蝶破ちょうはノ段

 インタヴューは好意的であった。大陸よりの思想が臭う部分から、思想の不一致により爪弾きにされるかと身構えていたが、全くの杞憂であった。  やつがれ以外の面子を考えれば、ぞんざいに扱われる可能性は低いと分かっていた。良い意味で驚きだったのが、筆頭りーだーであるやつがれを中心に取り上げるとの事だった。写真こそ撮られなかったが、《民主倶楽部》メンバアの絵を添えたいと要望があり、承諾した。
 雑誌に掲載されるのは二、三月程先だろう。其れ迄、精力的に講演を行う必要がある。帝都大生で構成される《民主倶楽部》という存在を世間に認知されない事には、雑誌に紹介されるという効果を存分に発揮出来ぬからだ。
 アオバが居たバアで、打上げと兼ねて会議を行う。電氣ブランを掲げ、喉を鳴らして呑むと、幾らかの充足感に満たされた。
「嗚呼、美味い! 僕、雑誌のインタヴューなんて、初めてでした。」
 機嫌良さそうな嵯峨崎は、晴れやかに笑った。全員初めてだぞ、と青泉は揶揄う様に肘で突く。仲良さ気にする二人が、啀み合っている等、矢張り信じられぬ。
「永はいつなら緊張するんだ? 始終、涼しげな表情でさ。」
「幾度と無く行ってきた雄弁に比べれば、大した事など無いだろう。」
 こうしていれば、良くある大学生の集まりだ。爛れた状況が嘘にも思える。其れは全て、《立科永》による功績なのだろうか。
「立科を中心に組み立てられてある、というのが、世に出ても好評になるだろうな。」
 灰藤先輩も、少し浮かれている様だった。平民で庶民だが、有能な《立科永》が筆頭に立つ構図は、民主制の面から見ても好ましいのは分かって居た。
 しかし他所から見た時に、神輿に担がれているだけだと評価される恐れがある。《立科永》は銀時計候補である程に優秀であると、此度のインタヴューで印象付け無ければならなかった。
「さて、余り浮かれ過ぎても良くない。今後の活動について、聞いてもらおうか。」
 《立科永》は、生真面目で、高慢で、潔癖で、不敵なのだ。だからこそ、此の三人に認められている。
「先ずは日比谷。次に神田、新宿、東京。其の後、遠征を計画する。」
 遠征、の一言にメンバアは前のめりとなった。其の様子に、やつがれはニヤリと頬を釣り上げた。
「遠征とは言っても、近県だ。且つ、雑誌の発刊地に合わせる。」
 それだけで、彼等は納得した様だった。其の近辺での活動家の心当たりについては、やつがれは皆無だが、彼等自身が持つ人脈は広い。三人が活発な意見交換を行うのを眺めながら、酒を煽る。
「後援者台帳や、活動履歴帳を作ったほうが良さそうですね。」
 嵯峨崎がハッとした顔をして、そう発言した。青泉はアッと間抜けな声を出したが、気が早いと嵯峨崎を揶揄った。然し、本来ならば直ぐにでも作成しなければならぬのは皆分かっていた。
「否、必要無い。」
 管理台帳の類いは、大抵の組織には不可欠だ。支援家への挨拶や、活動内容の報告に活用する為だからだ。
 だからこそ、不要である。
「関係や内容をつまびらかにせよ、と言われた時、其れ等が押収されては困る。」
 後援家等に迷惑は掛けたくないのでな、と零すと、皆困惑した表情を見せた。
「其れは永に、疚しい事があると言う様なものじゃないか。」
 青泉は何処か面白くなさそうな態度と共に、片眉を釣り上げた。横目でやつがれは其れを見流す。視界に入ったのはぐらす。中に注がれた氷はいつも通り、輝かしい光を反射して高級感ある酒の色を作り出している。何が無しやつがれと重なる部分がある様に思える。 「──あるとも。」
 青泉も、嵯峨崎も、灰藤先輩もやつがれ自身が犯した罪を知った。青泉と嵯峨崎は、其れに蓋したのだ。
「《立科永》は完全無欠の男だ。だが、やつがれ自身が仕損じた事は山程ある。……分かるな。」
 酔いは全く回らなかった。杯の淵に付いた水滴を指でなぞる。
 やつがれ達は今、道幅が狭く、地盤の脆い道を進んでいるのだ。辯論部は帝都大学公認という背景があったが、この《民主倶楽部》は、只の有志の集まりである。其の上、出自や血族が明らかでは無いやつがれが筆頭なのだから。
「此のメンバアを誑かしていると外野から言われた時、探られる腹が全く痛くない訳では無い。」
「そんな事、ありません。」
 嵯峨崎は、悔しさを匂わす声を震わせた。目には涙が溜まっており、白兎の目の如く充血していた。思いもよらぬ表情に、少なからず声を失った。一体今の何処に、涙する部分があったのか。
「僕は……、今まで不遇の立場であるのが常でした。其れを……そんな僕を、特段可愛がってくれる先輩に、疚しい事など……!」
 珍しく取り乱す嵯峨崎をどう扱えば良いか分からず当惑したが、やつがれを慕っているからこその反応だというのは飲み込めた。ぐずぐずと耐え切れず落涙する後輩は、丸で幼童である。夜毎、やつがれを食う様に抱く男には到底見えなかった。
 奴もまた、《嵯峨崎深志》と嵯峨崎自身、という切れ目があるのかもしれぬ。
「兎に角、台帳の類は要らぬ。どうしても必要となるなら、少々安定してからだ。」
 嵯峨崎の鼻頭を指で弾いて宥める。パチクリと瞬きする後輩の姿が可愛らしく見え、思わず頬が緩む。何を思ったのか、次の瞬間には目を泳がせ、軈て気恥ずかしそうに顔を伏せた。
 其の様子が可笑しかったので、勢いで酒を一気に飲み干せば、ポヤンとした気分が脳を浸していく。
「やつがれが仮に取っ捕まる事となったら、メンバア諸君はやつがれを切れ。良いな。」
 判切と言える程度には酔いが回らなかった。酒には強くない筈だが、今日に限って効きが悪い。

 念押しされたメンバアの苦々しい顔が、何故か愉快でたまらなかった。
 
 ◆
 
 夜が更け、瓦斯燈がすとうが揺らめく。風に秋の気配が立ち込めていた。未だ暑さが残るが、其れもすぐに消えて行くのだろう。
 青泉と嵯峨崎に寮まで送られる道中、酔い半分で気になっていた事を聞く事にした。
「僕の出自、ですか。」
「余りに思い詰めた顔をしていたのでな。」
 嵯峨崎はちらりと青泉を見た。出来る事ならやつがれと二人で話をしたいのだろう。だが、青泉は眉を顰め、冷たく言い放った。
「貴様の事なぞ、俺は疾うの昔に知っている。」
 嵯峨崎は、不快さを隠さぬ瞳で青泉を見据えた。態とらしく大きな溜息を吐いたかと思うと、前髪を掻き揚げる。顔が柔らかい猫っ毛が遅れて流れていった。
「せめて、立科先輩の‭自室で頼みます。庵野先輩は廊下にでも居て下さいよ。」
 異変があれば直ぐに気付くでしょう、と乱暴に言い捨てる。一応は納得したらしく、やつがれの部屋に嵯峨崎を招き入れた。
 すっかり暗くなっているので、洋燈を付けた。むらのある灯は三歩先程までを照らす程度であったが、無いよりは良いだろう。
 椅子は一脚しかない為、やつがれは本を退けて壁側に空間を作る。嵯峨崎に椅子を譲ったが、暗闇に浮かぶアオバの存在に驚き、肩を揺らした。やつがれは苦笑し乍ら、そっと布を被せてやった。
 椅子ごと此方を向き、嵯峨崎は姿勢を正す。嵯峨崎が話し出すまでに、幾らかを要した。沈黙の中、洋燈の火が微かな音を立てて揺らめく。照らされた影さえ、切り出す言葉に思い悩んでいる様だった。
「嵯峨崎家には、息子が三人居ます。兄と、僕と、其れから弟。」
 語り口は穏やかである。光も相俟って、黄昏の様な雰囲気だ。硝子を通して熱が広がる。
「でも僕は、異母兄弟。……妾の子です。」
 膝の上に置かれた手が拳を作る。手の震えが灯影ほかげと同調している。やつがれは、そうか、と短く返答した。
 嵯峨崎の視線はやつがれに向くことは無く、落ち着きない様子であった。
「大抵は別邸で囲うのが常かと思いますが。父は母と僕を本家に住まわせました。」
 嵯峨崎の血を持つ者を競争させる目的でね、と付け足した声音は、疲弊しきった老兵の如きものであり、普段の明るく朗らかな姿は何処にも無い。其れ程、烈しい生活を強いられていたと窺える。
「表向き、優秀で血を持つならば継承権があると言っていますが、僕が家業を継ぐ事は無いでしょう。僕は既に、後継者争いからは随分前に脱落しています。」
 兄も弟も、問題なく優秀ですから。そう首を振る嵯峨崎はしおれた夏草を想起させた。伏せた瞳を縁取る睫毛が、より深い影を落とす。沈んだ表情に見えるのは薄暗い此の部屋の所為ではないだろう。
「嵯峨崎家は目的の為なら他者を引き摺り下ろす事も厭いません。……僕は、そんな嵯峨崎家の姿勢が嫌いでした。」
 短い呼吸を一つ吐く、嵯峨崎が漸く顔を上げた。凪いだ帆に似た、落ち着いた笑みが其処にあった。
「でも僕、悲観していませんよ。灰藤先輩も仰っていた様に、今後の嵯峨崎家はもっと力を付けて、弱者を導く立場にならねば、と考えているのです。」
 嘘は吐いていない。そう確信出来る空気を纏っている。家長ではないにしろ、自分なりの使命を見つけた者の顔付きだ。
 然し、腹の底を見せている訳では無いと直感が告げる。
「最近、熱心に家の仕事を手伝っていると聞いた。」
 やつがれが口を開くと嵯峨崎の眉が微かに動いた。古美術品を点検する様にじっくりと観察する。目を逸らさじ、やや長めに息を吸った。
「引っ掛かるのだ。聞くに、お前は嵯峨崎家のやり方には良い感情を抱いていない。其の上、嵯峨崎家と庵野家の確執も耳にしている。そんなお前が何故、個人の活動ではなく、家業の手伝いをするのか……。」
 言葉にし乍ら、頭の中を整頓していく。
 そうすると、理屈では無い動機が一つ、可能性として現れる。今度は嵯峨崎が、やつがれを鋭く見つめる。其れこそ頭の頂点から足の爪先に至るまでだ。
 酒の為に渇く口を唾で潤してから、言葉を紡ぐ。
「お前は単に、青泉をやつがれから遠ざける為に何かしていないか。」
 簡潔かつ、不純な動機。具体的に何をしているかは全く分からぬ。だが、倫理や法さえ踏み抜きかねないと考えている。
「──貴方を手に入れる為なら、何だってします。」
 歪んだ魂の露出を、目の当たりにしてしまった。  評判を落とす事など、人の掌握さえ出来れば容易な物ですよ。そう笑む嵯峨崎の瞳が、きゅうっと弓形にしなる。何時ぞや、カフエでの悪どい提案をした時と同じ顔だ。
「矛盾しているではないか。目的の為に、青泉を蹴落とすやり方は、お前の嫌う嵯峨崎家の物と同じではないか!」
「いいえ、ちっとも。」
 首を振る嵯峨崎は此の場に不釣り合いな程、物柔らかな表情となる。然し、其の目の奥に、甘い毒がじわじわと広がっていた。
「永先輩が、初めてだったのです。」
 静かに席を立ち、やつがれの側に寄って来る。身を固くして警戒したが、一歩先で立ち止まった。
「初めて、僕個人の思想や権利を尊重し、意見を聞き、理念を授けてくれたのです。眉目秀麗、容姿端麗、お負けに純粋で、正義に溢れていて、……。」
 両手に触れ、やつがれの前に傅く。青泉から匿ってもらった日にした、騎士の如き振る舞いである。
 其の日と違う部分は瞳だ。盲信と心酔に充ちていた。──忠誠とは程遠い、熱を孕みながら。
「永先輩は僕にとって、煌めき‭乍ら導きを授ける星なのです。」
 ほう、と吐かれた息が熱い。手の甲を僅かに撫でただけだというのに、其処から引火して焼かれてしまうとさえ思えた。
「永先輩。」
 両目に、炎の影が映っている。焚べられたのは、やつがれへ抱く感情全てだろうか。艶かしく発音される自らの名が、やつがれを縛る。混沌を引き連れる嵯峨崎を茫然と眺める事しか出来なかった。
「僕の物になって。お願いです。じゃなければ、僕は、……。」
 喉の奥が酷く渇く。否、喉だけでは無い。口唇も、口内も、嵯峨崎に暴かれ、注がれた部分全てだ。
 奴も奴で、欲に塗れた憧憬とも崇拝とも付かぬ情動を滲ませ、蕩けた顔をする。其れは、ドアの隙間から覗き見た日を彷彿とさせた。
「自分でも訳が分からなくなるほど、苛烈な生き物になる。」
 分かって居た事だ。嵯峨崎はやつがれの事となると視野が狭くなるきらいがある。此処で答えを誤れば、取り返しはつかぬだろう。
 仮に、嵯峨崎の物になったとして、何も好転しない。庵野家を妨害する事は無いし、やつがれ自身が何か失った物を取り戻す事も無い。
「青泉はやつがれの親友だ。そしてお前は、やつがれが一目置く後輩だ。其れでは、不足なのか。」
 手を強く握られる。手の甲に頬摺りし、縋る姿は憐れにも見える。呼気一つ一つに、やつがれに対する種々の懸想と欲望が含まれているのだろう。
「初めは、側で支えられるだけで満足でした。そもそも、貴方に情欲など抱いてなかった。然し、寝食を共にする内、僕は歯止めが効かなくなっていきました。」
 やつがれの洋シャツに悪戯したのも、其の一つなのだろうか。下心の無い、硬派では無かった嵯峨崎を、やつがれは踏み外させてしまったというのか。
 足の裏から、じくじくとした罪悪感が這い上がる。其の侭、頭を火照らせて内部から圧力をかけて膨れていく感覚に見舞われた。
 青臭い程に純真で、正義に燃えていた男を、やつがれは、──! 
「貴方が欲しい。凛とした姿も、乱れる姿も、強気な姿勢も、弱音を吐く心も、何もかも!」
 やつがれは、矢張り何かしらの形で責任を取らねば成らぬのだろうか。徐々に思考が狭まっていくのを自覚しつつも、良心の呵責で胸を締め付けられる。
 青泉もそうだったのだ。嵯峨崎もそうなら、安賀多もだろう。やつがれ自身が引き起こした事柄を、どうして後悔せずに居られようか。
「立科永が、欲しい。」
 其の一言で、やつがれの混乱は解けた。
 澱む蜜色を目一杯湛え、真っ直ぐにやつがれを射抜く。本心なのだろう。偽り無い心情なのだろう。頭痛の波は急激に引いていった。思考が一気に拓けた心地さえする。
 次いで湧いて来たのは、滑稽さと自嘲であった。
「く、ふふっ……!」
 堪えきれず、顔が緩む。否、歪んでいるのかもしれぬ。だが瑣末な事だ。やつがれにとっては何方でも良い事だ! 
「無理だな! 《立科永》は誰の物にもならぬ!」
 唐突に通る声を上げたやつがれに、嵯峨崎は瞬きを忘れる程、両目を見開いた。
「安賀多や、青泉、由芽子さんですら、《立科永》には届かなかった。否! 溢れていった。零れていった。捕らえられなかった!」
 あふれる感情の儘に、言葉も思考も濁流の如く溢れた。堰を切った中身は留まるところを知らない。
「やつがれは、立科永だ。では《立科永》とは、誰だ? どんな人間か、ではない。一体、其奴は誰なのだ。教えてくれ、嵯峨崎!」
 垂れ流していたのは、言葉だけで無いと気付く。頬を濡らすのは、一体何の涙だというのだろうか。
「永先輩……ッ。」
 胸を潰して掠れた声と共に、嵯峨崎はやつがれを抱擁した。今迄に無い程、柔らかな物だった。
「ごめんなさい、永先輩、好きです、好きなのです。……壊れた貴方自身も、好きです。」
 壊れた? 嗚呼、やつがれは壊れているのか。嵯峨崎の言葉に奇妙さは感じなかった。成る程、そういう表現もあるか、と腑に落ちる位だ。
 不意にノック音が響く。返答を待たずして、青泉が顔を見せた。
「嵯峨崎。気は済んだか。」
 御構い無しにズカズカと入ってきたと思えば、やつがれと嵯峨崎を引き剥がした。
 乱雑に嵯峨崎の肩を突き飛ばす。其の仕草には敵意がありありと見て取れた。
「貴様では、到底手に負えないと思い知ったか。嗚呼、粗末な女の腹から這い出た身では、思考は鼠にも劣るか。」
 普段の青泉から、及びもつかない差別を含んでいた。驚嘆で固まっていると、嵯峨崎の目が鋭利な光を宿していく。
「……庵野先輩こそ。永先輩を大切にしたいだのと言い乍ら、毎度絞首に耽るとは、どういう趣味なのです。此れだから軍人崩れの家系は野蛮だ。」
 其の声に先輩への敬意など有りはしなかった。性質たちの悪い笑みを浮かべたかと思うと、演舌めいた口調で悪態を吐く。
「大体、庵野先輩は何故、其の体躯でありながら軍事学校へ行かなかったので? もしや縦に伸びすぎて骨を痛めましたか。其れとも真の軍人には歯が立ちませんでしたか! 嗚呼、全く以って只の木偶の坊!」
 青泉の内面を抉り出す嵯峨崎に、青泉は力一杯、嵯峨崎を殴り飛ばした。骨に損害を与えていそうな音に、思わずやつがれは、嵯峨崎の前に立ち阻む。青泉は荒い息を抑える事なく、敵だけを睨みつけていた。
「反論出来ぬと分かれば、暴力ですか。」
 粗末ですねぇ。と厭な笑みを浮かべる嵯峨崎から、いじらしさは消えていた。
「永先輩、心配無用です。貴方さえ居れば、《民主倶楽部》活動中の僕等は、只のメンバアですから。」
 斯様な物を見せておいて、一体何が大丈夫であるというのか。血の気が引く様なやり取りだ。灰藤先輩が惨たらしいと評したのが今になって理解できた。
「庵野先輩。永先輩に身の上話でもしたら如何です。」
 嵯峨崎も、青泉の話が終わるまで外で待機するつもりらしい。指の長い繊細そうな手と掌を軽妙に振り、何もかもを置き去りにした空気だけを残して退出して行った。
 シンと静まり返る場は、緊張で張り裂けそうだ。針の穴でも開ければ、忽ち割れ崩れそうな程に。
「お前等は、やつがれが居ない場では、何時もこうなのか。」
 やつがれに向けられた訳ではないというのに、青泉の無法な力に対し、本能的な恐れを抱いていた。
 溜息混じりに言葉を吐いて、心を落ち着ける。
「嵯峨崎が同盟の様な物を持ち出して来て以降、お前を抱いたのが分かってから、ずっとこんな調子だ。」
 引き金は、やつがれであるという。であれば、諍いが表面化したのは三人で事に及んだ日が切っ掛けなのは推察できる。
 やられたらやり返すを繰り返し、今に至るのだろう。
「何故、青泉まで彼奴を煽る様な口振りなのだ。年長者らしく構えられないのか。」
「無理だな。」
 きっぱりと断言する青泉は、冷徹な目をした。庵野家としての立場で物を言っている、と感ぜられる。
「嵯峨崎の差し金で、家の仕事に厄介事が増えたんだ。本来なら人を使って片付ける所を、《民主倶楽部》があるが故に処理してないんだ。此れでも寛大な対応をしている。」
 処理。
 重く響いた言葉に、何の情けも無い事が分かる。奴等は互いに殺意を持ち、潰し合いが始まっても不思議では無い様だ。
「此の際だ。永に聴きたい事がある。」
 何時もより硬質な声で呼び掛けられた。何か、核心に迫ろうとする時の物だ。其れなりの付き合いがあるからこそ、直ぐに分かった。
「お前、俺達に抱かれている間、何を考えている。」
「何も。」
 やつがれの悪い癖が出た。間を空けずに答えても、相手に悟られるだけだというのに。
 悪手を打ったのは肌で感じ取った。青泉の目が釣り上がる。青泉は、既に察知していたのだ。
 やつがれが自傷目的で青泉を利用していると。青泉の想いを踏み躙り、死の裏返しに、交わっていると。
 手首を強く握られる。関節の隙間に、有りっ丈の握力を込められ、痛みに顔を顰める。
「止めろッ……。触るな。」
「……何か、勘違いしていないか。」
 ズボンのポケットから、何か細長いものが見えたが、判別がつく前に、目の前の景色が衝撃と共に歪んだ。
「かはっ!」
 次いで襲う横腹の激しい痛み。床に倒れ込んで初めて、やつがれは青泉に蹴り飛ばされたと知る。痛苦に悶えていると、青泉はやつがれを仰向けに転がし、馬乗りになった。
「俺が素直に、お前に従うという根拠は、何処にあるんだ。」
 右手に取られていたのは、鋭く光るナイフだった。大きな左手がやつがれの首を捉える。手足をばたつかせたが、周囲の本の塔を倒すだけで無意味であった。
「青泉ッ……!」
 ナイフの先端が目の下、唇、頬をなぞる。切れては無い。切らぬ様に滑らせているが、恐怖がやつがれを支配する。
「不利になってから慌てふためいて、恐れて、抗って。本当は誘っているんじゃないのか。」
 青泉は冷酷に、冷淡に、そして獰猛さ隠す事なく、竦み上がったやつがれを見下ろす。声に色はなく、されど激情を多分に含んでいる。
 真っ黒に塗り潰された様に見える親友は、やつがれを庇い、抱き、引き留めた人間と同一人物には到底思えぬ。埃っぽい床は呼吸を余計に苦しくさせ、首を掴む手の感触をより強烈に感じさせてしまう。
 感じた事もない悪寒に歯がガチガチと音を立てた。
「アンタ、何を! 馬鹿野郎!」
 異変に気が付いた嵯峨崎が、突風の如く駆け込んで来た。怒号と共に青泉を殴り飛ばせば、ナイフは円を描いて床を滑っていく。
 場違いな程の軽やかな音は、直ぐに止んだ。
 耳に届くのは、嵯峨崎が青泉を間髪入れず連続して殴打する音と、やつがれの浅い呼吸と、早鐘を打つ心臓の音であった。
 反撃しない青泉の様子を妙に思ったのか、嵯峨崎は青泉から離れる。昂奮と攻撃の所為で、肩で刻むように息をしていた。
「……嵯峨崎の事を言えないのは、俺が一番分かっている。」
 切れた口許を拭い、ゆっくりと起き上がった青泉から敵意や殺意は消え去って居なかった。
「お前を何が何でも生かしたいと思っているのに、お前を、縊りたくて仕方がない。」
 其の言葉に、嵯峨崎が再び飛びかかり、青泉を羽交い締めにする。逃げろと嵯峨崎が叫ぶが、やつがれは、死にかけの金魚の如き喘ぐ息をするのがやっとであった。
「お前を手に入れる為なら、そしてお前を害する為なら、俺は……どんな事でも!」
 喉からはらわたを引きずり出しそうな叫びは、やつがれに好意を告白した瞬間を彷彿とさせた。図書館の薄暗闇と冷えた空気が、此の部屋に降ってくる。
「自分でも、こんな残虐性があったのかと目を覆いたくなる。」
 青泉は其の儘、力無く項垂れた。鉛を身体に詰められるだけ詰め、重力に逆らう事も出来ぬのではないかと思わされる程、首が下向きに向いている。
 暫しの沈黙が作り出す空間は、罅が入った硝子よりも脆くなっただろう。四方から圧し縮まる苦しさが迫ってくる。
「お前にも問うておこうか。」
 未だ恐怖から抜け切らぬ身体を叱責し、立ち上がった。手足が震えるが、踏ん張って腹に力を込める。
「やつがれは立科永だ。然し、《立科永》とは、一体誰だ。」
 粗末な明かりの下、行われた問答が、此の先を決めるだろう。青泉の性格からして、無言を貫くのは有り得ない。
 部屋中の物を釘で固定してしまった様に、重苦しく停止する。不穏に固まった空気を壊したのは、青泉であった。
「お前だとも。……お前自身だとも!」
 窓が振動せんばかりの大声であった。反射で身体が硬直する。外より昏さを湛えた部屋が、一気に塗り替えられる。
「お前が封じようとしている感情や血肉、余すところなく注いだ物が、《立科永》だとも!」
 嵯峨崎を振り払い、やつがれの胸倉を掴む。背丈の違いから、やつがれの片足が浮いた。不安定な足場と、青泉の強い眼光に、身動きが取れなくなる。
 青泉は苦悶と葛藤の中に居た。唇を震わせ、声を絞り出す。双眸は、涙に濡れていた。
「お前だ。お前の所為だ、永。《立科永》が、俺達を狂わせた……!」
 
 くしゃり、と音を立てて最後の一葉が崩れ去った。
 
 やつがれの所為。やつがれ自身や《立科永》の境目無く、やつがれの所為だという。
 青泉の言葉は、他の誰が言うよりも深く胸を抉った。深い暗い穴が足許に現れて、落下していく感覚に襲われる。其の先は広大な砂漠でもあり、狭苦しい井戸の中にも思えた。
「……ならば、どうする。進めもしない道に、お前達は来るのか。」
 道など、潰えた。目の前が褪せ、何もかもが虫喰いの紙切れとなっていく。池の底の汚泥と水底が直ぐ真後ろにやって来ている。
「進めない。戻れない。何より、お前から、離れられない。ならば、果てまでお前と共に。」
「僕は、貴方が僕の物にならないのなら、僕が貴方の物に。」
 《民主倶楽部》は、物の飾りでしかない。否、最早、《民主倶楽部》に価値は無い。やつがれ自身と《立科永》の区分けを壊された今、活動の中ですら息ができなくなったのだ。
「は、はは……! 継ぎ接ぎだらけの屁理屈だな! 
 やつがれは活動の中でしか生きられなかった! やつがれ自身は既に死に絶えていたというのに! 其れを貴様は、やつがれ自身を、活動の領域に引きずり込んだのだ! やつがれは死んだ! 《立科永》も死んだ! はは、は……!」
 高笑いは暫く続いた。二人は黙った儘、やつがれを注視するが手を出せぬ様だ。其れはそうだろう! 決別したに等しいのだ! 
「出て行け。」
 自分でも驚く程、低い声が出た。逡巡した後、背を向けた奴等は妙に小さく見える。もし奴等がまだ、何かの可能性があると信じているのならば、事実を認めぬめくらな愚者である。
 
 幕引きだ。これにて終幕だ。これ以上続けても全く無駄である。
 
 やつがれは理解していた。
 やつがれの果ては、此処である。果ては此処に至ったのだ。
 灰藤先輩の顔が過った。彼奴等に対する処置を彼に頼ったとしたら、何が起きるのか想像もつかぬ。そしてやつがれは彼奴等を取り除いて生き延びる信念など、持てなかった。
 
 だからこそ、やつがれは灰藤先輩に頼むと決めた。
 机の上にある書類を全て床に落とし、便箋と筆を執る。