蛇淫だいんノ段

 本の虫と自他共に認めるやつがれの部屋に、絵画があるのは新鮮であった。店で見た時よりも絵が大きく感じる。狭い部屋であるが故に仕方がないし、気にならなかった。幸いにもやつがれは一人部屋であったため、文句を言うものは誰も居ないのだ。寮生活の中で一人部屋となるのは稀である。

 部屋の様相が変わったからか、執筆が面白いほど捗る。昼間は講義の合間に部室や図書館へ赴き、夜は自室で手を黒く染める日々を送った。柳さんの事を振り切るためでもあった。
 やつがれの手法としては、先ずは分量を気にせず構想を箇条書きで書き出していくものだ。肝になる部分についての考察、事例、起こり得る不和について関連を広げていく。広げきった後、どの部分について焦点を当てるかを考え、骨組みを作り、肉付けする。そうしていると己に足りぬ部分が浮き彫りにもなり、また矛盾にも気が付き易い。
 進めていく内、今回は経済についての知識と本が足りぬと判断する。経済学に長けた者を思い浮かべ、真っ先に上がったのは安賀多であった。奴も寮住まいであるため、深夜であったが構わない。麻雀に勤しむ輩がいるくらいなのだ。
 安賀多の部屋の前へ辿り着く。奴は他の同輩と同室であったが、殆ど部屋に帰ってきていないらしく、実質安賀多の一人部屋と化していたはずだ。ノックしようと手を翳したが、人の声がする事に気が付き手を止める。
 耳をそばだてる。間違いなく安賀多の声だ。だが妙である。何を言っているか内容までは分からぬが、語り口が明瞭なのだ。奴は吃り癖があり、普段の彼の姿からは到底想像が出来ないような言い回しである。人違いか、将又はたまた部屋を間違えたかと考えたが、其のどちらでもなさそうだ。躊躇いはあったが三度ノックをした。声はピタリと止み、応答もない。
「安賀多。立科だ。」
 呼びかけると、何かを倒した様な大きな物音がした。かと思うと、扉が急に開かれる。わかめ頭のやせ細った奴が出てきた。矢張り安賀多本人であった。
「たっ、た、立科君!?」
「邪魔するぞ。」
 やつがれの部屋に負けず劣らず、本だらけであった。埃っぽいし、なんというか変な臭いがする。用件を済ませ、さっさと退散しようと心に決めた。
「お前の意見を聞きたい。」
「え、あ、……意見?」
「次の論文、経済分野においてはどうにも知識が足らんのだ。」
 粗末な木椅子の上に載った本を勝手に床に置き、其処へ腰掛けた。自らの膝に肘を付き、奴を見上げる。
「英吉利の産業革命と、現在の日本における急発展の比較。更に進んでいる資本主義思想。危険性と有益性について。」
 見据えてそう口にすると、安賀多から狼狽える気配が消えた。奴のこういった切り替えは見ていて面白い。
「えっ……と、そう、だなぁ。」
 声に落ち着きが見えた。円を描くながらぐるぐると其の場を歩く。
「先ず、開きがあるのは認めるべきだと思う。向こうの発展速度は未だ伸びている。このままだと、日本は向こうの五十年遅れのままだ。だから今は夜を徹してでも技術の獲得を目指すのは間違っていない。其処から炙り出される構造的欠陥も、きっとあると思う。」
 歩きながら腕を組んだり、指を空中でくるくる動かしたりして言葉を引き出していく。其の答えにやつがれは静かに続きを問いかける。
「其れは例えば、どう言ったものだ。」
「例えば……。産業発達による公害や薬害。企業家の労働者の酷使。問題が顕在化するのも、解決するのも時間が掛かるだろう。企業を意識した論文にするなら、警鐘を鳴らすのも良いかもしれない。」
 奴の足が止まる。奴なりの一つの着地点に到達したのだろう。
「有益性については?」
「製糸の向上で、衣服が安価になる。着物を始めとする伝統技術に新たな価値観が吹き込まれる。其れを輸出する為にも、造船技術は活用される。外資獲得の強みになる、と思う。」
 概要や方針が見えた。やつがれは一つ笑みを浮かべ椅子から立ち上がる。
「何冊か本を見繕って、明日届けてくれないか。」
「い、あ、勿論! 勿論いいとも!」
 部屋を出ようと立ち上がったが、安賀多の様子が妙であった。部屋の扉への通り道を塞ぐようにして立っていた。
「ふ、ふふ。頼ってくれて、嬉しいよ。立科君の力になれるなんて、夢みたいだ。」
 ぞわり、と鳥肌が立つ。褒め言葉と取れば良いだけの台詞に、何故か身の危険を察知する。
「何を。やつがれを買い被りすぎだ。」
「そんな事ない!」
 否定した事を更に否定される。安賀多らしかぬ大声で叫ばれ、やつがれは怯んだ。
「君は、ボクにとって、かっ、神様みたいな、存在だよ。優秀で、熱心で、眉目秀麗で、其の……こ、こ、こうして話を聞いてくれて……。」
 恍惚に満ちた瞳だった。癖のある手入れされていない髪から覗く其れに、背筋が粟立つ。
 此奴はやつがれの同輩であると同時に、信奉者であると知った。其れも熱狂を孕んでいる。
「其れより、やつがれが来る前に何か言ってなかったか。」
 話題を変えよう。そう思って口をついたのは廊下へ聞こえてきたあの語り口についてだった。安賀多の顔がみるみる赤に染まっていく。
「え、あ……! き、聞こえてたかい!?」
「いいや、内容までは。ただ、朗々としていたので演説の練習でもしていたのかと。」
 慌てふためき出した安賀多は、顔を覆い、伸びた爪で頬をガリガリと掻いた。
 「ぼ、ボク、ふ、仏蘭西文学が好きで、さっきのは……、仏蘭西戯曲の台詞なんだ。好きな一節が、あって。」
 戯曲。なるほど。そういえば奴は演劇を好むとも聞いたことがあった。
「やつがれは、芸術の事は颯張さっぱり分からんが、心惹かれる気持ちは分かる。」
 やつがれにとっての、青白い男の絵がそうであるように。同意を示すと、安賀多は不揃いの歯を覗かせて笑った。其の隙に横をすり抜け、部屋のノブに手を掛けた。
「明日は部室に居る予定だ。頼んだぞ。」
 安賀多に見送られて部屋を出る。妙な寒気を感じたが、彼奴は優秀であると思う。思う事にした。
 やつがれは軟派でもなければ硬派でも無い。邪険に扱うのは簡単だが、手近に知識を得られる輩は貴重なのだ。
 上手く扱わねば、と心に言い聞かせた。

 ◆

「趣味が悪すぎないか。」
「放っておけ。」
 青泉から絵についての感想を述べられ、やつがれは不機嫌であった。欲しいと思ったから譲ってもらったまでだ。他者があの絵について何か語られる事自体が不愉快に感じる。本を借りに来ただけならさっさと出て行って欲しい。
「もっとこう、あるだろう。絵が欲しいなら何か取り寄せたのに。」
「名無しの画家志望が描いたからこそ惹かれるものもあるかも知れぬだろうが。其れに、貴様の財力は一切借りん。」
 青泉も青泉で、灰藤先輩程では無いにしろ金持ちであった。旧来からの地主の次男であり、寮ではなく自宅から通っている。短髪の後頭部を叩きたい所だが手が届かなかったので、肩にした。
 イテッと声を上げたが、どうせ猫がぶつかった程度の衝撃しか与えられていないだろう。
「また本を増やして……。適当に片付けてやろうか。」
「お前は小言を言う為に来たのか。」
 好きにしろ、と吐き捨てて自室を後にした。どうせ本もやつがれの部屋で見るつもりなのだ。鍵を締める必要もないので、青泉を置き去りにした所で問題はない。
 夕陽が差し込む廊下で盛大な溜息を吐く。兎に角書かねば。演説会まで日があるようで無いのだ。部室へ行って執筆の続きに取組むべく、やつがれは風を切って歩を進めた。

 部室には灰藤先輩だけが居た。独逸語詩集の訳をしているらしかった。会釈をすると、灰藤先輩が立ち上がる。
「立科。」
 先輩も背が高いので、やつがれは必然見上げる形となる。何故、こうも縦に長い連中ばかりなのか。食い物の違いでやつがれの背が伸びなかったのであれば仕方がない事だが。端正な顔立ちを引き立てる様に、顎まで伸びたさらりとした髪が揺らめいている。
「柳さんに、何かしたか。」
「何か、というのは。」
 手紙が届いている。声を潜め、耳打ちされた。
「さぁ……。以前の打合せ後に青泉と軽く飲んで意見交換をした程度ですが……。」
 真実だ。嘘は微塵もない。辯論部宛に届いた手紙は、城島先輩や他のメンバアの目に付くと面倒だからと灰藤先輩が預かっているらしい。
「今、渡そうか。」
 高嶺の花と謳われ、憧れの的である佳人から個人宛の手紙など、誰がどう見ても疑いたくなるものだ。気を遣ってもらってしまい申し訳なくなる。
「今なら部屋に青泉が居ます。帰り掛けに、奴に渡して頂いてもよろしいですか。其の、論文に集中したいので……。」
 灰藤先輩は一つ頷くと、身支度をして退出した。やつがれを待つ為に、課題で時間をつぶして居たのだと知る。益々申し訳なさが募った。
「嗚呼、全く。厄介だ。」
 望まぬ好意は行動の邪魔になると思える。安賀多にしろ柳さんにしろ、悪いようには思わぬが、興味もないのだ。
 そうだ、安賀多に本を頼んで居たのだった。大きめの机、大人数が掛けられるソファ。其れから一人用の机と椅子。窓側の本棚も眺めたが、其れらしき本は無い。広さがある部室だとしても、新たに置かれたものが分からぬ程ではない。
 書きながら待つと決める。小腹が空いたが、元より少食な為、我慢できる程度だ。
 夕陽が沈む前に、洋燈らんぷの準備をして取り掛かった。

 ◆

 目を覚ますと辺りは随分暗くなって居た。窓の外からは街の灯りが見える。しまった。うたた寝をして居たのか。原稿を確認したが涎を垂らして居たわけでは無かったので、安堵する。
 ふと、背後から薄明かりがあると気がつく。そうでなければ、手元の原稿すら判別出来ぬはずだ。別の洋燈が付いている事に気が付き、ソファを見やる。
 もぞり、と人影が動いた。
「ッ! だ、誰だ!」
 暗闇に怪しい人影。身が反射的に竦む。手元のペーパーナイフを握りしめた。瞬時に汗をかく。
「ぼ、ボクだよ。た、た、立科君……。」
 嗚呼、何だ安賀多か。安堵の息を吐いた。暮明くらがりというのは其れだけで警戒心を掻き立てるものだ。気が抜けたのも束の間であった。
「さ、さっき来たんだ。其の、そろそろ起こそうかと、思ってたんだけど、疲れている、み、みたいだから、其の……。」
 時計を見ると午後九時であった。其の数字にギョッとした。幾ら何でもこの時間に、さっき来たというのは不自然過ぎる。暗闇に包まれたまま、此奴は、何をしていたのだ? 洋燈があるとはいえ、本を読むか物を書くかで精一杯だ。ソファと机の上には何もない。では、此奴は一体、何を?
「こ、これ。頼まれてた、本、持って来たんだ。」
「あ、嗚呼…….。ありがとう。」
 安賀多が不気味な存在に思える。然し差し出された本を受け取らぬのも変だ。三冊の本を鞄へ仕舞う。机の上も片付けてしまおう。背を向け、全ての荷物を纏めた所で異変は起きた。
「たっ、立科君て、肌が綺麗だね。間近で見て、お、驚いたよ。」
 背後から安賀多に抱き締められる。耳元で囁かれた台詞にも鳥肌が立った。短い悲鳴を上げ、奴を突き飛ばす。鞄を落としてしまった。拾い上げながら、視線を奴から外さずに問う。
「何を、するんだ。触るな。」
 ゆらり、ゆらりと脱力した様子で……いや、静かに笑いながら、再び此方へ近づいてくる。距離を取ろうにも、背後は机と本棚だ。
「ボクね、庵野君が、羨ましかったんだ。立科君と仲が良くて、冗談を言い合って、た、たまに立科君、庵野君に笑いかけるだろう?」
 何時ぞやに言われた、バアの言葉を思い出す。
 ……あれは、真逆。やつがれと青泉の間柄が羨ましかったのではなく、青泉が羨ましいとの意味だったのか?
「嵯峨崎君は、本当に嫌な奴だ。酒に酔ったフリをして、立科君の名前を呼んで、あろうことか名前呼びさせようとするなんて!」
 奴の吃りが無くなっていく。其れは部屋の外で聞いた、あの語り口に近づいていく様だった。
「嗚呼! 腹立たしい。ボクは、ボクはあの時怒りに震えていたのさ!気安く呼ぶ嵯峨崎君に、理解者ぶる灰藤先輩に、君に触れられていた庵野君に、危機感のない立科君に!」
 震えていた。あの時。あの時はやつがれと嵯峨崎のやり取りの中、誰しもが肩を震わせて笑い転げ、灰藤先輩は噴き出すを堪えていた。
 ……安賀多の震えは、怒りだったと?
「落ち着け、安賀多。酔っているのか?悩みでもあるのか?」
 成る可く穏便に場をやり過ごし、直ぐにでも逃げ出したかった。暗闇に浮かぶ、痩せ細った安賀多の姿は異形のものにも見えた。
「悩み? そんなものでは無い! ボクが、ボクがどれだけ、君のことを愛しているか、君が知らないと言うのなら!」
 距離を詰められたかと思うと、景色がグルンと変わった。そして身体に走る衝撃に、声が詰まる。
「嗚呼、夜空に浮かぶ銀の月。君の其の素肌は青褪めた月に照らされて浮かび上がる月下美人の花弁のよう!」
 ソフアに向かって突き飛ばされたと分かったのは、衝撃を受けて体勢を崩してからであった。芝居掛かった口調で、普段の姿からは到底思いつかぬほどよく通る声が響く。暗くなった部屋に蠟燭の灯りがジリジリと揺れる。
「其の素肌に触れられるのであれば、ボクはボクの持ち得る全てを持ってして、君に捧げよう。君の肌は此の世の物の、何より白く、完全な美に他ならない!」
 酒に酔うよりも厄介だ。文字や台詞に酔う人間はこんな風になってしまうのか。許容量きゃぱしてぃを超えたやつがれの脳内では目の前の輩を罵倒し拒絶する言葉で溢れていたが、喉奥に閂止めをされたかの如く、呼吸さえも詰まっている。
「嗚呼、瑞々しい庭園の輝き。君の其の口唇は燃えるように赤い薔薇の花弁。」
 頬に奴の手が添えられる。産毛が弥立つ寒気が全身に駆け抜け、やつがしは反射的に後退りした。然し背後は壁とソフアの背凭れであり、結果的に追い詰められる形となる。
「其の口唇に口付けられるのであれば、ボクはボクの定める全ての掟を打ち破り、君に近づこう。君の柔らかな唇は此の世の物の、何より紅く、甘美な誘惑に他ならない……。」
 吐息交じりの台詞回しは其の儘に、やつがれへと顔を近づける。身を引いて顔を背けたが、目を逸らす事が出来ぬ。
「拒絶して呉れるな。手に入らぬというのなら、君の首を銀の皿に載せ、其の口唇を作り出す血液さえも飲み干して、君に口付けをする。いいかい、君に口付けをするよ。立科君。」
 頬に触れていた手は首を捕らえた。ヒヤリとする指先が生々しい。其れが虚勢ではないと感じ取り、身が竦む。呼吸が浅くなり、閂止めはより強固になるばかりだ。何か言葉を発しようものなら、十中八九其の隙をついて組み敷くだろう。力一杯、安賀多の胸を押したが劣勢もあってビクともしない。
「……っ!」
 ベロリと唇を舐められる。安賀多の荒い呼吸が耳障りだ。首を持つ手に力を込められる。歯列に鍵をかける心持ちで食いしばるが、安賀多は其れに昂奮したらしかった。
「嗚呼、ボクの薔薇、ボクの月、ボクの立科君……!」
 狂気的な笑みに身体が震えだす。首の皮膚に爪が食い込み、気道を締め上げられた。堪らず空気を求めて反射的に開いた口に、奴の舌が侵入してきた。
「……っ、ぅ、……!」
 気持ち悪い! 気色悪い! 腐った鰻を口に突っ込まれている気分だ!
 焦点の合わぬ瞳には更に貪ろうとする昏い光が見える。歯の一つ一つを舐られ、吐き気を催した。
「……っぁ、」
 声にもならぬ声が漏れる。其の瞬間、安賀多の逸物がいきり勃った。制服越しに擦り付けられる熱と形に嫌悪するが、どうにもならない。
「立科君、立科君……!」
 安賀多はやつがれの制服に手を掛けた。阻止しようと藻搔いたが無意味であった。勢い良くシャツの釦を弾き飛ばし、素肌を晒される。愈々取り返しの付かぬ事態になってきた。
「やめろ、やめろ! 退け!失せろ!」
 漸く出せた言葉は芸がなく、恐怖に染まった声音だった。こんな物は効力を持たない。相手をより調子に乗せるだけだ。
「嗚呼、夜よりくろしるくの髪! 誰も踏み締めた事のない高貴な雪原! 君は、ボクの神であり、神の御使!」
 骸骨のような身体つきだというのに、一体どこから斯様な力が出てくるのか。体格差はそう無いはずなのだ。革帯を外し、ズボンを寛げる。出てきたのはグロテスクな赤蛇だった。馬乗りになり、やつがれの胃袋辺りに其れを擦り付けた。先走りのツユに濡れ、鼻をつく臭いに涙が滲む。
「ふ、ふふふっ。ご覧、立科君。今から、君を犯すよ。明日さえなくて良い。ボクは明日の日常さえ差し出して、君を犯す。
 法も、規律も、倫理も、道徳もらるさえ破って、君を穢す。」
 情けない事に悲鳴を上げた。手当たり次第物を投げたが両手首を取られ、奴の革帯で拘束される。泣き喚いたが助けなどある訳が無い。夜まで睡りこけた事、安賀多の箍が外れた事が運の尽きなのかもしれぬが、抵抗せずに居られなかった。
「嗚呼、愛らしい白い鳥。気高い蝶。触れる事さえ憚られる天の使い! 君の白い肌は、其れ等どれよりも美しい!」
 腹の上で腰を振り、逸物を卑しく擦る。やつがれの貧相な腹と平らな胸の間を滑る赤蛇は、涎を垂らしながら迫ってくる。
「嗚呼、嗚呼! どれ程、この時を想像したか! ボクの芥子の花で、月下美人の花を穢す日を、心を焦がして待って居た!」
 安賀多が小さく呻いた瞬間、粘度のある液体が胸に散る。其れ等は酷く熱く、鳴嚢めいのうの如く烈しく滴っていった。勢い良く爆ぜた所為で、やつがれの頬にまで付着する。現実離れした状況に息が引き攣った。
「何と、何と美しく、卑猥なのか。天女よりも美しく、君は売女より卑しい……。」
 到頭ズボンさえも取り払われた。下半身が空気に晒され、信じられぬことに、安賀多はやつがれの芯にむしゃぶりついた。
「い、いや、嫌だ! 離せ! 嫌だ!」
 腰を抱え込まれ、長い腕で固定される。鈴口を啜る安賀多の舌と歯の感触に身悶えた。
「花の蜜。花の蜜の様だ……。」
 涎を垂らし執念しつこく舐られる。口内の粘つきと安賀多の息がムッとする臭いを助長させていく。
「ひ、っ……!」
 ゆっくりと口から引き抜かれ、勢いよく含まれた。溢れたやつがれの体液と安賀多の涎が混ざり合い、後ろの孔へ伝っていく。拘束を解こうと何度も身体を跳ねさせたが、より力強く締め上げられてしまう。
「い、ぁっ! 何、何をっ……! ぅ、っぁ、あぁ!」
 滑る液体を使って、安賀多の親指が、双丘の奥にある孔へと埋まっていく。出入りを何度もさせて、指を変え、本数を変え、二本の指が体内でバラバラに動かされる。あっさりと指を飲み込んでしまった事実に、絶望の淵に立たされる。
「ふ、うぅ、ひぐっ、う、ううぅ……!」
 最早子供の如く泣き噦る他なかった。暴力を振るわれるのであれば、耐えられた。然し、こんな、強制的な快楽は拷問である。そんな事は知りたくもなかった!
 不自由な両手で安賀多の頭を押し返そうとしても、其れは奴の癖のある頭髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる以上には及ばない。更に性急な動きとなり、やつがれを追い詰めていく。
「っふ、ぅう、うぁっ、あ、や、嫌だあぁ……!」
 淵から突き落とされた。体内のある部分に指が擦れたのと、花芯を強く嘗められた事で、吐精してしまった。安賀多は荒い息のまま、やつがれのを飲み下していく。
「あ、はぁっ、あはっ、ははっ! 立科君! 立科君!
 気持ち良かったかい? ボクの奉仕は、気に入ったかい!?」
 狂った鼠の様に身体を震わせ、けたゝましく笑う。現実を直視できず、やつがれは無力にも落涙するしか出来ぬ。
 やつがれは、この男に何をされた? やつがれは、やつがれは、やつがれは……!
「立科君。未だだよ。ボクの、ボクの熱い思いを、受け入れてくれ!」
 怒張した赤蛇は、先程腹を行き来した時よりも膨れ、獲物を狙う牙を覗かせていた。
「い、嫌、嫌だ! 安賀多! やめてくれ!
 安賀多ァ!」
 みっともなく懇願したが無駄であった。ヅプ、と突き立てる感触に吐き気を覚える。
「いっ、っああぁ……!」
 指なんぞよりも圧倒的な質量であった。身体を折り曲げられたと思えば、何度も引き抜かれ、何度も最奥地へと打ち付けられた。其の反動でやつがれの口から短い悲鳴が漏れた。
「う、あ、ぁ、あぁ、あぁ、っ……!」
「其の声、其の顔、其の瞳……! 立科君! 信じられない!
 紊れた君はっ! 嗚呼、何と! 何と淫靡なのか!」
 涎と涙と洟水で、やつがれの顔面は酷い有り様だろう。其れよりも、安賀多との結合部分は更に酷かった。沼地の蛇が泥ごと、獲物を巣穴に引きずり込もうとしているかの様だった。
「出す、出すよ! 立科君!」
「い、や、嫌だ、嫌だァ! 嫌っ……あ、ああぁ……!」
 体内で安賀多の蛇が舌を這わせた。大量に、断続的に注入される。果てて終わりかと思いきや、奴の動きは止まらなかった。
「ひ……! やめ、止めろ、無理だ! 無理だからぁ……!」
「未だ、未だだよ、もっと、もっと……!」
 安賀多は達したまま、何度も抜き差しを繰り返す。注がれた白濁はやつがれの体内から溢れた。洪水を引き起こした堤防が、虚しくも堰き止められず、ぐぼごぼと濁った音を立てる。
「立科君、拒絶して呉れるな! 君が拒絶を繰り返すのなら!」
 安賀多の左手がやつがれの首を捉え、其のまま有りっ丈の握力を込められる。咄嗟のことで開いた口を、奴の唇と舌で塞がれる。
「がっ……! あ、ぁぐ、ァ……!」
「ほらっ、分かるかい、君の孔が締まって、ほらっ、ボクの形、分かるかい!」
 ごぶ、ごぼ、と聞いた事もない音と、奴の本能だけの声が頭の中で反響する。
「ぐ……、ぅ………!」
 黒い虫食いが視界を覆い、安賀多の動きに合わせて明滅する。
 死ぬ。死んでしまう。
 脳内で昏く浮かぶ鈍色の銀が、一つの思考となって、身体の体温を下げていく。
「……ぁ、かっ……、あが、た……。」
 酸素不足で痙攣し始めていた。奥歯がガチガチと鳴る。細かなステップは、絡繰人形が無規則かつ不必要に八の字を描く音に似ている。軈て其れは倒れて、修復できぬ様な、歯車を破損する音だ。
 視界が全て黒に塗り潰されたところで、やつがれは失禁するように果てた。
 絶望の淵から突き落とされた後は、其の儘、黒い沼へとどっぷりと沈んでいくしかなかった。


 ◆


「……い、え……!」
 遠くで漣が聞こえる。……いや、睡眠を邪魔する、歯痛かもしれぬ。周期的な波には違いない。勝手に鳴り、勝手に浮上させ、起きたくもないのに覚醒してしまう奴だ。
 止めてくれ、やっと眠りにつけたのだ。起きたくない。ずっとこのまま、泥の中で眠りたいのだ。
「ぇい……!……永!」
 聞き慣れた音がする。やつがれの名だ。気安く呼ぶなというのに、何時だって彼奴は……。

 ……ハテ、彼奴とは、誰であったか。

「永! しっかりしろ! クソッ、永!」
 嗚呼、本当に五月蝿い奴だ。そんな大声でなくとも聞こえている。どうしてお前は、やつがれを外へと連れ出したがるのか。
 億劫であったが、重い瞼を開く。暗闇の中、洋燈の明かりが眩しく思えた。
「永、永……!」
 今にも泣かんばかりの表情で、青泉がやつがれを呼んでいた。
 気安く呼ぶなと言っている。声に出そうとして、全く其れが叶わない事に気がついた。
「……ぁお、い。」
「永……!」
 酷く掠れた声が、誰のものか分からなかった。青泉が力強くやつがれを抱く。止めろ、引っ付くな。身体が怠く、今直ぐにでも寝直したい位だった。
「連れて、帰るからな。医者も。秘密裏にしてくれる処から、呼んでやるからな。」
 青泉の言葉の意味がよく分からなかった。
 連れて帰る? 医者?
 やつがれは何か怪我でもしただろうか。若しや頭でも打って気絶したのか。其れにしたって此奴は慌てふためき過ぎだ。
「お前が、泣き愚図って、どうする。」
 何時もの悪態が上手く言えぬ。喉が痛い。丸で首回り全てが痣だらけになった様な……。其れよりも力任せに抱き締める強さに呻いた。
 兎も角、やつがれは眠る前、何をしていたか。部室とする部屋の一角で提出するための論文を練り、其の儘仮眠をとり、其の後、其の後、……其の後!
 弾かれる様に、やつがれは今の姿を省みた。体内から内股へ伝う粘度のある液体が溢れていく。
「……!」
 訳のわからない体液の染みが、制服にこびり付いている。下半身は何も身につけておらず、暴行されたという事実に塗れていた。顔の皮膚も、涙や、……其の他の何かが乾いた後だからか引きつっている。手首は革帯の摩擦で擦り傷と痣が残っていた。
 途端、胃液がせりがってきた。最後の矜持で、嘔吐を堪える。崩れ落ちそうになる体勢を、青泉が支えた。
「嗚呼、そうだ、そうだった……!」
 嘔吐は耐えられたが、かわりに涙腺が決壊した。呼吸が乱れ、どうしようもない忿怒と無念に胸を掻き毟る。
 どうすれば良かったのか。もっと本気で抵抗すれば良かった筈だ。安賀多に恐れる要素はなかった筈なのだ。だが、やつがれは其れどころか、其れどころか……!
 烈しく燃える後悔の炎は腹や喉を焼いた。顔を覆い、体内から熱を排出する為に涙が溢れているのだと理由付ける。これからどうしたら良いのか。何をすれば良いのか。溢れる涙を一頻ひとしきり流し、何とか呼吸を整えた。
「……青泉。手伝え。」
「永……。」
 奴の手を借りて身支度をする。身を清め、怪我の手当てをし、万全にならねばまともな思考が出来ぬ。

 今は何も考えず、現状復帰に努めるのが先決だ。