青交 せっこう ノ段

 翌日、早朝に目覚めた。いや、碌に眠れなかったのだ。青泉に付き添われたまま、安賀多の部屋に乗り込むと決める。
「乗り込んで、どうするつもりなんだ。」
「死ぬほど殴る。」
 腹の中は相変わらず忿怒の炎が燃え盛っている。下腹部の違和感は残ったままであるし、首も絞められた痕がくっきり残っている。幸い傷ではなく痣なので暫くすれば消えるだろう。特に隠すこともしなかった。包帯なんぞを巻いたら、却って目立つと判断したからだ。
 
 戸を叩くが反応はない。声を掛けても不気味な程の沈黙しか返ってこない。周囲の生活音に紛れ、聞こえないのかと疑ったが、居留守を使われているのかもしれない。思い切って戸を開けた。
 紙と埃の匂いに混ざり、鼻をつく異臭がする。反射的に身を引いた。青泉も直ぐに気が付いた様だ。
 何かが妙だ。
「安賀多。庵野だ。……居ないのか。」
 どこで寝起きしているかも分からぬほどの本の山。青泉は慎重に、足場を確認しながら進む。左手の本棚を避けて、顔を左へ向けたところで、青泉は息を呑み立ち止まった。
「安賀多……!」
 青泉が引き攣った声を上げる。やつがれは奴に遮られ、見えていない。ヒョイと身体を擦り抜けさせ、直ぐに後悔した。
「永、見るな!」
 青泉が身体を引っ張り、大きな手でやつがれの瞳を覆おうとしたが一足遅かった。焼き付いてしまった。
 本棚の影に隠れて、天井からぶら下がる其れは、骸骨模型に服を着せたのを吊るしている風にも見えた。異臭の発生源でもあると分かる。吊るし骸骨の足許に、汚物が垂れている。
 本の山を踏み台にして、安賀多は首を吊っていた。
「何を、勝手に、死んでいる……!」
 奥歯がガチガチと鳴る。
「死にたいのは此方だというのに! 安賀多、貴様ァ!」
 掴みかかろうとするやつがれを青泉は羽交い締めにして止めた。
「止めろ、永! 落ち着け!」
「巫山戯るな! 巫山戯るな! こんな事があってたまるか!」
 安賀多が憎たらしかった。やつがれを穢し、犯し、其れを断ぜられる事もなく逃げた事が許せなかった。
 ドアを開け放した儘だった為、野次馬が次々とやって来たが、構っていられなかった。やつがれは言葉にならぬ叫びを上げる。
「誰か、誰か! 先生を! 安賀多が首を吊った!」
 青泉はやつがれを捕らえた儘、大声で呼び掛ける。只ならぬ気配を感じ取った数人がバタバタと廊下を駆け、何人かは部屋へと入って来た。一様に怯え、恐れ、鼻と口を覆う。
 騒然となった室内は、軈て本の山を隔てての過密状態となった。現実に起こっている事と認める事が出来ず、やつがれは急激な離人感を覚え、叫ぶのをやめた。
「なぁ、これ……。」
「……いや、……これは……。」
 囁くような声と不躾な視線を肌で感じる。名も知らぬ寮生が十数枚の紙を眺め、此方をジロジロと見ている。
 やつがれの頭の先から爪先までを眺め、首と手首……要は昨日の痕を確認されていると分かった。
 彼らが手にしてた紙を、青泉が無言で奪い取った。
「青泉。何なんだ、其れは。」
「……恐らく、遺書だ。安賀多の。」
 遺書? 彼奴の? そんな物を認めて、一体彼奴は何がしたいのか。逃げ果せた言い訳でも書かれているのか。其れとも一丁前に親への不孝を、あの大袈裟な言い回しで書いたとでもいうのか! 
 再び頭に血が昇る。手を伸ばし、破こうとしたが其れは叶わなかった。
「お前が見る必要は無い!」
 あまりの大声に身が竦み、呼吸が止まった。青泉が激しい怒りを覚えている。発せられる空気はビリビリとし、吊り髑髏の存在さえ一瞬薄れた。グシャリと紙束を潰し、やつがれを熟視する連中に向き直る。
「君達。」
「はっ、はい……。」
「分かっているだろうな。」
 青泉が睨みを効かせる。獰猛な肉食獣を彷彿とさせる さま に言葉を失った。やつがれを庇う様に前に立ち、彼等を見下す。
 青泉が此処まで怒るなど、安賀多は一体何を書いたというのか。
 彼等が何か言おうとした所で、先生方がやって来た。部屋から追い出される。廊下でへたり込みそうになるのを堪えたが、壁に凭れるのがやっとだった。
「永。自室に……いや、俺の家に来い。此処にいない方が良い。」
「何故……。」
 安賀多が死んだ。安賀多が逃げた。此の怒りをぶつける先が無い。怒りは体力を奪うと身を以て実感する。動悸と息切れが酷くなっていく。
「後で言う。この遺書は警官へ預ける。」
 言うが早く、青泉は近くにいた先生と警官に駆け寄り、二、三言交わす。鋭い目が此方へ向いたが、更に青泉が何かを囁いた。序でに握手も。途端、警官の態度が軟化したのが分かった。
 場にそぐわぬニコポンな態度に、青泉が何か、権力や財力を振り回していると悟った。
「行こう。」
 返事を待たず、腕を引かれる。着のみ着たまま、やつがれは学舎を後にした。
 
 ◆
 
 錯乱は暫く続いた。青泉から聞いた台詞は信じがたい物であった。
 あの遺書らしき物についてだ。
 中々口を割らない青泉に詰め寄り、吐かせた事実に、知らぬが仏という言葉を実感する事となる。
 あの中には、親への詫びや、やつがれへの謝罪なんてものは一切無かった。やつがれを襲った時の状況を細微に渡り、描写したものだった。
 彼奴の遺書の結びはこう書かれていたという。
 『ボクの神が最期に口にした言葉はボクの名だった。ボクにとって其れは永遠であり、不変の事実である!
  神を僕の手許へ引き摺り下ろした証拠である!』
 荒れに荒れ、床や壁を殴り、言語化出来ぬ叫びを上げた。
 家中の人払いを済ませたと聞かされなければ、斯様に発散は出来なかったであろう。結局は青泉の財力と権力……案の定、警官には庵野の名と賄賂を渡し、秘密裏に調査する事を言い含めていた……を借りる事となった。
 背中を擦られ、初めてやつがれは呼吸を思い出した。ベッドに腰掛ける様、促される。
 柔く沈む感触が昨日のソフアを想起させた。青泉が掃除してくれたらしいが、辯論部のメンバアに悟られるのではないかと、気が気でなくなる。
「何故、何故やつがれは、……!」
 死してでも抵抗すべきだった。そうすれば苛むことも無かった。蹂躙されながらも、やつがれは確かに快楽を拾ったのだ。そうなる前にあの行いから脱するべきだった。
 否、彼奴はやつがれが自死したところであの忌々しい行為を続けたかもしれぬ。死人と 交叉 まじわ る等、理解出来ぬが可能性はある。
 彼奴の行き過ぎた好意を持たれた時点で、やつがれはこうなる運命だったのか。
「気持ち悪い……!」
 全身が、しでかされた部分全てが! 
 自らの身を抱き、爪を立てる。
 此れは呪いだ。尊厳や意思もなく、安賀多に全てを塗り替えられてしまった。
「永。」
 不意に青泉が名を呼んだ。肩を掴まれ、正面から向き直される。畏まった声音であり、神妙な面持ちであった。
「お前が望むなら、俺の所為にしていい。」
 言葉の意味が分からず、首をひねる。
「安賀多の感触を、俺で上書きしてやる。彼奴にされて嫌だった事を、俺の所為にしていい。」
 其の台詞の意味が分からぬほど初心ではない。想像の斜め上をいく発言に、やつがれは狼狽えた。
 やってみるか、と射抜く眼光に縫い止められ、目を逸らせなくなる。
 瞳を見、視線を落とし唇を見た。この唇が、やつがれに……と想像し、生唾を飲む。
 沈黙の中、青泉の指がやつがれの唇に触れる。蝶が止まった様な触覚と共に、青泉の視線が熱を持っていくのを眺めていた。
 ほんの少し触れられただけだというのに電気が走るかの様な心地であった。
「青泉、……。」
 平常心では居られない所為だ。気持ちが昂ぶってる所為なのだ。
「……口付けて、やつがれの歯全てに、舌で触れろ。」
 思考する力を失した儘、静かにそう命令すると、青泉の大きな手が顎下に添えられる。互いに目を閉じぬまま、唇同士が触れ合った。
「ん、ふ、んんっ、……!」
 青泉の口唇は厚みがあり、舌も肉厚であった。柔らかく瑞々しい感触が心地よい。次第に頭がぼうっとし始める。
「ん……っ、ぁ、おい、ふ、ぁ……、っん……。」
 合間に名を呼ぶと、一層貪るように、角度を変えて舌を抜き差しする。覆い被さろうとする青泉の重さを支えきれず、やつがれはベッドに仰向けに倒れこんだ。
 囲う様に押し倒され、更に深く接吻を交わす。
 くぐもった互いの声と熱い息が部屋に篭り、妙な雰囲気へと一気に塗り替えられていく。
 青泉にやつがれは何をさせているのか。
 妖しい空気の中、正気になった脳味噌が囁く。青泉に何かをさせた所で、事実の上塗りになるだけだ。
「……不毛だ。」
 呟いた言葉は青泉を遠ざけはしなかった。寧ろ、太腿に青泉の象徴を擦り付けられる。熱した石の様であった。
「お前も、やつがれを……安賀多の遺書を読んで、抱きたいと思っていたのか。」
「いいや、思わなかった。……だが。」
 低く這う声に野生の雄の気配が漂う。やつがれにはあまり持ち得ぬ部分だ。
「今は猛烈に抱きたい。お前に、俺以外の匂いが着いていることが、腹わたが煮えくりかえるほど、許せない。」
 下腹をぐっと、押される。何とも言えぬ感覚に息を詰まらせた。
「彼奴に、何をされた。」
 強い口調は誤魔化しを赦さぬものだった。其れから、この行為の中断も。
「や、つがれの、……。」
 期待なのか、恐怖なのか。
 ドクドクと脈打つ全身の音が五月蝿い。
「腹に、彼奴の逸物を擦り付けられて、……。其の儘、彼奴が果てて、舐られて、同時に解されて、犯されて、首を、首を絞められて……!」
 其処まで言うと、青泉は再び接吻をする。どちらの物かも分からぬ唾液に、やつがれも青泉も間違いなく興奮していた。荒くなる互いの息は、熱を更に帯びていく。
「彼奴より、良くしてやる。」
 丁寧に洋シャツを脱がされ、下腹に青泉の物が添えられた。やつがれは直視出来ず、咄嗟に顔を覆う。
「視覚的に、これは……。」
 正直クる物がある。白状するかの如く呟かれた台詞に、愈々羞恥心が募る。どうにもジッとしてられず、歯をくいしばる。
「永、……。」
 抱きしめられ、密着した状態で青泉は腰を振る。耳元で吐息とともに囁かれた名前に、背中や腰がぞくりとする。
「っ……、ぅ、ぁ、青泉っ、……!」
 やつがれのもまた、青泉の鍛えられた腹筋に擦られ、高められていく。次第に粘膜の音が響き始め、其れからムワッとする臭いが立ち込める。肌で感じる汗と熱に浮かされていく。
 乱れていく互いの声と呼吸が部屋中を埋め尽くす頃には、余裕なんてものは消し飛んでいた。
「イくぞっ……!」
 密着した肌の隙間に、放たれた精液が広がっていく。粘度のある青泉の白濁は多量であった。
 青泉は余韻に浸ることもなく、やつがれの身体をグイと起こす。高まったままの芯が、弾みで揺れた。
「脚、広げられるか。」
 言われるが儘、脚を開くと、青泉は其の間に収まった。ベッドの下に膝をつき、やつがれの芯へと舌を這わせた。
「其の、……気持ち悪くないのか。」
「お前のなら、良い。」
 厚みのある舌が這う。鈴口から雁首に掛けて咥えられ、十分に濡らさせられる。
「はっ、ぁ、……!」
「……次は、こっちか。」
 唾液を多く垂らし、窪みへ伝っていくのを指でなぞられる。腹から垂れた青泉の精液と唾液、やつがれの先走りが混ざり、十分な滑りを持っていた。
「ひっ、あぁ……! ぁ、……!」
「怖く無いから、な。ゆっくりやろうな。」
 嘗められながら後ろを弄られ、羞恥で死にそうになる。何故、青泉にこの様なことをやらせているのか。此奴は憎たらしい友人だったのではないのか。
「青泉、やっぱり、止めろ……! 嫌、ぁ、ぅあっ!」
「……大丈夫だから。」
 俺の所為にするんだろう。含まれながら喋られて、歯に当たる感覚にぞわぞわとする。
 孔内のある部分を擦られ、爪先に痺れが走った。
「……っ、な、何だ、今の……。」
「此処か。」
 ニヤリと笑う奴から強烈な色香が舞う。一定の間隔で先程の所を刺激され、浮遊感に似た感覚が襲いかかる。
 快楽は恐怖にもなる事を、身を以て知っている。そして其の逆も……。
「んぁ、ひ、ぁ……! や、やだ、青泉っ、やだぁ!」
「良いんだろ、此処。」
 前から、後ろから刺激を与えられ、訳が分からなくなる。安賀多にやられた時よりずっと心地よく、ずっと恐ろしい快楽だ。卑猥な水音は激しさを増していく。
「は、あぁっ……! ん、んんっ、ぁ、青泉、青泉……!」
「んっ……。」
 堪えることもできず、熱を放つ。全てを吐き出し、呼吸が収まるまで、青泉はやつがれの芯を吸い上げた。
「……飲んだ、のか。」
「ああ。」
 舌を唇から覗かせる其の姿は狼にも見えた。鋭い歯に噛みつかれれば、二度と離されることはないだろう。やや強めに肩を押され、ベッドへ押し倒される。
「……挿れるぞ。」
 愕然とした。
 間髪入れず降ってきた言葉に釣られ、青泉の逸物を注視したためだ。
「ま、待てっ! そんな物、入らないっ!」
 やつがれの物とは造りから違う。赤子の腕程ありそうである。背丈が高いから、ある程度の差はあるのは分かるが、逸そ其れは暴力的にさえ見えた。太い血管が浮き、脈打っているのが分かる。
「大丈夫だ。お前なら、……!」
 荒い息が漏れていた。青泉も余裕が無いことを悟る。力では敵う訳がない。半ば無理矢理に組み伏せられ、窄みに突き立てられた。
「ひっ……! 止めろ、は、入らない、入らな、ぁ……!」
 先端を押し付けられ、沈む様に侵入してくる。じゅうじゅうと首筋に吸い付かれ、獣の如き息遣いが耳許で響く。
「永、……!」
 切羽詰まった、昨夜に見た泣かんばかりの表情であった。
「俺は、……! 俺は、お前が……!」
 軈て激しい抽送が始まる。穿たれるとはこの事だと思い知る。押し込まれる弾みで、短い悲鳴に似た声が漏れる。
「あ、ぁっ! はぁッ、あぉ、青泉っ……!」
 みっちりと詰まった後ろから、卑らしい音が響く。性急な動きに付いて行けず、やつがれは情けない声を上げた。
「嗚呼、クソッ!」
 青泉が何か観念した様に吐き捨てると、噛みつく様に口付ける。呼吸さえ喰い尽くされ、息苦しさすら快楽になっていく。
「何なんだ、これ、……! 良すぎる……!」
 青泉が溺れていく。結合部分が熱に溶けていく心地がする。青泉が何度も最奥地を突き、身体をくの字に曲げられる。
「や、あぁ……! あぉ、……ッ!」
「はぁ、はっ……! 永、ぇい……!」
 両膝裏が耳の横に来るほど身体を折りたたみ、脚を青泉の肩に掛けると、より密接に奴と繋がった。
 青泉が首筋に両手を添えた。反射的に呼吸が止まる。
「大丈夫だ。真似事、だから……!」
 青泉の力で絞めようものなら、やつがれの首など容易く縊るだろう。おずおずと顔を上へ向けると、大きな手が細首を囲った。ぞくり、と爪先まで快楽が駆け抜ける。
「っ……!」
 強請る様に奴の手に触れ、離さぬ様に縫い止める。軽く爪で引っ掻いてやると、青泉は下唇を噛んで益々余裕をなくしていった。
 もっと。
 やつがれがそう言うと、青泉のが中で更に膨れた。
 側から見れば、首を絞める青泉の手を退かそうと哀れにも組み敷かれている構図だろう。抵抗するつもりもない、只の振りだったが、奴を興奮させるのには充分な様だった。
 打ち付ける腰が一層激しくなる。其の動きに合わせて、首にかかる負荷が瞬間的に高くなり、自らの胎が うごめ く。其処だけやつがれの意識から切り離されて、別の生き物になってしまった。
「ひ、ぁ"、ああっ、あぉ、ああぁ、……ッ!」
「永、え、い……!」
 後は獣のまぐわいであった。体位を変え、何度も口内を貪り、快楽に溺れ沈む。互いの白濁と汗に塗れ、やつがれは何度も青泉のを注がれた。
 
 途中で何度か意識を手放したが、青泉によって繰り返し真っ白に染め上げられていった。
 
  ◆
 
 深く眠っていた。目覚めた時には、外は最早日が沈む頃で、やつがれは論文の存在を思い出し項垂れる。
 然し、身も心もスッキリしていた。後処理は青泉が全てやっていたのもあり、運動した後の様な爽やかな活力が芽生えていた。論文について考えて、頭を悩ませる程度には。
 怪我についても、医者が手当てした様子があった。
「世話になったな。」
 身支度をし、寮に戻ろうとしたところを止められた。
「お前、分かってるのか。あの遺書を見た人間はごく少数だが、箝口令でも引かん限りは付いて回るかもしれないだろう。」
「だが、いつ迄もそうは言ってられまい。今回の件は犬に噛まれたとでも思うさ。」
 事実、そう捉えるしか無いのだ。女子なら未だしも、やつがれは男だ。 疵物 きずもの にされた訳では無い。
 そう言うと、青泉は酷く傷付いた様に顔を歪ませた。其の表情を見て初めて、失言だったと思い知る。
 被害はやつがれだけでは無いのだ。好き好んで、青泉が男を抱く訳がない。余りに取り乱し、見てられない程の醜態を晒したやつがれを、切り替えさせる為に提案したはずだ。
「……済まなかった。あんな事をさせて。」
「いや……。言い出したのは、俺だ。」
 其の言葉を聞いて、後ろ手でドアを閉めた。青泉が追ってくる気配はない。
 手ぶらのまま寮へと戻る。振り返りはしなかった。
 帰路の途中、柳さんからの手紙を思い出したが、青泉から受け取る気は起きなかった。
 
 夕焼けが照らす影は、絵の青白い男と同じ様な形をしていた。
 
 ◆
 
 寮内は安賀多の自殺の話で持ちきりであった。食欲がなかったので食堂には行かなかったが、廊下ですれ違う生徒が、奴の自殺の理由について彼是推測していた。
 やれ日本の未来に嫌気が差しただの、やれ戯曲の真似事をして誤っただの、そんな物ばかりだった。やつがれはそっと安堵の溜息をつく。
 自室に戻れば、そんな話は嘘の様に思えてきた。青白い口裂け男が丸で理解ある同居人の様に思えてくる。
「只今。」
 お世辞にも優しげな表情には見えないが、やつがれには十分であった。変わりなく、大口を開けて歪な歯を覗かせる化物は、日常を思い出させてくれる。
「然し、お前の作者は一体何を考えて、お前を描いたのだろうな。」
 思うところがなければ文章が続かぬ様に、想いがなければ筆は乗らない。
 奴に倣って大口を開けてみる。鏡に写る自分の歯は至って健康で、キチンと生え揃っている。つるりと白く、虫歯もない。あ、と間抜けな声を出して更に開き、軈て可笑しくなってやめた。
「お前に名前でも付けようか。」
 当然ながら返事はない。只管叫びを上げる姿でも見慣れてしまえば愛着が湧くと言うものだ。裂けた口の所為で笑っている様にさえ見ててくる。
「歯か、歯……。」
 青白い男。大口。不揃いの歯。頬まで裂けた口唇。叫ぶ表情……。
「アオバ、にしよう。」
 端的な方が分かりやすいというものだ。青泉と一音違いで、奴は厭がるかもしれないが。
 青泉の事を考えたせいで、奴との行為を思い返してしまう。
 やつがれは、彼奴に何をさせてしまったのだろうか。奴も奴で、何故あのような提案をしたのか。吹っ切れた部分もあるが、新たな悩みとなる気がする。
 然し、やってしまった事だ。後悔程ではないが、もっと他の方法があったのではないかと頭を抱えた。
 何より厄介なのは、気持ち良過ぎた事だ。
「……ッ。」
 彼奴の唇や手の感触を思い出し、身体が芯から痺れる。やつがれも青泉も、硬派では無い。寧ろ青泉は軟派な奴だ。そうであるにも関らず、下手を打てば深みに嵌ってしまうだろう。
 後悔していないと言ったのは撤回だ。暫く平常心で青泉と接する事が難しそうである。
 奴に預けられているだろう、柳さんの手紙を貰うのも億劫だった。安賀多の件でゴタついた事にしてしまおう。手紙が来ているのは知っているが、開封する前に紛失したとか、そういうやむを得ない事情があったとしてしまおう。
 思うが早く、やつがれは筆を取り、柳さんへの手紙を書き始めた。論文を書くよりも、先に面倒ごとになりそうな物を片付けねば。
 
 ◆
 
 平穏に、二日ほど過ぎた。怪我の治りが遅く、痣は薄くなったもののまだ癒えない。
 柳さんの住所は、後援者台帳に記載されていたので、手紙を出す事自体は難しくなかった。其れよりも、返事が部室に届く方がややこしくなる。返事の宛先を、かのバアにするようにと認めた。
 いちいち灰藤先輩に気を回して貰うのも悪い上に、他の誰かの目に止まったら要らぬ詮索を受けそうな気がする。
 安賀多の自殺騒動があってから、やつがれは弁論部の連中との接触を避けていた。
 あの遺書が目に触れた者は数人しか居ない。見慣れぬ寮生らの不躾な視線を送られた事を反芻する。彼等は弁論部のメンバアでは無いが、どういう繋がりで話が知れ渡るか分からぬ。怯えて暮らすつもりはないが、ひそひそ声で何か言われるのは酷く苛立つ。不快な思いをする可能性を潰して、成る可く自らの生活を恙無く送りたいだけなのだ。
 論文を進めるに当たり、やつがれは手頃な場所を探していた。
 自室であれば青泉が来るかもしれない。部室は……気にしない事にしているが、最早気分が良い場所では無い。図書館は広大ではあるが、メンバアの溜まり場でもある。喫茶店も同様だ。バアは書くところでは無いし、昼間は開いていない。
 散歩がてら、盛んな大通りから外れて路地に入る。暫く道なりへ進むと、見知らぬ喫茶店の看板が目に入った。
 手頃な雰囲気で、此れ幸いとばかりに扉を開ける。席は少なかったが、繁盛しているらしかった。騒がしくもなく、静か過ぎない。集中出来そうなので、其の儘女給に案内を任せる。
 珈琲を一先ず頼み、筆記本を広げた。忌々しい彼奴から借りた本だが、有用な本に罪はない。やつがれは本の読解と整頓をすべく、読込み なが ら鉛筆を走らせる。
 周りには老人が二人、女学生らが三人おり、思い思いの事を話していた。集中しながらも、彼等の会話が耳に入る。
「今時、お裁縫だけじゃ食べていけないわ。」
「貴女、 算盤 そろばん がお好きなのでしょう? 可笑しい。」
 年端のいかない女学生がため息交じりに呟き、別の女子が其れを揶揄う。恐らく、校則を破ってのお茶会なのだろう。身形が整っており、食うに困らぬ階級だと推測できた。
「学ぶのであれば、実践的であるべきだわ。」
「わたくし達にとっての実践って、何かしら。」
 会話から柳さんを思い出す。彼女らは何を見据えて、斯様な発言をするのだろうか。先行きが見えぬ事は男児に任せ、後衛に努める事も立派な生き方だろうに。
「嫁ぎ先が凋落した時に、助けてくれる人が居ないかもしれないのよ。」
「あら、そうならない様に、甲斐性のある殿方を見つけて貰うべきだわ。」
 甲斐性。甲斐性と来たか。鉛筆の芯が丸くなったので、別のを取り出す。
 彼女らが指す甲斐性は、前衛を成し遂げる心身の強い男児だろう。成る程、一理ある。家を守る様、家政を任せるのだから、其れ以外の事を家長が取り仕切る事を期待している。
「そんなものを持っている人であれば、見合いなんかには残ってないわ。好いた人を攫うくらいの事をするに決まってるもの。」
 なんと過激な。やつがれは、彼女らの会話に聞き入っていた。自身では思いつかぬ様な事をポンポンと言葉にしていくものだから興味深い。
「嗚呼、わたくし、一度でいいから逞しい腕に抱かれてみたいわ。こっそり逢瀬を重ねて、真夜中に連れ出して貰うの。」
「ちょっと、そんな大きな声で……。」
 破廉恥な内容に居心地が悪くなる。ご老人方も同じ思いだったのか、そそくさと会計を済ませてしまった。
 其れでも彼女らの会話は止まらない。
「だって、憧れるでしょう。身も心も強い人に抱き締められて、互いを求め合うの!」
 鉛筆の先が折れた。
 身も心も強い、逞しい腕。互いを求め合い、只管に溺れる。
 瞬間的に青泉を思い出す。力では到底敵わない相手に、暴かれ、羞恥に塗れ、其れでいて求めずにはいられなかった、あの瞬間。
 あの日の感覚がぶり返す。獣の様に噛み付かれ、口内を貪り、……。
 やつがれは頭を振って、珈琲を一気に流し込む。お代わりの 注文 おーだー を入れ、軽く咳払いをした。
 鼓動が早い。赤面する。腹の奥がジンと疼いた。
 やつがれは、これから先、女性を抱けるのだろうか。
 不意に擡げた不安に手が震える。男としての矜持が揺らいでいる。其れよりも先に、女と同じ悦びを知ってしまったのだ。
「もう、お止めになって。はしたないわ。」
 はしたない。そうだ。其の通りだ。あられもない姿を、やつがれは男二人に晒したのだ。
 女性を、抱き締められるだけの漢気が、やつがれには残っているのだろうか。あったとしても、誰を好いたら良いのか。好んでもない女を抱くのは、やつがれには出来ない。
 柳さんの顔が浮かぶ。彼女もまた、年の離れた旦那に抱かれている事だろう。彼女なら、やつがれは抱けるだろうか。
「……何を、莫迦な。」
 筆記本を乱雑に閉じ、頭を掻く。
 彼女は既婚者だ。道ならぬ道だ。あってはならない。そんな事は、起きてはならない。
 
 華やぐ彼女らはやつがれに構わずお茶会を続ける。
 珈琲からは苦さすら感じられず、波打つ歯痛に、眉間に皺を寄せた。