幽暗ゆうあんノ段

 相変わらず、青泉はやつがれを外へ連れ出したがる。やつがれは奴に文句を言いながらも、今まで通り隣に立つ事を許容していた。
 青泉の見聞や知識には舌を巻く。記憶力の良さの他、処世術にも長けている。潔癖な精神ではないからこそ行える物もあるし、青泉は立場と権力を利用してでも物事を有利に進める事が出来る、優秀な人材だ。
 然し、本音を言えば、青泉に会うのが嫌になっていた。いや、辯論部のメンバアも。講義が同じであれは会話はするが、それ以外の時間は一人になる様にしていた。元より、対して他人とつるまず、カフエで珈琲を啜っていたのが常であったので、誰も気に掛けないはずだ。
 
 図書館の片隅であれば人目に付きづらい事が分かってから、空いている時間があればこもる事にした。
 合同辯論会まで、あと二月ふたつき。論文をそれなりに練るのであれば時間があるとは言えない。骨子は出来上がったが、誰が読んでも納得するだけの筋道を整えてやらねばならぬ。
 図書館は寮から歩いてすぐだ。第二の自室と言えるほどでもある。いつも場所を陣取り、道具と原稿を広げた。
 あの日から、寮内は少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。だがやつがれは、時間が経つにつれて人の気配に過敏になっていた。それから、青泉との行為についても、反芻する頻度が高くなっている。
 確かに、安賀多からされた事を上書きするのは達成されている。然し、否、だからこそ地の底へ叩き落される程に思い悩んでいた。

 疼く熱をどう処理すれば良いのか。

 元々自慰は積極的にしないが、如何ともし難い感覚に襲われる。熱を放てば暫くは落ち着くが、あの時に感じた物とは程遠い。
「……ッ、また……!」
 自室で昂ぶるならまだ良い。然し、校内や図書館ではどうしようも出来ず、その熱が引くのをただ待つだけだ。
 幸い座ったままであれば他人から見ても分からぬ。息を整え、文字を追う事に集中しようとした。
「永……?」
「ッ!」
 聞き覚えのある声だ。それも今、最も聞きたくない人物の。
「学内に居ないと思ったら、此処だったのか。」
 心地良い低音が身体に染みる。見上げれば晴れやかに笑う、憎らしい青泉が居た。
「やつがれに構うな。気が散る。」
「どうせ長居するんだろう?」
 携えて居た鞄や本を身勝手に机に置く。雨の匂いを纏っていた。古本と制服の埃と、それから青泉自身の臭いが混ざり、やつがれの鼻を掠める。
 たったそれだけであるのに、身体の芯がより主張を強めた。
「頭痛がするから、何処かへ行け。」
 このままでは不味い。身動きが取れぬ上に、この男だけには悟られたくない。
「またか。軟弱過ぎるだろう。」
 苛々する。誰の所為だというのか。お前が、お前がやつがれに十分すぎるほどの感覚を植え付けたからだというのに! 
 喉を割いて叫び出したい位だったが、やつがれは奥歯を噛みしめるしか出来ぬ。念仏の様に早く治れと唱え続けた。
 青泉は居座る気らしい。仏蘭西語の標題が付いた本を開き、どっかりと隣に座った。無視しようにも視界に入るが、資料に集中すると決め、どうにか筆を進める。
 経済的歴史を紐解けば、当然思想的歴史に関連してくる。民族主義を謳う気は無いが、論文を発表した際は思想の違いで一悶着起こるだろう。正しく思想を反映させるべきだ。
 やつがれの思想とは何か。やつがれの考える理想とは何か。
 自らに命題付けた設問を並べ、やつがれの意識を思考の海へ沈めていった。
 
 気が付けば熱が治っていた。外はとっぷりと暗くなっている。まだ夕刻に差し掛かる前だが、日差しを遮る雨雲の所為で、静まった図書館は山奥に忘れ去られた巨大な洋館に思えた。
 資料を本棚に戻そうと席を立つと、青泉も読書に区切りがついたらしい。付いて来る気満々な気配に、やつがれは態と溜息を深く吐いた。
「青泉。お前が考える民主主義の意見を聞いてもいいか。」
 仕方がないので話題を作ってやる。無言で後ろをついてこられても落ち着かぬ。
「匙加減は必要だと考える。」
「その根拠は。」
 本棚の脚立を使って、本を戻す。青泉なら背伸びすれば届くだろうが、手を借りたくなかった。
「単なる民主主義は、お前が言うように衆愚政治となる。ならば、熟議される事が前提だ。」
 やつがれの思想と同一である。一つ頷き、では社会主義や民族主義は悪か、と脚立の上から問うた。
「悪ではないだろう。ただ日本の構造も考えずに持ち込むのは危険だ。社会主義の取り締まりは今後厳しくなるはずだ。資本主義経済の発展により過酷な労働が蔓延る。そうなれば労働運動が勃発し、貧富の差を埋める風潮が強くなる。」
「成る程。労働者から叛旗を翻されたくなければ、社会主義的思想を阻む意味でも、資本主義に発展を望みながらも、溺れるべきではないと。」
 とん、と床に着地する。論文に一つ芯が通る気がする。判然と言えば反発を生みそうな考えであるが筋は通る。
「貴様の事は気に食わんが、矢張り、やつがれの相手を出来るのはお前だけだな。」
 挑発する言い回しになったが、青泉はやはり優秀である。
 上書きされたあの日は、当然、例外的事項に数える物だ。やつがれと青泉は、思考の程度が合う悪友に間違いない。
「お前には期待している。何せ、やつがれが認めた人間の一人なのだからな。」
 青泉の横を抜けようとすると、肩を掴まれた。声を上げる間も無く強い力で向き直され、両肩を抑え込まれる。思いもよらぬ青泉の行動にやつがれは目を丸くする他、出来なかった。
「本当に、そうなのか。」
 酷く傷ついた様な表情であった。あの日、夕陽に照らされたものと同じである。
「何度も言わせるな。」
「俺は、……!」
 好きなんだ。
 血を吐く様な表情から発せられた言葉が、雨音が満ちる空間に浮いた。
「あの日からずっと、お前ばかり思い出す。いけないと分かっていても……。お前に似た女を用意しても、あの時のお前を忘れられない!」
 青泉の告白に茫然とする。やつがれ同様、思い悩んでいるなど、考えもしなかった。否、青泉のほうが重症と言える。
 やつがれへ想いを募らせるなど、勘違いに他ならぬ。否、そうでなくては困る!
「なぁ、お前はどうなんだ。」
 腰を抱き寄せられ、反射的に身をじるが無駄な抵抗であった。咄嗟に脚立を掴んで逃れようとしたが、身長差もあり、却って捩じ伏せる様に抱き込まれる状態に陥った。
 後頭部の髪を引かれ、上を向かされれば、端正な顔に似つかわしくない獣の眼光が目の前に迫る。
 柔らかな厚い唇に、あの時の行為を思い出してしまった。
 駄目だ、こんな物を見たら、思い出してしまう。否が応でも、貪られる悦びを思い返してしまう! 
「っ、やめろ、やめてくれ……!」
 かのカフエで話していた女学生らの台詞が脳内で反響する。
 
 逞しい腕に抱かれて、求め合うの。
 
 身体中がざわざわとする。意思に反して、肉体は間違いなく青泉を欲していた。
「お前も、同じだろう。忘れられる訳が、無いんだ……!」
 脚の間に割って入った青泉の膝が、やつがれの隆起した逸物を擦る。青泉もそれに昂奮したのか、布越しに激しく主張する雄をそこへ当てがった。
「ンッ……!」
 半ば強引に口付けられる。何もかもを食い尽くす、暴力的な接吻だった。顔を背けても直ぐに捕らえられ、軈て身動きすら取れなくなる。
「ん、ンンッ! ん、ふっ、ぅっ、んぁ……!」
 激しい接吻を繰り返し、脚立に腰掛ける姿勢で追い詰められる。荒々しい息が首を喰む。恐怖を感じたが、其の感覚が悦楽の扉をこじ開けていく。
「青泉、やめろ! 駄目だ、っ……!」
 脚立がギシギシと鳴く。雨は稲光を伴いながら益々激しくなっていた。周囲には誰もおらず、人の気配すらしない。革帯べるとを外され、ズボンの中に手を潜らされる。
「俺も、お前も、こんなになっちまったんだ。」
 敏感になった芯が、青泉の手淫を待ち望んでいた様に震えた。反復する、強制的な快楽に身体が跳ねた。
「く、ぁ……! やめ、ろ……ッ、ん、ぁっ……!」
 声を抑える為、唇を噛むと、青泉は片手でやつがれの口許を覆った。大きな掌が、頬骨より下を抑え込んだ。声は漏れぬかもしれぬが、呼吸がしづらい。息が荒れ、哀れな獣がキュウキュウと鳴くかの様だった。
「赦してくれ……!」
「ふ、ッ……! ん、んん……!」
 制服から乱雑に取り出された青泉の象徴が、やつがれの芯にあてがわれた。大きさの差は明らかであり、雄としての優位性を見せ付けられる。
 互いの熱で更に膨張していく。淫らな水音は雨足の隙間を縫って、独特の臭いを立ち込めていく。眼を見開いて首を左右に振ったが、青泉は飢餓感を露わにした瞳で見下ろし、やつがれの外耳を舐った。
「ッ、うぅ、んっ……!」
「永ッ、ぇい……!」
 密やかに、耳許で名を呼ばれる。
 益々追い詰められる中で、やつがれは気がつけば青泉が覆う掌に縋っていた。もう片方の手で、同時に扱かれる。途方も無い刺激に、脚がみっともなく震えた。
 声を抑えるべく一層強く覆う手を掴む。奴の手の甲は骨ばっており、やつがれの口を押し続けると、青泉の呼吸が更に熱を帯びる。
 
 青泉は悪友だった筈なのだ。鬱陶しいながらも、認めていたのだ。こんな風になりたくはなかった!
 あの日、青泉の提案に乗ったのが過ちだった。安賀多が撒き散らした呪いの一つだったのだ。
 
 拒絶する思考と制御出来ぬ欲望との乖離に、涙がボロボロと溢れる。青泉の手の甲を濡らし、伝い、床へと落ちていく。
「ふ、ぅ、っ……! ん、んぅ! んんっ!」
「嗚呼、クソッ……! お前、何でそんなに……!」
 両者の逸物の溝を引っ掛ける様に手筒を上下に擦られ、互いの先走りの露が溢れる。滑りを増した所為で、強い刺激が高みへと押し上げていった。
「ッ、ぅっ、ん、んんっ、ン——……!」
「ッはぁ、永……!」
 
 おやめになって、はしたない。
 
 稲妻の合間に聞こえた、知らぬ女学生の声が、やつがれの心を突き刺した。
 
 ◆
 
 安賀多の死から半月が過ぎていた。奴の死体は実家に返され、葬式も向こうで行われた。大勢で押しかけても迷惑になるから、と もっともらしい理由を付けて城島先輩と灰藤先輩のみを参列させた。単にやつがれが行かずに済む事を優先して考えた事だった。暴行した同輩の葬式に出るなど、一体この世の何処に居よう。
 やつがれはその件から間違いなく遠ざかっている。警察から話を聞かれることもなければ、先生方やメンバアに関係性を疑われている節もない。
 残るは、青泉だった。
 以前と変わっていない部分もある。然し、常軌を逸した儘、修正出来ていない。
 青泉との行為はエスカレィトしている。
 ある時は酔った日に。或いは学内の片隅。遂にはやつがれの自室。
 求められる度に拒否したところで敵うわけがない。押入られれば逃げる事も出来ぬ。
 そして、やつがれは本気で奴から離れる為の行動に移せる状況になかった。
 青泉との関わりを断ちたければ辯論部を抜ければ良い。誰にも言わず住まいを変えれば良いし、何なら退学すれば良い。
 然し、そうはいかなかった。支援頂いている篤志家の期待を裏切れぬ。住まいを変える金は無い。辯論部も、今抜ければ安賀多の死の関連を疑われる。
 肉体と精神の乖離に加え、しがらみがやつがれを囲っていた。
 
 此の儘で良い訳がない。
 
 欲求に任せた関係は、何と呼べば良いのか。やつがれは奴との間柄を示す言葉を見失っていた。
 丸で坂を転がり落ちている様である。やつがれは青泉との関係を、安賀多の件以前に戻したいだけだ。抵抗するし、何度もそう訴えている。だが激しい接吻を交わせば、やつがれの頭は使い物にならなくなった。毎度それで済し崩しに行為に及んでしまう。
 今日は曇天で調子が出ない。論文は進んでいるが決定打に欠けていた。
 絵の前に椅子を置き、背凭れに組んだ腕を乗せて座に跨った。暗がりの中で絵と対峙すると、不思議と心が落ち着いた。午後四時の、曇りの日の日当たりが、不思議な陰影を載せる。
「アオバよ。やつがれは、どうすれば良い。」
 無意味に絵の男に尋ねる。同じ表情を浮かべ続けるアオバにも、日によって気分が違ったりするのだろうか。
 耳まで裂けた口が、機嫌よく上向いている様に見える。抜け落ちそうな歪な歯は最も明るい白が浮き立ち、ギラリと光って居る。こんな表情にもなるのか、と碌に回らぬ脳でポツリと呟いた。
 不意に、アオバを貰ったバアの存在を思い出す。最近、様々な事が起きていて訪ねていない。あのカウンターで周りの人間の声を聞きながら、塵芥と化した頭を空にするのも悪くない。
 散歩ついでに一杯引っ掛ける気持ちが湧いたので、学ランに袖を通した。電気ブランの味を思い出すと幾らか気分が上向きになる。
 アオバに助言を貰った心地になり、地面を蹴ると、靴底から良い音がした。
 
 念の為、青泉やその他の辯論部のメンバアが居ない事を店の外から確認する。磨りガラスの窓越しでは明瞭ではないが、青泉ほどの大男であれば分かる。見知った人間の形は何となく区別が付くものだ。
 そっと扉を開けてべるを鳴らす。開店して間もないが、人はそこそこ入っていた。カウンター席を所望する事を伝え、すんなり通される。
 アオバが飾られていた壁には新たな絵があった。何の変哲も無い花の絵だ。白くて背筋が伸びた、中々手折れそうに無い百合の花であった。
 其れを眺めているうち、柳さんに手紙を出していた事を思い出す。店員に、「立科永宛の手紙が届いてないか」と尋ねれば、合点がいったらしく封筒を渡された。薄紫色をした、どこか洒落たデザインだった。差出人を見ると、白水はくすいと書かれていた。柳さんの、歌人としての名だった。
 封から手紙を取り出せば、流れる様な文字があった。
 季節の挨拶、それから安賀多の死の弔い、落ち着いたらまた意見交換会や会合で、云々。
 何の変哲も無い内容だ。人付き合いがあればこの程度の手紙も出されよう。だが、繊細な、清水きよみずの如き文字で書かれた為か、それだけで輝きを纏っているかの様に見えた。流れる文字に心地よく浸かって読み進めると、追伸があった。
「手紙のお返事は私のお教室へ……。」
 本文と比べてやや小さな文字で書かれた言葉に心臓が跳ねた。ひっそりと密事みつごとを耳元で囁かれた気分だ。
 生花か琴か、それとも俳句や短歌なのか。そのたぐいには疎いが古めかしそうな流派が記されている。若しや彼女が師範として立つ教室の事なのかもしれぬ。
 出された電氣ブランを飲みながら、やつがれは何度もその手紙を読み直す。
 普遍的な内容の筈だが、心が浮つき、痺れる感覚に見舞われた。
 此れは酒の所為だ。そうに違いないと言い聞かせるも、視線を文字から剥がすことが出来ない。
 手折れぬ百合に斃れてどうするのか。やつがれは頭痛を更に悪化させた。
 
 ◆
 
 
 
 昨日からの曇天は雨を引き連れてきた。季節は少しずつではあるが、夏に向かっているはずである。雨ばかりの日々から早々に抜け出して欲しいものだ。
 雨雲が分厚く広がっており、憂鬱さに拍車をかける。ベットリとした墨を塗りつけた様な空を見、痛む頭を抑えた。波打つ頭痛が眼や歯まで痛覚を膨張させ、やつがれは力無く呻く。
 此の儘、臥せて居たいが、何もしないのも癪なので意地で身支度をした。
 
 やつがれは、柳さんから初めの手紙を受け取ったのを切っ掛けに、青泉と距離を置きたいと益々強く思うようになった。最早、奴との関係は以前に戻れぬと悟ったからだ。同じ場所に長い時間居ることを止め、講義も飛び飛びに出席する事にしている。
 
 一日中、場所を変えながらの執筆に、やつがれは疲労困憊であった。
 捗りはしたが、効率的ではない。全ては彼奴に会わぬ為、と言い聞かせて自室へと向かう。
「……ッ!」
 遠目に奴の姿を視認し、慌てて身を隠した。
 やつがれの行動を見越した青泉が、やつがれの部屋で待ち伏せしていたのだ。
 手足が異様に冷える心地に見舞われた。追われているわけでもないのに、背後を気にしながら逃げる。
 何処に行けば良いのか。夜の街に出るほど体力は残っていない。寧ろ飲み屋街の辺りは、青泉の庭だ。顔も広い奴には忽ち見つけられてしまう。やつがれが普段行く様な所など、以ての外だ。
 アテもなく、とにかく自室から離れる為に寮の別棟へ向かう。
 寮の中で普段行かぬ所といえば、談話室だろうか。誰かが持ち込んだ撞球びりやーどがあり、性に合わぬ空間だ。どの道、長居はできない。
「立科先輩!」
 名を呼ばれ、我に返る。数歩先の距離から声を掛けてきたのは、嵯峨崎だった。風呂上がりなのか、軽装であった。
 和かに挨拶をする後輩に、此れ幸いとばかりに駆け寄る。
「匿ってくれ。」
 端的に告げ、嵯峨崎の部屋を聞き出す。速歩はやあしで階段を昇るのを見てか、何か只事ではないと察してくれた。
 解錠された扉が開かれるや否や、室内に身を滑らせる。扉の閉じる音を聞き、漸く安堵する事が出来た。
「顔、真っ青ですよ。大丈夫ですか。」
 気が付けばびっしょりと汗をかいていた。身体が微かに震えており、呼吸も浅くなっていた。
「嗚呼……。すまんな。」
 声が出ない。口だけは良く回ると我ながら思うというのに、情けない。
 到頭、やつがれは悪友に恐怖を感じる様になっていた。
 否、青泉が恐ろしいのではない。やつがれの理性が奪われ、暴かれる事を恐れているのだ。抵抗しても敵わぬ体躯に組み敷かれ、暴かれ、快楽の限りを貪る自らの淫らな本性を認めたくないのだ。
「……庵野先輩ですか。」
 渦中の人物の名前に、肩が跳ねる。嵯峨崎の顔が見られず、鼻で笑おうとした。
「莫迦な。何故、やつがれが、彼奴を。」
 震えたままの声で反論したところで、納得しないだろう。
 嵯峨崎は何か言い澱み、呼吸を一つ置いてやつがれの前に立つ。
「僕、知っております。」
 意を決した様な声音に対し、何を、と問おうとして顔を上げる。至近距離で目が合った。
「庵野先輩に、無理強いされているのを、その……。」
 何処で、と呟いてしまった。否定すれば良いものを。発言を誤った事も併さり血の気が引いた。膝から力が抜け、慌てた嵯峨崎に支えられたが、立つのもやっとであった。
 
 見られていた。
 
 羞恥と恥辱に塗れた姿を、よりにもよって後輩に目撃されるなど! 
 嵯峨崎の他にも居るかもしれぬ。奴の手に掛けられた場所は何処だったかが全ては思い出せない。
 抱き留められる様な体勢の儘、視線がぶつかる。強い眼が瞬きもせず、やつがれを注視する。
「嵯峨崎、お前は……。」
 お前は、それを知ってどうする?吹聴するか、軽蔑するか、強請するか……。
 やつがれは、男としての矜持の他、年上としての矜持も無くすのか。
 そんな事は到底耐えられない。震える唇では碌に物が言えなかった。
「先輩に非道い事はしません。先輩にとって、不都合な事も忘れます。だから、聞いてください。」
 やつがれの両手を取って、跪いた。丸で騎士が姫に対してかしずく様でもあった。
 普段、見上げる程の身長差がある者を見下ろすのは不思議な感覚だ。
「貴方を守ります。」
 真っ直ぐな目だった。熱を帯びており、正義に燃える瞳だった。
「講義も、執筆も、寝食も、側に居ります。貴方を害する者から、貴方を遠ざけます。」
 包まれた手が温かい。やつがれよりもやや大きな掌は、骨ばって血管が少し浮いている。
「何故、そこまで。」
 思いもよらぬ言葉ばかりで呆気にとられた。見返りもなく尽くすと言っているに等しい。
「尊敬しているからであります。貴方を。立科永という、辯論部のエースである、貴方という男を。」
 その言葉が、失意の底に居た心を掬い上げた。
 そうだとも。やつがれは賢く、志高く、活動家である男なのだ。誰からも一目置かれ、時に嫉妬を浴び、時に喝采を浴びる男なのだ。
 友人や同志に、蹂躙され、陵辱され、女の様にされる苦しみを味わう必要は無いのだ。
 緊張の糸がフツリと切れたのが分かった。急激な安堵からか堰を切った様に感情が溢れ、涙となって零れていく。
「申し訳ありません。直ぐにでも助けるべきでした。」
 きつく目を閉じても、堪えられぬ涙が頬を濡らす。
 運が良かった。嵯峨崎が卑怯でない人間だっただけだ。寮内に居た、安賀多の遺書を読んだ連中であればどうなって居たかを想像し、身震いする。
 漸く地獄の様な状況から脱する事が出来る。青泉にとっても、やつがれにとっても、救いになる事だろう。
「先輩が望むならいつだって、どこだって側に居ます。」
 後輩の、年下である嵯峨崎に頼るのは本来、善くはないだろう。然し、藁にも縋りたい状況だ。
 酷く優しく、甘い声音で語りかけられ、やつがれは暫く落涙した。
 不意に、アオバの歯の鋭さが脳裏に浮かんだが、直ぐに消えていった。
 
 
 ◆
 
 
 柳さんとの文通は、数日ごとに行なわれている。
 ある時は彼女の教室宛、辯論部が贔屓にされている新聞社前のカフエ、小洒落た個展宛……。宛先を毎回変えての文通に、面倒臭さと面白さの矛盾した気持ちを楽しんでいた。
 嵯峨崎の部屋に半ば転がり込む形となったが、それからというもの、青泉と会う頻度そのものが劇的に低くなった。お陰でやつがれは元の日常に戻りつつある。その平穏があるからこそ、柳さんと文通する余裕が持てた。
 柳さんの存在が、色恋の意味では無いにしろ、何か特別な物に変わりつつある。その変化に対し、自らでは自然と受け入れている部分があった。
 
 文通の中で、柳さんと食事会を取り付け、それは速やかに行う事にした。
 彼女が推薦する洋食屋は、小洒落た内装でありながら、親しみを持てる雰囲気である。
 彼女との食事は、結論から言えば、気が休まるものだった。当然、色恋に発展する様な話題は無い。否、意識して避けたのだ。彼女との関係を妙な方向へ押し進めて、どうこうなりたい訳ではない。
 彼女の歌人としての活動や、やつがれの思う民主性の在り方、その他界隈の有権者についての情報交換ばかりだったが、学内だけでは聞き及ばない話題に、やつがれは調子を取り戻しつつあった。
 洋食も、割高ではあるが美味であった。散々目移りしたが、アイリッシュスチューを注文した。濃厚でありながら優しい味付けであり、そう言えば暫くまともに物が食えて居なかった事を思い出す。空腹と共に空虚に毀れた部分が癒される心地さえした。
「立科さんは、上京して来たと仰ってましたね。」
「ええ、勉学の為に。」
 イタリアン・マカロニを食す彼女の所作は美しかった。小さな口で丁寧に咀嚼し、育ちの良さを感じる。
「元は、師範学校に通うつもりでした。ですが、熱心な篤志家の力をお借りして、高等小学校から面倒を見て頂いてます。」
「まあ! 立科さんは矢張り、とても優秀なお方ですのね。そうでなければ、支援頂けませんもの。」
 柳さんは、意外にも表情豊かに話をする。辯論部との会談では、凛とした態度で淑やかに笑う位だった。元々そういった性質の人なのかと思ったが、若しかしたら余所行きの顔だったのかもしれない。その姿が水仙や白百合だとするならば、今の彼女は明るく咲くガルベラである。
 出会った初めの頃、お高く止まりやがって、と少々疎ましく思ってしまった事を、心の片隅で詫びた。活力ある姿の彼女のほうが、やつがれにとっては好ましかった。
 
 食後に少し歩く事にした。店を出ると、太陽の光が前日に降った水溜りに反射して、道端をキラリと輝かせる。緑の香りを含んだ風が通り過ぎ、晴れやかな気分となる。
 洋食を食べたら帰るつもりであったが、気が変わった。散歩くらいなら問題ないはずだ。然し、何か周りから誤解されるのも面倒であるので、少し離れて歩く。
 柳さんが近くに庭園があると言うので、一旦の目的地とした。
「心を休めたい時、其処へ行くのです。静かで、良い所ですよ。」
 彼女は優秀であるからこそ、周りから何かと言われるのだろう。歌人として、活動家として、そして女性としても地位を獲得している。凡人からの嫉妬は、大したことは無いが、少しずつ降り積もる毒の砂みたいなものだ。洗い流さねば、清潔な精神を保てなくなる。だからこその場所なのだろうと推測する。
 庭園は小さなものだった。誰もが入れる所で、常に解放されているという。門をくぐってすぐ、瑞々しい緑に、様々な色の花弁が彩りを添えていた。
「今は紫陽花と藤が盛りですね。」
 花の季節に疎いやつがれに、種類や時期について語った。涼やかな声音は、優しげな匂いを纏う。覆い咲く紫の幕を横切ると、奥にほんの少し拓けた所があった。
 弁天橋を模した、小さな橋の上で止まる。澄んだ池の上に掛かるそれは、十歩も歩けば向こう側へ着くくらいの長さであり、緩やかなアーチを描いていた。
「此処が、私のよく居る場所ですの。」
 アーチの頂点で足を止めた。池の周りは桜や梅の木が植えられており、睡蓮が浮かんでいた。木々がその橋をこっそり隠すように枝葉を広げ、周りから見えづらくなっている。
「成る程。一人になりたい時には、良さそうだ。」
「ええ。」
 それきり、やつがれ達は黙した。周りから聞こえる音は、凪いだ風とそれに木の葉が踊り擦れる音のみ。時折思い出した様に、魚が跳ねた。彼女との沈黙は、此処最近の荒れた物事を忘れさせてくれるものであった。
「柳さんには、辛い事があるのですか。」
 静かに尋ねると、彼女は曖昧な笑顔を浮かべ、目を伏せる。
「貴族でも、無力な人間には変わりはありません。」
 ガルベラの花が閉ざされた。
 瞳は憂いに満ち、ポツリと落ちた言葉は花弁から落ちた雫に思えた。
「結婚して、夫人となっても、私という人間は変わりなく、また切り離せぬ筈なのに、周りはそう言いません。」
 色褪せていく花弁に地の色が覗く気がした。無色透明で、無垢で、それでいて濁りかけているような、不安定あんばらんすな色が。
「……私は、恋も知らず嫁ぎましたから。」
 愛は知っていても、と彼女は水面を覗き込んだ。彼女に倣えば、鯉がスイスイと泳いでいる。何にも縛られて居なさそうな動きに、彼女は何を投影しているのだろう。
「立科さんは、何かありましたか。」
 やつがれに。心の視線を自らの内側へ向けるが、すぐにざしたくなる。
 何かあった、では片付かぬ事ばかりだ。
「やつがれは……。」
 何か話せば、気が楽になるだろうか。この人なら、何か正解へと導いてくれるだろうか。否、やつがれに起きている事柄は、果たして一体、何の悩みとなるのだろう。
「安賀多が死にました。やつがれにとって、無関係ではない死に様でした。青泉の好意に甘えました。だがその所為で、奴を狂わせてしまいました。やつがれに依存のを見せていますし、やつがれも奴から離別しつつあります。後輩である嵯峨崎に庇って貰っていますが、ずっとそうしている訳にはいかないでしょう。」
 ……頭の良い彼女であれば、十分に伝わるだろう。その証拠に、柳さんは驚きに満ちた顔をしていた。
 状況だけ見れば悲惨だ。やつがれの男としての矜持は打ち砕かれているに等しい。安賀多にも青泉にも屈した。体躯だけではない。精神ごと組み敷かれたのだ。
 柳さんに気を許せるのは、灰燼に帰した沽券を回復させてくれると思い込んでいるからかもしれぬ。
「……私では、いけませんか。」
 一際大きく風が吹く。
 何が、と問わねば分からぬ程、やつがれは鈍感では無い。彼女を疎ましく思っていたのは、彼女が既婚者であるからだ。男と女の関係を疑われれば世間が黙っていないからだ。それを差し引けば彼女を疎む理由がない。裏を返せば、彼女を想い慕う要素ばかりだ。
 仕草が美しく、見目麗しく、思考する頭脳がある。ガルベラの笑顔を咲かせ、芯のある精神を潤んだ瞳の奥から感じさせる。
 彼女は見抜いているのだ。やつがれが彼女の身分ではなく、彼女自身の性質に惹かれつつある事を……。
「柳さん……。」
「それは、私の名ではありません。」
 戸惑いなど、本来見せてはならぬ。断固として拒絶せねばならぬ。だと云うのに、強い語調で射抜かれたやつがれは、彼女に釘付けになる。
「私では、駄目ですか。」
 この手を取ってはならない。道ならぬ道だ。分かっている。分別すべき事柄が何か、知っている。
 澄んだ瞳に、不安で挫けそうになっている彼女の姿がある気がした。
 心が転がっていく。最早、誰にも止められない。
「……由芽子、さん。」
 やつがれなら彼女自身を理解出来るかもしれない。また、彼女ならやつがれを受け入れてくれるかもしれない。
 小さな手はやわく、白い肌はサラリとしていた。手入れされた爪、白魚の指の形を確かめるように触れる。
「永さん……。」
 あんまりにも泣きそうな表情で笑うものだから、やつがれは胸を締め付けられた。
 顔が熱い。鼓動も早く、それでいて繭に包まれたように充たされる。
 恋と言うには不純であり、愛と呼ぶにも未熟だ。取り合う手の、互いの頼りなさが其れを示している。
 それでも尚、振り解く事は出来ない。青泉との関係とは違い抗う気が起きない。此の儘、堕ちても良いとさえ思えた。
 
 我々は暫くの間、二人だけの閉じた世界で見つめ合った。