がりから、年賀状の準備などを進めていた。普段の交流は無いにしろ、祝賀会等で頂戴した名刺を無視するのも憚られる。仕事の合間となると、早くから備えておくに越したことはない。茶の間で火鉢に当たりながら、必要になりそうな年賀葉書を数えて居るうち、玄関の戸がやや乱雑な音を立てたので、オヤ? と私は顔をあげる。次いで荒っぽい足音がこちらに向かってくる。三木谷のどっしりした体躯から鳴る音ではない。駿河君ほど、大男の音でもない。キヨさんなら足音より先に大声を発する。そうなると、二之部君しか居ないのだが、あまりに彼らしくない足音であった。次第に大きくなっていき、私は襖扉をじっと見つめる。
「久慈先生。お話が。」
 断りもなく扉を開けて姿を見せるなり、そう切り出した二之部君の表情は、今まで見た中で最も緊張している様子であった。息も切れ切れで、走って帰ってきたと分かる。只ならぬ雰囲気を感じ、私は姿勢を正した。彼は慌てて私の正面に正座して、呼吸を整える。言葉に出来るまでの間、温くなった茶を一口か啜り、彼と向き合った。
「留学の話があがり、教授から声を掛けられました。」
 氷解を吐き出したかの様な、咽喉につかえた声だった。火鉢の炭がぱちんと音を立てた。弾けた灰が僅かに舞う。世の果ての審判が執行されるのかと言わんばかりに、重苦しい空気となった。
「いつだ」と問えば「二月に」とぎこちなく返す。「どれほどだ」と聞けば「二年ほど」と。
 二之部君は沈黙を時折混ぜながら、懸命に舌と唇を動かして詳細を話してくれた。留学先の大学で、優秀な成績を残すことが出来れば、その儘、滞在する事も可能であるという内容だった。欧州の発展を直接目にし、触れる事ができる、またとない学びの機会であると、深い説明を受けずとも判るものだった。
 本来ならば喜ばしい報告であるというのに、彼は顔を石膏像の如く強張らせていた。私と彼の間の畳辺りを見る様にして下を向いているが、視線は定まらず眼球がうろうろとし、押しつぶされそうな息遣いであった。
「急な話で、受けるべきか悩んでおります。」
 熱望と安寧の間に挟まれ、躊躇しきっている。決心がつかず尻込みしているのではない。彼の中では、本当は答えが出ているのだ。恐らく大学から此の家までの帰路の間、散々に自問自答仕切っていると見て取れた。
「行きなさい。」
 心が追いつく前に、私はそう即答した。掠れた喉から出る音が、何とか縺れずに言葉として発せられる。
 行くべきだ、でもなく、行くと良い、でもなく。
 彼の答えを後押しするわけには行かぬ。師であるならば、より広い世界を見て回るべきであると道を示すのは当然なのだ。彼の努力に励み続けた結果である。次の機会があるとは限らない。
 
 二之部君は、双眸に涙を一杯に溜め、然しそれを流すまいと口許を引き結んだ。深々と、三つ指を付いて丁寧に頭を下げる。彼の声にならぬ礼に、私は何処かに取り残されそうな思いをした。
 彼の綺麗な髪の分け目と旋毛を眺めながら、実直そうな形をしているなと、どうでも良い事を考える。深い所から湧く囁きがあろうと、現れては消える思考の滑車を無理に止める為だったと、今なら分析出来る。本当にそれで良いのかと詰め寄る自分や、どうすると内なる誰かの声に耳を塞ごうとしていたのだ。
 彼の烏羽色を注視しているうち、じわじわと鼻の奥がつんとし始める。
 
 畳に雫が落ちる音は、再び弾けた火鉢が消していった。
 
 ◆◆◆
 
 空気が冷え冷えとして身に染みる大晦日。キヨさんや三木谷に挨拶を済ませた(忙しいだろうに、私の身を案じてなのか、態々訪ねて来てくれた)。キヨさんからは御節まで用意してもらったので、全く彼女には頭が上がらない。三木谷からは日本酒を差し入れされたので、正月早々にまたやってくるだろうと嫌な直感が働いた。二之部君の掲載していない短篇については、急遽発行されることとなった増刊号で使うという旨も一緒に寄越してきた。二之部君は涼しい顔をして、お辞儀をしただけであった。三木谷に、二之部君が新たに短篇を書いている事は伝えていないのだが、何かを嗅ぎつけたのかも知れぬ。あわよくば何か新たな物をという考えが私にも透けて見えたので可笑しく思えてしまった。大晦日にそんな話を持ってくるのが、良くも悪くも三木谷らしい。
 除夜の鐘を聞きながら、蕎麦を食べて温まる。二之部君は帰省せず、私と共に年越しをした。故郷は雪が深く、「向こうから帰ってくるなと言われました」と笑って言っていた。此の時に、東北の景色や文化について色々と話を聞いたのが思い出深い。錆色をしていた山が初雪に覆われると、鮮やかに生き返る事。吹雪が止むと一枚の鏡の如く真っ平らになる事。かまくらを作り水神様にお賽銭をあげて家内安全などを祈願する事。紅葉の季節ばかり注目される滝があるが、雪景色も素晴らしく、まるで一枚の水墨画に見える事……。
「そう言えば、二之部君は地元の訛りがあまり出ないね」と聞いてみると、「何だか恥ずかしくて、努力しました」と照れながら言っていた。一人での年越しばかりだったので、新鮮な気持ちだったのと同時に、最初で最後の二人での年越しになる侘しさを蕎麦と共に噛み切る。鰹節のほんのりした香りが口一杯に広がって、喉へと滑っていく。温かい蕎麦というのも、箸の先から直ぐに消えてなくなってしまうのが惜しい。美味いものに限らず、良いと思う物が過ぎ去ってしまうのは、いつだって早いのだ。
 新年になった瞬間、外から新年を祝う拍手が聞こえてきた。初詣へと繰り出すのだろう、賑やかな様子である。「私達も倣おうか」と言って近隣の神社へと赴く事にした。東京の中でも人気のある神社であるので、混雑するのは目に見えている。人嫌いの私らしかぬ提案だっただろうが、二之部君は二つ返事で承諾してくれた。
 案の定、参拝の列は長蛇となっていた。突き刺す寒風に晒されて、顔全体が凍りつくかと思うくらいであったが、人々の顔には笑顔が咲いていた。襟巻きに鼻先を埋める二之部君の姿は膨れた雀を思い出させる。鳥居の先の本殿が見えるまでは世間話をしながら順番を待っていたので、思いの外、早く回ってきた様に感ぜられた。
 漸く見えてきた本殿は、江戸から続く歴史ある建造物なだけあって、勇壮な雰囲気であった。賑わいを見せていたのは本殿だけではなく、別の区画で祀られている某将軍の塚前も、人で溢れていた。
 賽銭、鈴、二拝、二拍手、一拝。今までの生活だけならば、深い意味も考えずに執り行っていた作法であるが、今は横に愛弟子が居る。それも、大きく飛翔せんとする若者である。自身の事よりも、彼の活躍を願うばかりであった。
 参拝の後、月並みではあるが、学業成就御守を買って二之部君へ渡した。留学先でも二之部君らしく頑張って欲しいと思う気持ちを有りっ丈込めようとしたが、却って私の念が彼の足を引っ張るのではないかと煩悶した。除夜の鐘で払ったというのに、煩悩とやらは、千切っても千切っても再生する蛞蝓なめくじに思えてしまう。
 彼からは、無病息災の物を貰い、キヨさんに怒られない様にして下さい、とまで言われてしまい、苦笑せざるを得なかった。
 さっさと帰るのも何となく勿体無い様な気がして、焚かれた火の側で甘酒を飲みながら暖を取る。炎が作る熱に皮膚がじんとしたのが、今でも思い出せる。
二之部君の、紅を差した様に赤らんだ指先に、梅雨時に訪れた庭園を思い返した。
 思わず、その手を取って握り込む。私よりずっと冷たくなっている二之部君の温度を感じ取った。彼は初め、驚きで目を見開いていたが、やがて手遊びをする様に、私の指先を控えめに絡めた。
「嗚呼、矢張り、君は冷えやすいのだな。」
 彼とも、後ひと月で別れることとなる。名残惜しさを今から感じていては、その時に耐えられぬというのに。
 此の手を取った儘、いっそ何処か遠くへ……と考えなかった訳では無い。だが、どうにもならないのだ。若い時分に取った行動を、今でも後悔している。同じ過ちを繰り返すなど愚かの極みであるし、何より彼の未来を閉ざしてしまう。彼を連れ去っても、連れ去らぬとしても、私が抱える物は変わらないのだ。私の心もきっと、以前と同じく停止するのだろう。
 それでも、私は彼と決別するべきなのだ。眼球が風の冷たさを感じ取り、閉じた目蓋の中で僅かに涙が滲む。彼が彼らしく算勘の才を発揮するのならば、枯れた私の事などは姿形だけ覚えていれば良い。
「初日の出も見ますか?」
「……そうだな。飲みながら待とうか。」
 獅子舞。笛太鼓。提示の祝詞。白く象られる数々の息遣い。人々の華やぐ中では、私達などは紛れ込んだ群衆に過ぎず、誰も気に掛けず流れていく。参道を真っ黒に染める人混みの中で、逸れぬ様にと手を離さぬ儘、冬の道を歩いた。
 繋いだ所から、私の想いや気持ち等が過剰に伝わらぬだろうかと考えていたが、いつしか貝殻同士の手繋ぎとなり、指先や手の平に彼のしっとりとした温度を感じる。彼が何を思っているかを知る度胸がなく、私は帰宅するまでの間、一度も彼の顔を見ることが出来なかった。
 只々、二人の体温が混ざり合う心地がして、身体ごと包まれている様な安堵を覚えていた。
 
 
 正月が終わり、徐々に街が通常通りの波になってきた頃。雪が降り積もり、ふくらはぎまで埋まった。庭の景色は雪化粧となり、木々は綿帽子をかぶっていた。白さと寒さの為に、朝方は眩しさを覚えるくらいで、雨戸を開くと広がる銀世界に、庭園の景色はどの様になっているのだろうかといを馳せた。
 終わりが決まっているからと言って、今までの生活が大きく変化することは無かった。朝はキヨさんが来て二之部君と共に朝食と昼食を作り、二之部君は大学(試験が待っていると言って青褪める程に追い込みを掛けていた)、私は仕事に勤しみ、夕方から夜にかけて二人で夕食といった具合だ。無論、キヨさんも二之部君の留学については伝えてある。我が事の様に嬉しいし、誇らしいと彼を讃え、一度だけ薄っすらと涙を浮かべた。
 此の頃の二之部君によれば、留学が決まった直後から矢鱈と話をしたがる同輩が増えたのだという。例の噂があったので、また色仕掛けかと野次を飛ばされるのかと身構えたらしいのだが、誰も彼も好意的に接して来たと言っていた。彼の努力や勉学が結実した故の、彼自身で獲得した環境である。「今更ながら、友人が増えました」とはにかむ姿が心に強く残っている。
 日常を繰り返す中で、二之部君は留学に向けて準備を進めていった。外国旅券を取得する為の手続きや健康診断等を済ませねばならず、時折付き添いで東京周辺を案内した。
 洋風の食事に慣れておかねば、今後面倒だろうと理由をつけて洋食屋に行ったりもした。
「久慈先生は、洋食はお好きですか?」
「三木谷と牛鍋を食べた事があったが、あれは美味かった。」
 その時もビフテキを選んでいたので、牛肉を好むのは間違いない。二之部君も私と同じものを注文し、テーブルマナーを再確認していた。ナイフとフォークを使っての食事については、両親から躾けられていたが、和食を好んでいた為に長らく使っておらず、自信が無かったらしい。
 そうは思わせぬ程、彼の所作は美しかった。味も勿論良かったので、私は一つ代えがたい思い出を手に入れることが出来たのだった。
 
 それなりに慌たゞしく過ぎ去っていき、愈々、出発まで後一日まで迫ってきた。再び雪が降ったので、随分と冷え込んだ。二之部君に与えていた部屋は、元より物が少なく、来た時と同じく鞄一つと四冊の本をブックバンドで纏めただけになった。生活で必要なものは現地で買うらしい。物理的な変化は殆ど無いというのに、寒さも相まって、妙にがらんとした印象になってしまった。
 
 日本にいる最後の夜なので、大学の仲間内で飲めや歌えやの壮行会でも行うかと思い込んでいた。だが予想は外れ、彼は何時も通りの時間に帰宅して来たのだ。ぽかんとする私の顔を見て悪戯ぽく笑った。
「久慈先生と過ごしたいので。」
 紙袋から黒褐色の四合瓶を取り出して顔の横に掲げた。有名な日本酒の銘柄がラベリングされており、私が好きな味のものだ。
「なら、夕食の後に貰おうか。」
 二之部君は満足らしく笑みを漏らした。そんな風に愛弟子に言われて、嬉しくない訳が無いし、断る訳も無い。分かっていてやっている事だろうと推測出来たが、そんな事を口にするのも野暮である。
 しばらくすると、キヨさんが騒々しくやって来た。玄関扉の外から呼びかけられ、応じる前に開けられる。どたどたした音を二之部君が迎えてくれた。
「アラマー、瑞基君! いよいよ明日でしょう。美味しい物、沢山持ってきたからね!」
 風呂敷から出てきたのは赤飯、鶏肉を揚げて醤油を絡めた物、それから関東炊き。他にも小鉢が幾つか出てきた。どれもこれも、二之部君が好物だと言っていた品々であった。卓袱台に何とか載ったが二人分にしては少々多い。それだけ、彼女も二之部君を気持ちよく送り出したいという思いが溢れていたのだろう。
「向こうでもね、日本の味、忘れちゃ駄目よ。」
「勿論です。キヨさんのご飯があったから、僕は学校でも力を尽くす事が出来ました。」
 二之部君はキヨさんの両手を優しく取って、彼女と目線を合わせる様に屈む。
 やだね、湿っぽくなるよ。うちの息子達が出てったときだって、こんな寂しくならなかったのに。そんな事を言いながら、二之部君の肩を力一杯叩いていた。明るく送り出そうと努める彼、彼女なりの照れ隠しであり、泣くのを堪える為の仕草だった。
「キヨさんは、僕にとって、東京の母です。本当にお世話になりました。」
 彼の言葉に釣られて、目の縁が潤む思いをした。キヨさんは満面の笑みを浮かべる。瞳は潤んでいたが、決して涙は落とさなかった。互いの両手をぎゅっと強く握りあう。皺が刻まれた彼女の手の甲と、白魚の様な荒れが無い彼の肌は対象的であったが、そこには親子らしい絆が確かにあった。
 息を短く吐いたのを合図に、ぱっと離す。
「鏡四郎さん! お皿ね、明日取りに来るから洗っておいてくださいね!」
「分かっていますよ、キヨさん。」
 いつも以上に足早な嵐となって立ち去っていくキヨさんの後ろ姿は、背筋が伸びて堂々としていた。彼女の強さのうち、百分の一でも私の中にあれば、違った結末だったかも知れぬ。
 
 箸が進む味付けを、文字通り噛み締めながら味わう。キヨさん渾身の夕飯は、誠に美味だった。二之部君は、矢張りおでんが特に好みの様で、真っ先に皿が空になった。
 赤飯を口にしたのはいつぶりだろうか。私が子供の頃まで遡らねば無いかも知れぬ。自身の作品に人気が出たとしても、祝われる時は常に酒やら魚やらだった。
 日本食が暫く食べられないから有難いと言いながら食す彼の姿もまた、見納めになると考えると、じっと見入ってしまう。
 ぺろりと完食し、暫し腹ごなしをしてくださいと茶の間から追い出されてしまった。晩酌の準備をしてくれるのであろう。言葉に甘え、風呂に入るとする。
 好みの湯加減となった湯船の中で、何か彼に贈るものは無いだろうかと今更に考えた。
 彼はしっかりとした家柄の出身である。高級なものなど見慣れているかも知れぬし、私から授ける意味は無い。それよりは彼が一等好きな物にしたほうが良いに決まっている。
 私は本棚に置いてある背表紙達を思い返し、ウンと一つ頷いて、風呂から上がった。
 廊下の冷たさもあって小走りになりながら、書斎に向かう。湯冷めする前に準備しなければ。
 徳利を用意して、熱燗にして御猪口に。一体いつ熱燗の付け方など覚えたのかと問えば、先生とゆっくり飲むのが夢だったので、と返された。
 二之部君からの、尊敬と憧憬の眼差しに応えようとしたが、身体中から込み上げて来る擽ったい思いを表に出さぬ様にするのが精一杯で、私は頷くだけになった。
 二人で同時に、熱燗に口を付ける。華やかな香りと爽やかな酸が混ざり合い、鼻へと抜けていく。後味には甘さも感じられ、味の膨らみが舌の上で転がった。
「ウン、美味い。上手く付けたね。」
「良かったです。」
 照れを隠しきれぬ様子で御猪口を傾ける姿もまた、可愛らしい。大学で仲間が増えたと言っていた辺りから、不思議と構いたくなる魅力も備わったと思う。
 袂に入れた物をしっかりと掴み、彼の前に差し出した。
「二之部君に、これを譲ろうと思う。」
 私の書斎で、最も年季が入っている書物。無名俳人の歌集である。冴え〴〵とした鋭利な言葉選びをするかと思えば、膨よかな春を記した歌などもあり、幅のある歌人であると私は評価している。そして。二之部君が特に読み込んでいたものである。
 眩しいくらいの喜びを顔全体に漲らせ、童の様に両頬を手で挟んで目を見開いた。常に礼儀正しく時に打算を働く彼だったが、同時に素直さと実直さを穢さずに持っていた。澄ました彼しか知らなければ、一生見る事の無かった表情であっただろう。
「本当に、有難う御座います。後生大事に致します!」
 今までに無いくらい、晴れ晴れとした調子を込めた声に、私の口許はかなり緩んでいたと思う。見返し紙に私の名前を記してあったのだが、その横に二之部君の名を書いておいたのが、彼を更に喜ばせた。
「久慈鏡四郎、二之部瑞基……。」
 二之部君は、文字をなぞりながら記された文字をぽつりと呟いた。
「僕が、先生と同じ本誌に載った時よりも光栄です。先生の隣に名前を並べられるなんて、僕は……。」
 じわ〳〵と広がった歓喜の波は、水位を上げて溢れさせてしまったらしい。彼は汗を拭く振りをして、袖口で涙を何度も拭っていた。
 
 追加で二本付けて貰う頃には、身体は随分と温まっていた。二之部君も頬が赤く、冬に実る赤い木の実を思い出させた。和らぎ水を飲みながらだったので明日には残らないだろうが、少し酔を覚ますのが良さそうだ。肴にしていたキヨさんの小鉢も無くなり、お開きかという時が来た。
「二之部君。片付けは良いから、風呂に入って直ぐに寝なさい。」
「はい。お付き合い、有難う御座いました。」
 少し夜風に当たって来ます、と言って玄関を出て砂利道へ進んでいった。私は食器を厨の流し台に置いて、瓶を勝手口辺りに置く。何となく気分が落ち着かず、寝室で少しだけ仕事をすることにした。
 酒で浮ついた状態であると、刹那的で短絡的な言葉ばかりが辺りに漂う。私はそれを拾って、書記本に移していった。程なくして二之部君が戻って来て、半刻もないうちに湯浴みする音が聞こえてきた。
 雪が積もっている夜なのだ。止んではいるだろうが、冷えることには変わりない。猫が興味ありげに雪の庭に出てとんぼ返りする様を想像し、気が付けば手元の紙に猫の落書きをしてしまっていた。
 
 言葉拾いに興じ、気が済んだので布団を敷いて仰向けに寝転んだ。浮遊する様な感覚は残っているものの、酒気は殆ど抜けていた。静けさが身に沁みてか、中々寝付けない。しんとする空気は、振動を許さぬまろやかな雲になってしまったのだろうかと、阿呆な事を考えたりもした。
 眠りに落ち、次に目覚めれば、二之部君とはお別れだ。只それだけなのだ。彼にとって私は通過点であり、私にとっても彼は眩い輝きの象徴であるべきなのだ。
 目蓋を閉じ、目の前の暗闇を呆然と眺める。妙に目が冴えてしまっていたが、事実を受け止める迄の残りの時間であるとするならば、心を落ち着かせるには丁度良い間かも知れぬ。
 
 ぼんやりとしていると、廊下の床を、きゅっきゅっと静かに踏みしめる様な足音がする。二之部君が厠にでも行っていたのだろうかと思ったが、私の部屋の前でぴたりと止まった。
 音もなく襖が開く。部屋の外から空気が流れ込み、二之部君の匂いが鼻先を掠めていく。積雪ある夜は耳が痛いほどの静寂が包み込む中で、彼の存在は目を閉じていてもありありと感ぜられた。
 猫の忍び足を思わせる慎重さで、横たわる私に近づいてくる。僅かに沈む畳の感触さえも、口や首あたりにまで伝わって来た。枕元から覗き込む様にして、じっと私の寝顔を見つめている。実際よりもずっと長い時間が、一滴ずつ落ちていく。
「……せんせ。」
 思いつめた声音と共に、前髪を指で梳かされた。何度か行き来して、私の頬を冷えた指先がつうっと撫でていく。次いで、額に指の腹よりずっと柔らかな感触があった。熱っぽい視線が自分の上に注がれて、私は唾を飲む。
「鏡四郎、さん。」
 雪の日でなければ、鳥の呼吸にさえ掻き消されてしまうだろう。確かに、私の名をか細い声で紡いだ。
 私は彼に焦がれている。それを当然、彼も知っている。そして彼もまた、私に……。
 離れようとする気配に、布団の中で両手に力を込めてから身体が火で弾けさせた。素早く彼の腕を掴んで布団に引き入れると、二之部君は悲鳴に近い息を吸って硬直した。
 乱暴に抱きしめ、唐突な事に固まる彼に構わず唇を奪う。状況を理解したのか、彼の四肢が脱力していった。息漏れも逃さぬ様、互いに貪り合い、絡み合う水の音に夢中になっていった。
 彼の身体をひっくり返し、縫い付ける様に組み敷いてからは、止められる術も無かった。私と彼の荒い息遣いだけが、空間を埋めていく。
 絹の如き素肌は、いつまでも撫で続けたくなる位に滑らかであった。彼の薄い胸板に花弁を散らす。鬱血した色は、錆色になった紫陽花に似ていた。道理で抑え込んでいた感情や欲求が腹にうずまき、額の奥を焦がしていく。
 二之部君もまた、普段通りの彼ではなくなっていった。酒精に含まれていたねっとりとした甘さが、呼気と共に立ち込める。蕩ける様な熱に渇きさえ感じた。
 彼の何もかもを滅茶苦茶にしてやりたいという衝動が、岩を砕く大波の如く襲いかかる。身を揺るがす勢いの儘、求め合う姿は獣じみていたかも知れない。
「鏡四郎さん──。」
 両手を広げて私を受け入れようとする。何度も名を呼ばれた。切なげな表情に、赤くなった唇が薄闇に浮かぶ。乱れた浴衣の間から覗く二粒は、四葩の花芯を思い起こさせた。
 火を灯した身体に深く沈み入る。真っ暗な海で溺れ、息が出来なくなった様に苦しげにする彼に、雷に打たれても離すまいと楔を埋め込んだ。
 律動と共に小刻みに漏れる声が部屋の中に満ちて、宛ら霧雨に包まれた様に全身に降り注ぐ。雨が溜まり、泉になり、奥底から満ち溢れていった。
「瑞基君、……。」
 彼は私の身体にしがみついて、肌をぴたりと合わせる。互いの温度に落ちていくと、言語化出来ぬ情動が、液体となって染み込んでいった。
 ──愛と呼ぶには後ろめたく、恋と呼ぶには穢れている。それでも尚、求めざるを得なかった。
 事が始まってしまえば、転がる石の様だった。突き動かされる儘、雪の夜に甘い気怠さを刻んでいった。
 
 ◆◆◆
 
 早朝、物音で目覚める。布団には私だけが寝転んでいた。二之部君は船に乗るべく、港に向かうことになっている。既に身支度を始めているのだろう。私も起き上がって、新しめの着物へと袖を通した。
 二之部君は、制服姿で茶の間に居た。「お早う御座います」と挨拶されたので「お早う」とだけ言って、茶を貰った。此の後の別れを全く意識させない遣り取りだった。
 その挨拶の後、二人の間に会話は無かった。静かに茶を啜る音がして、まだ十分に火が起こっていない火鉢を突いていたりした。
「では、そろそろ。」
 そう言って、二之部君は立ち上がる。玄関先に予め置かれていた荷物を身軽そうに担いで、半靴の紐を締め直した。
「本当に、お世話になりました。手紙をお送り致します。」
 私は、何と返せば良いか判断に迷った。楽しみにしている、では女々しい。身体に気をつけて、では世話焼きだ。頑張り給え、などと踏ん反り返るなど到底出来ぬ。
 黙った儘の私の頬に、二之部君は接吻をした。予想外の行動に、呼吸が止まる思いをする。
 朝の冷気に刺された頬が紅潮する。期待を胸一杯に満たして、彼自身が光り輝いていた。雪の白さと彼の肌の白さに、目を瞑る。
 私が取るべき態度は、皮肉にも彼の行動で定まってしまった。私は身動ぎせず、黙って下を向いた。
「達者でな。二之部君。」
 私の表情は、彼から見たらどう見えただろうか。冷徹に思えただろうか。昨夜の交わりなど、夢幻の如くと言わんばかりの言動に取られたかも知れぬ。否、それでも誤りではない。久慈四葩としても、久慈鏡四郎としても、失望してから出立して欲しかった。私を覚えていては、彼の足を引っ張ると、先程の接吻で確信したからである。
一線を超えた事は取り消せぬ。だが忘却は出来よう。彼が私を思い出として切り離し、別の世界で飛翔するのが、私の願いである。
「久慈先生も、お元気で。」
 泣きそうな、崩れそうな、それでも前を向く芯ある表情だった。真っ黒な目は濡れていたが光を宿し、しゃんと背筋を伸ばして玄関の戸を締めた。
 庭先の砂利を踏む音が遠ざかり、街の音へと混ざっていき、軈て区別がつかなくなった。
 暫し、その場に立ち尽くしていた。此れで正しかったのだと、何度も牛の如く反芻する。「此れで良かったのだ」と言葉を口に出しては飲み込んだ。二之部君が仮に帰国したとしても会いに来ることが無いよう、今の素振りでその未来も断ち切った。
 彼はもう二度と、此の家にやって来ない。二度と、私の目の前に現れない。二度と、彼の食事は出てこない。二度と、触れることは無い。二度と、語り合う事も無い。二度と、二度と、二度と……。
 逃げ込む様にして、書斎へ体を滑らせる。胸の動悸が大きくなり、体の奥から毒が広がっていく様だった。手足から熱が消え、真っ青になりながら震えていく。両手で口を抑えていなければ、家中に響き渡る金切り声を上げてしまいそうだった。堪えきれぬ声が、地の底からの呻き声となって漏れ出た。
 喪失感だという自覚はあった。自らの選択について何度も問答し、同じ結論に何度も着地させる。四十路の男が書斎で蹲り、ぶつ〳〵と言いながら呻いている姿は、狂乱の態にも見えよう。
 日が高くなって来て漸く、辺りを見回す程度に落ち着きを取り戻した。不意に机の上に、丁寧に畳まれた原稿用紙の束と、真っ赤なリボンが掛けられている包が目に入った。細長い箱に仕舞われており、洋風な装いをしていた。見慣れぬ物体に恐る〳〵手をつけた。
 リボンを解き、紙箱を開けると、真っ黒な万年筆が姿を表した。高級品と言って差し支えない代物である。くるりと指先で回すと、赤みを帯びている様に見え、温かみを抱くものであった。
 紙束を開く。其処には二之部君の文字が健やかに泳いでおり、私は水面を覗き込んでいる様な錯覚を覚えた。
 二人旅を元にした、短篇であった。瑞々しい感性は色鮮やかな風景を書き起こし、秋晴れの風を巻き起こす。葡萄と紫陽花の対比を色彩豊かに描き出しており、私は雪の下で眠っている紫陽花の花の色を思い返す。口の中に広がるのは、あの時感じた甘酸っぱさではなく、僅かに塩辛い味だった。
 最後に、私宛のメツセージが添えられていた。私に対しての深い感謝、旅先で得られた情動、海の向こうで励み続けるという宣誓、迷わずに送り出してくれた事への思いが綴られていた。
 内容の詳細を記すのは、遠慮させて頂きたい。彼から貰った言葉は私だけが独占したい。みっともない男だと言うのは重々承知だ。自らが取った行動について心を保てず、此の様な文を、彼から貰った万年筆で綴ってしまっている様な、未熟な男なのだ。
 
 私が、彼の見送りに港へは行かなかった。日本を発つ二之部君の姿は此の目で見て居ないというのに、今でもその影が心に焼き付いてしまっている。