譎詐きっさノ段

  合同辯論演説会まであと一月ひとつきほど。梅雨が明け、今までの愚図ついた天気は嘘の様であった。快晴の日差しが肌を焼く。

 嵯峨崎の部屋にやつがれの物が少しずつ増えてきた。厄介になっている礼と言っては何だが、彼に勉学を教えている。
 とはいえ、嵯峨崎自身の地頭は悪くない。一を聞いて十を知る、とまでいかなくても、二を伝えれば七を理解するほどだ。
 砂が水を吸い込む様子を眺める気分になり、面倒を見るのは面白かった。
 何より、甲斐々々しく世話を焼きたがる嵯峨崎に興味が湧いた。食堂ではやつがれの分まで進んで持ってくるし(奴は炊事委員でもあり、やつがれの少食を改善しようとまでした) 、風呂では率先して背中を流す。読書をしていれば羽織りを寄越すし、眠気に勝てないと思った時には布団が既に敷かれていたりもした。
 可否茶館かつひーさかんからの伝手で入手した珈琲やら、物珍しい焼き菓子やらをやつがれに振る舞う日もあった。
 成程、奉仕に喜びを見出す性質かと判じた。
「お前は、もしや兄弟なんかが居るのか。」
「まぁ、そんな所です。」
 就寝前に、隣に敷いた布団に寝転ぶ彼に尋ねてみた。気さくな雰囲気であるが、兄らしい素ぶりも、弟らしい愛嬌もあるから不思議である。嵯峨崎の家柄は対して知らないが、美食家であるからして裕福なのだろう。
 洋燈らんぷを消し、暗闇の中で天井の模様を眺めているうち、瞼が重くなってくる。
 嵯峨崎には感謝しきりだ。碌に物も食えず、眠れなかった日々が随分と真面まともになったのだから。
「立科先輩。」
「ん……?」
 微睡みの中で溶けかけて居る中で、嵯峨崎の声が揺れる。瞼を開ける気力は湧かなかった。
「手を繋いでも、よろしいですか。」
 手を? 何のために? 嗚呼、兄弟の話でもして、故郷が恋しくなったか。大学生にもなった男児たる者が?
 然し世話にもなっているし、これくらいの事は良いか。減るわけでもない。
 何にせよ、途轍もなく眠たいのだ。
「好きに、しろ……。」
 面倒になったのもあり、その願いは聞き届けてやった。
 大丈夫だろう、嵯峨崎なら。此奴は、やつがれに不快な思いをさせる事はないのだ。
「有難う御座います。」
 永先輩。
 輪郭を無くした言葉が、意味を持たぬ音になる。嵯峨崎の手や指が触れ合う。指同士が交差され、じっくり握り込また。ドロリとした質感を伴う何某かにも感ぜられたが、沼底へ沈む儘、眠りに就いた。
 
 嗚呼、アオバの、手入れをせねば。
 
 その日、最後の一人思いはあぶくとなって消えた。
 
 ◆
 
 炊事委員とは、生徒によって選出された自炊メンバアを指す。賄征伐まかないせいばつと呼ばれる、腹を空かせた学生が引き起こした騒動が過去にあったらしく、我が校では自炊制が導入されており、掃除や洗濯も自らが行わねばならなった。
 寄宿舎には様々な規則があり、事細かに行動を制限するものであったが、形骸化している部分もある。談話室に持ち込まれた撞球などが最たる例だ。
 嵯峨崎に厄介になるようになってから、やつがれはその撞球を嗜むようになった。気晴らしにと連れられたのが切っ掛けであったが、中々どうして面白い。
「手足で真っ直ぐな線を作る様なイメエジで……。そう、そうです。」
 嵯峨崎の助言を受け乍ら、ゲエムを進める。
 程よく脱力させた右腕が上手く動いた。肘を固定し、振り子のイメエジで球を突く。象牙の球が小気味良い音を立てた。
「お見事!」
 嵯峨崎は紅顔を明るくさせて、そう言った。多少の世辞はあるだろうが、悪い気はしなかった。
「手が大きいと有利そうに見えるが、そうとも限らぬ様だな。」
「ええ、女性のプレイヤーも居る位ですから。」
 嵯峨崎が掌を掲げたので、釣られてやつがれも手を挙げた。何となしに奴の手を合わせる。やつがれよりも、ひと関節分ほど嵯峨崎の指は長かった。
 ピアノが弾けそうな指だな、と揶揄うと、何に照れてか奴は頬を掻いた。
 嵯峨崎は撞球も然り、その他運動なども得意らしかった。体躯に恵まれて居る部類である。背はやつがれより三寸ばかり高い。やつがれも決してチビではないのだが、何故か辯論部の連中は縦に長い奴等ばかりである。
 嵯峨崎が遊戯に興じる姿は、様になって居た。体躯がふぉーむを美しく見せるのか、型が姿をより伊達に仕立てて居るのか。何方にせよ、垢抜けた印象であるのは変わりない。
 気持ちのよい音を立てて、ポケットに球が落ちる。競技の終わりの合図だった。
 不意に窓の外を眺める。熱中しているうちに、外は夕焼けに染まっていた。集中した為か、互いに額に薄っすらと汗が滲んでいた。
「早めの夕風呂にしましょうか。」
「嗚呼、その前にやつがれの部屋に行っても良いか。掃除をしたい。」
 掃除というのは建前で、アオバを眺めたい気分だった。殆ど寄り付かなくなってしまった自室に、同居人を置き去りにしてしまった様な後ろめたさがあったからだ。
 勿論です、と嵯峨崎は笑んだ。
 夕闇がそっと室内に陰を落としていく。奴の面長な輪郭が、何となくアオバに重なる様な気がした。
 
 アオバについては、嵯峨崎も閉口していた。
 いつものバアにあったものを譲って貰ったのだと説明したが、顔が引き攣っていたのをやつがれは見逃さなかった。
 不気味な絵であるが、不思議な魅力があると思えるのは今の所、やつがれだけらしい。
 愛しの同居人は今日も大口を開けて哀哭の表情を浮かべていた。
 簡単に棚や机の埃を払い、床の掃き掃除を済ませる。嵯峨崎はやつがれの部屋を物珍しそうに眺め、惹かれた本について話を咲かせた。
 其の中でも一等、嵯峨崎の目を引いたのは、とある大陸帰りの活動家が執筆した物だった。
「こんな過激な本を有していて、大丈夫なのですか。」
「大丈夫ではないだろうな。危険思想と判断されるだろう。其れは確か、青泉の伝手を使って手に入れた。」
 久しぶりに青泉の名を口にした気がした。
 同時に浮かぶのは、取り繕わぬ笑顔と、図書館で見せた悲痛に満ちた表情だった。
 彼奴の頭は十分に冷えただろうか。
 彼奴は確かにやつがれの矜持を削り取ったが、本を正せば安賀多の所為なのだ。吊り髑髏の呪いに掛かった我等は、等しく被害者と言って良いのかもしれない。
 今すぐでも彼奴に会わねばならぬ気がする。
 然し手立てがないし、避けてまわっていたのに、今更可笑しな話だ。
 嵯峨崎はそっと声を掛けて、遠慮がちにやつがれの肩へ手を置いた。やおら視線をあげれば、奴の瞳が憂いに揺れて居る。
 気が付けば、掃除の手を止めていた。
「なぁ、嵯峨崎。青泉について、何か聞いているか。」
 やつがれの質問が薄暗闇の宙に浮く。奴は押し黙ってしまったが、軈て重々しく口を開いた。
「……僕も、見掛けていません。」
 そうか、とだけ言ってやつがれは俯いた。
 青泉がやつがれに無理強いをしないのであれば……否、安賀多の呪い以前の関係に戻れるのならば、と脳裏を掠める。
 やたらと外に連れ出すのも、大声で押し掛けて来るのも、此方の事情に構わず乗り込んで来るのも、……迷惑ではあったが。
 避けたのはやつがれ自身だというのに、今では奴の所在が気になって居る。
「立科先輩。」
 嵯峨崎は言い咎める様な強い口調になった。
「貴方に無体を働いた人です。赦してはならないと思います。」
 いつになく真剣な面差しであった。嵯峨崎の握り締めた拳が震えている。やつがれ以上に、やつがれの不名誉に怒りを覚えて居るらしかった。
 顰めた眉の間に正義を滲ませる嵯峨崎を、直視出来ぬ。
 いつまでも匿ってもらう訳にはいかない。避け続けるにも限界がある。同じ学舎に居る生徒なのだから。
 やつがれは、曖昧に視線を泳がせた。自室のはずであるのに冷え切った様に褪せている。人が出入りしなかっただけで廃屋の如き雰囲気だ。
 閑散とした心を探ると、輪郭に触れたのは由芽子さんの存在であった。
 
 由芽子さん。
 
 窓枠から忍び込む暗闇に、足元を喰らわれる様な不安が這う。
 やつがれは彼女のガルベラをおもった。
 
 ◆
 
 嵯峨崎の部屋に戻った後、風呂にする事にした。浴衣に袖を通し、一日中着ていたシャツを隅に追いやる。明日洗濯をせねば。替えの下着を携え、自室から持ち帰った石鹸の包装紙を解いた。
 どうにも、一人になりたい気分が治らぬ。浴場は渡り廊下を二つ行った所にあり、遠くはない。
 もう十分、嵯峨崎に良くしてもらっている。そろそろ日常に戻すべきだ。少しくらいなら別行動でも問題ないだろう。
「先に行っているぞ。」
「えっ、あっ、待ってください!」
 返事を無視して扉を閉めた。
 自室の掃除をした事で、心の整理がつき始めていた。
 年上としても、先輩としても、此れ以上嵯峨崎に依存する様な生活は脱するべきだ。
 真面に飯も食えるし、眠れもする。悪夢を見る事も無い。頭痛や歯痛に苛むのも、前と比べてかなり頻度が低くなっている。
 嵯峨崎が青泉へ、何か言付けてやつがれに近づかない様にした事だって有り得る。そう思うと、勉強を教える程度では釣り合わぬ程、手を尽くしている事になる。
 矢張り迷惑を掛けるのは、そろそろ止めるべきだろう。
 連々つらつらと考えを纏め乍ら、暫く廊下を歩いていたが、肝心の手拭いを忘れていたことに気付く。
 急いた所為だ。己の抜け加減に溜息を吐いたが、そうした所で、手拭いが何処からともなく湧いて出る事もない。
 仕方なく来た道を戻る。食堂から香る夕食が、胃袋をくすぐった。
 飯を食べる時に、自室に戻る事を伝えよう。礼は何が良いかも聞き出そうと決める。
 嵯峨崎の部屋の扉に手を掛けようとして、違和感を抱く。
 小刻みな呼吸が漏れている。運動中、息が上がる様な……。
 
 やつがれは直感的に理解する。
 
 そうとも。ほぼひと月、やつがれと共にいたのであれば、間違いなくご無沙汰な筈だ。その上、やつがれの精神状況から考えて、そういった事象には特段気を払っていたに違いない。
 嵯峨崎も年頃の男なのだ。その上、女を買う様な軟派者でもない。
 生理的現象を抑え込ませてしまった事に、申し訳無さが募る。自室にある手拭いを取り行こう。奴にも一人の時間が必要なのだ。
 扉に背を向けようとした、その時。
「立科先輩……ッ。」
 微かに漏れる声と呼吸が、耳を刺した。
 自らの心臓が跳ねる。掌にじっとりとする汗が広がった。
 聞き間違いだろうか。……否、聞き間違えであってほしい。
 見るべきではない。見なくていい事もある。知らずに済む事もある。
 漏れる息の間を縫って聞こえた、今の単語は、何だ。
 安賀多の遺書だってそうだった。真実を明らかにした所で、やつがれが苛むだけであった。
 知る事そのものが呪いの切っ掛けであったのだ。だから、扉を隔てた向こう側で起きている事を、敢えて覗き見る必要は無い。無い筈だ。
 分かっているというのに、やつがれの手はノブに伸びた。音を立てず、五分ごぶ程開ける。
「はっ……!」
 より明瞭になる濡れた声に、背筋が粟立つ。引き攣った呼吸が漏れぬ様、歯を食い縛った。
「先輩っ、先輩……!」
 普段の利発そうな姿からは想像も出来ぬ程、恥も外聞もない乱れ方であった。嵯峨崎は、やつがれが着ていたシャツを鼻と口に当て、自慰に耽っていた。
「ッ……! はっ、はぁっ……!」
 此れは、何だ。
 何故、嵯峨崎がやつがれのシャツを使っているのか。
「っ、は、はぁ、んっ……!」
 息が荒くなっていく。それに比例して自身を扱く手が速くなる。涎を垂らしながら、シャツに染みた臭いを目一杯に吸い込んでいく。
 やめろ、何をしている。何をしているのだ! 
 凄まじい嫌悪感が腕筋から背筋を辿り、鳥肌が立つ。
 限界が近づいているのが、嵯峨崎の蕩けた顔から見て取れた。
「ッ、永、先輩っ……!」
 嵯峨崎は、シャツの袖口に逸物を突っ込み、そのまま果てた。やつがれの名をぶつぶつと呼びながら、恍惚の表情でシャツを台無しにしていく。
「御免なさい、先輩、好きです、……。」
 ——此れは悪い夢なのだろうか。
 信頼を寄せ、感謝してもし足りぬと感じていた後輩が、やつがれの物に悪戯をし、挙句の果てに自慰のねたにされている。
 溶けた水飴の如く甘い瞳が、薄暗闇の中に光る。見覚えがあった。バアで、傅いた日の此の部屋で垣間見えた物だ。正義を燃やし乍らも、厭にドロリとした質感を伴っていた物だ。
 あれは奴の情欲の色だったのか。
 奴は背徳を味わう趣味があるのか。
 本気でやつがれに惚れたというのであれば、何を誤ったのか。
 真逆、やつがれが青泉に襲われて居た場面を思い返す事もあったのだろうか。
 やつがれを匿ったのが、下心あっての事なのか——! 
 浮かぶ疑問は多数あれど、立ち尽くすしか術がない。少なからず、嵯峨崎の側で生活をするのは、最早出来ぬ事は明らかだ。共に風呂に入るなど、以ての外だ。
 あのシャツはもう着れない。否、あの一着だけではなく、他のも。
 扉を再び締めれば音で気が付かれてしまうかもしれない。やつがれは静かにその場から後退り、確実に距離を取ってから自室に逃げ帰った。
 何もかも置き去りだ。制服さえも。適当に言って引き上げねばならぬ。然し、今直ぐに行動に移せるだけの冷静さは無い。
 浴衣が随分と肌蹴ていたが、構ってられなかった。周囲の目も気にして居られない。
 く、速く、速く離れねば! 
 自室に雪崩れ込む。室内から鍵を掛け、本の山で防衛壁ばりけいどを築いた。
 切らした息を整え乍ら、思い出すのは、安賀多の言葉だった。
 酔ったフリをして、名前呼びした事について腹立てた、と彼奴は言っていた。
 そして危機感の無いやつがれにも……。
「は、ははっ、何だ、何なんだ、此れは。」
 安賀多の呪いは、実は此れから降りかかる災厄の預言だったとでもいうのか。
 此れが戯曲であるならば一体何が表題となるのだ。
 死神の言葉を切って捨てた哀れな男の、転落劇か。将又、蛇に中から食い破られた愚かな男の、凄惨劇か。
 安賀多がはじめに、やつがれに狂った。次いで、青泉。更に次いで、嵯峨崎。
 やつがれが、彼奴らを狂わせたのでは無いのか。
 震える手を眺めた。何も無い、空虚な掌だ。散々に組み敷かれた。
 そうだ、嵯峨崎にも。眠りに落ちる前、手を繋ぐ事を許したでは無いか。
「ははっ、はははっ……!」
 ならば、此の状況は。
 此れはやつがれ自身が招いたのだとしたら、やつがれ自身が悪辣で淫情で、男を狂わせる何に満ちているのでは無いのか。
 落雷が直撃したかの如くやつがれ自身の正体を思い知る。淫売だ! やつがれの自覚があるともあらざるとも、事実には変わりないのだ!
 男に抱かれて快楽を貪る様な、不潔で猥弱わいじゃくな本性を認めざるを得なかった。
「は……っ!」
 壊れた絡繰の様な痙攣が治らぬ。
 けたたましい笑い声が身体中から湧き起こり、床に伏して、転げた。
 
 ◆
 
 長らく経って。
 一頻り笑い、やつがれは床に座ったまま茫然とアオバを眺めていた。今更風呂に入る気は起きぬ。然し、そろそろ一度、嵯峨崎の部屋に戻らねば、奴が不自然に思うだろう。
 嵯峨崎がどんな想いを腹に抱えてやつがれを匿ったのかは置いておこう。世話になった事実は変わらぬ。
 やつがれにとって不都合な事を忘れると言ったのも、事実だ。ならば、やつがれも奴にとっての不都合を忘れてやろう。それで正も負も無く、零になるはずだ。
 何もかもから目を背けただけの勘定であるが、一人でそう納得して立ち上がった。
「アオバ……。直ぐに戻る。待っていてくれ。」
 青白い不気味な同居人が表情を変えることは無い。それでも、今は此の絵がやつがれの支えになっている。
 此の部屋に帰ってくれば、日常が思い出せる。その要素の一つなのだ。
 
 浴衣の儘、嵯峨崎の部屋に戻ると、随分と焦った顔をして詰め寄られた。
 一人歩きはまだ危ないだの、行方を告げてから離れてくれだの、そう言った事だ。
 先程見た物が嘘ではないかと思える程の親身さと直向きさに溢れていた。
 そして其れ以上に、だからこそ、失望が付いて回る。
「嵯峨崎。もう十分に良くしてもらった。感謝している。」
 声が震えていないか、妙な素振りになっていないか。最新の注意を払って言葉を紡ぐ。
「演説会も直ぐだ。そろそろ、調子を取り戻したくてな。」
 軽快に、真面目に。尤もな事実と、嘘ではない本音を交える。
 持って来た物を手早く纏めれば、両手で抱えられる程度の荷物となった。
「今直ぐに、ですか。明日でも良いのでは……。」
「思い立ったが吉日、という奴だ。」
 今日着ていたシャツだけは回収する気が起きなかった。だが、無視するのも可笑しな話だ。辺りを見回して探す素振りを見せる。
「今日着ていたシャツは、知らないか。」
「え、と……。出てきたら届けます。」
 スマンな。やつがれはそうとだけ言って立ち上がった。
 嵯峨崎の目が見られない。あの、粘り気のある色をもう一度見てしまう事に恐怖した。
「本当に世話になった。此の借りは、いつか返させてくれ。」
 やつがれは上手く笑えているだろうか。平常通りの《立科永》として振舞えて居るだろうか。顔が見られないのを、照れ臭さの所為に出来ているだろうか。
「いえ、僕は……。」
 口籠る奴に、先輩然とした仕草で軽く肩を叩く。
 大丈夫だ。自然に離れれば。問題無い筈だ。
「お休み、嵯峨崎。」
「あ……。お休み、なさい。」
 名残惜しそうに眉尻を下げ、しょぼくれた顔を見せた。其れが本心であるのか、演技であるのか、区別はつかない。
 背を向けて部屋の扉を閉める。夜中の静寂に満ちて居り、扉越しの気配が離れて行くのが分かった。
 
 ドッと汗が吹き出た。
 
 呼吸がおかしくなりそうだ。暴れ出しそうな肺と心臓を律し、呼吸を止めて速歩で立ち去る。
 やつがれは明日から、誰を味方だと思えば良いのか。否、元々は、やつがれは誰とも連まず、一人で行動して居たはずだ。味方など誰も居ない。元より一人だ。
 然し敵も居ないと思って居たのだ。口が立つ自信はあった。其れだけで良かったのだ。恨辛があったとして、振り上げた拳を砕くだけの辯論もあった。
 其れだけで、良かったというのに! 
 捩くれた一方的な好意が、如何に暴愚であるか身に染みる。やつがれが其れを防ぐには、矢張り遠ざけるしかない。
 そうとも。だから、やつがれは、独りで良い。
 辯論を振るい、納得させるだけの偶像性を用いて、支持者を集めれば良い。
 一線を超える輩は徹底的に遠ざければ良い。
 やつがれは、独りであるべきなのだ! 
 そうとも、崇高なこころざしを宿した魂を、穢されぬ為にも! 
 自室に帰る頃には、落ち着きを取り戻していた。不気味な同居人はいつもと変わらぬ。
 其の姿は、やつがれを無条件に肯定していた。
「嗚呼……。アオバよ。」
 本の山も変わらない。本の中身も変わらない。活字が勝手に内容を捻じ曲げる事も無い。
 やつがれも、変わる必要は無い。
 自分自身が信ずる物で、やつがれの周囲を固めれば良い。
 アオバの前に置いた椅子に、脱力して座れば、月明かりが語りかける。判霧はっきりとした輪郭はそのままに、柔らかな光を纏う月が窓から見えた。
「……由芽子さん。」
 由芽子さんは、此の考えをどう思うだろうか。
 彼女もまた、孤独の中で此の月を見ているのだろうか。此の思いを、由芽子さんは理解してくれるだろうか。
 次の約束は演説会の二日後だ。
 
 会いたい。猛烈に。
 由芽子さんに、会いたい。