PHASE 0

 半円の月も、その気になれば僕のものになるし、この子の物になる。
 朝でもなく昼でもない。昼でもなく夜でもない。早朝の様な静けさと、夕方の様な翳りと明かり。
 全ては望むままになり、その想像を邪魔する存在は此処には居ない。気付かれてはならないし、気付いてもらならない。そうでなければ、僕等は水に浸した紙屑より脆く引き千切れてしまう。

 僕等は今、そういう世界に生きている。

 足音は無かった。ほんの少しの水滴が跳ね返って、円形が音の代わりに広がっていく。水面を滑る音の形を見た僕等は、互いに顔を見合わせて、秘密ごとを作り出す時みたく笑う。
 静かな湖畔、というと、何となくこの国では無いもののように思える。遠くに高い山があり、霧が掛かる森は深い。深緑色の彩度は低く、あまり明るく無い曇り空でも、不思議と一部分には一縷の光が差し込んだりして、花や蝶が舞う。
 事実、この光景は僕等の育つ国のものでは無い。それどころか、現実ですら無いのだ。
 僕は分かっていた。けれど、僕の相手をしてくれるこの子がそれを自覚しているかは分からない。
 遊ぼう、といえば答えてくれる。名もなく姿も不安定だけれど、比較的安定しているのは特徴的な角や時折覆う鱗肌だった。少なくともそれらが、この子も僕も人ならざる者であると表してくれた。
 僕は今とても手が長く、背中からもう一対の腕が生えている。目一杯手を伸ばして、その子の手を繋いだ。恥ずかしくって近くに行けないけれど、小さな手はしっとりとしていた。四本指で、指先が丸くて、吸盤が付いている。ピタリ、と僕の手のひらに吸い付いて、むず痒く、それでいて酷く愛おしかった。
「どこまで滑ろうか」
 大声は禁止だ。僕等が此処にいるのはどこの誰であっても、気付かれてはならないのだ。
「何処へでも」
 その子には発声機構が無かったけれど、そんなものは関係ない。僕たちは二つで一つにもなれる。二人で一人にもなれる。春の風みたいに爽やかな声が、僕を包んだ。
「わたし、きっと羽も生えるわ」
「じゃあ、飛ぶのに慣れるまで、腕四本で支えるよ」
 水面が静かに波を立て、僕の足が道を作る。滑ったところから水が固まって、しかし氷にもならず、半固形のゲルの様な足場となっていった。その子はぷるぷるとした感触を楽しみつつ、足首から僅かな羽を生やして、足裏を鏡面仕立てに変化させる。音もなく滑り始め、最小限の力で最大限に摩擦を軽減していると分かった。
 しばらく水面スケートで遊んでいると──湖が全てゲル状になる頃には──、湖の中で生きている花畑、その葉をつつく小魚が見えるくらい、透明になっていた。
 その子の腕と脚からは、赤ん坊の腕ほどの羽が生え、翼となった。加えて鏡面は足裏だけでなく、腿にまで広がっている。水中の花畑が写り込んで、この子も花畑の一部であると、思い違いをしそうになる。
 どんな姿になっても、その子らしさを滲ませる姿には違いなく、僕はまた、恋に落ちた。

 岸に上がって、丸太の上をいくつか弾むと、カトラリーを突き立てた林が見えてきた。僕等は胸元にナプキンを引っ掛けて、ご馳走ではないと木々に教えてあげなければならない。生憎、僕は真っ白なナプキンを持っていなかったので、くまさんマークの付いた刺繍ハンカチを身につけた。
「可愛らしい」
 その子にからかわれて、恥ずかしくって、僕はその気持ちを誤魔化すべく、その子のナプキンを褒める。白い薔薇が立体で現れるそれは、首から陽の光を求めて背筋を伸ばしているみたいだった。ボリュームある白い薔薇は、その子の顔の周りを埋め尽くして、紅い頬を引き立てていく。
 薔薇みたいなくちびる、と僕はこっそり思う。僕の目の色が変わっていく。切り込みが入って、薄い皮膚が僅かな抵抗を持ちつつ、しかし痛みなく引っ張られていく。あっと言う間に、左目下に、新しい目が花開いた。
「すてきで、お揃い」
 その子の鏡面仕上げの脚で、僕の姿を確認する。四本の腕はいつの間にか二本に戻り、指はそれぞれ六本になっていた。新しい目の瞳孔は薔薇が刻まれていた。お揃い。お揃いだ。
 僕は嬉しくなって、自分のアトミに感謝を捧げた。その弾みで、更に僕の形が変わっていく。
 爪はオリーブグレー、肌の色はクリームイエロウ。髪の毛はパサパサに乾燥して肩より短くなり、頭には一角獣と同じ角。ブルーフーフが霞んだ様な、珊瑚が白骨化した様な質感で、先端はコーラルピンクのグラデーションを作り出した。
「わぁ、すてき! それ、とてもすてき!」
 その子は歓声を上げて、僕の姿を褒めちぎった。その子もいつの間にか、羊の様な巻角がこめかみ辺りから生えていた。星々の光を散らし、紺碧の空に似た角だった。
 カトラリーの木々はシルバーじみた光沢だったのもあって、僕等の姿はより光をまとって見えた。

 僕にも、この子にも、このカトラリーの林、そのどれにも万物を成す力を持っていて、それらが安定する姿を常に探している。だから僕もこの子も、短い間に外見が変容してしまう。外的要因にも、内的要因にも紐付いて、その時々に最も適した姿形となる。あくまで、僕の仮説ではあるし、アトミと呼ぶものが本当にあるか定かではないのだけれど。

 僕等しか居ない世界。僕等は多くの姿を持ち、捨て、生まれていく。
 僕は此処のことを、《エンボリッチ・フラクタ》と呼び、永い刻の中、どこか掠れて霞んだ世界を生きていた。


 ◆ ◆ ◆


 フォーゲット・ミー・ノット。
 何処からか、そんな曲名の演奏が聞こえてくる。その名前にぴったりな空が広がっていたので、僕とこの子で素敵なワルツを踊ってみることにした。その子の脚は鏡面仕上げではなくなり、ふかふかな毛布みたいな、肌触りの良い毛並みになっていた。つま先からはビビットイエローの爪がほんの少し見えて、僕の頭上を飛んだり跳ねたりする。その度に、ランプで描く絵画を思い浮かべた。
 ワルツってこんな感じだったっけ? と問い掛けると、ルン・タ・タのリズムに乗れば何だって良いの! と言って、この子には敵わないやと笑う。
 舞踏会は空中のステージで行われて、移動しながら、僕等の身体はまた変化する。手が大きくなり、背が高くなり、少しだけ大人っぽくなっていく。霧の中を突き抜ける度、遠くで起きている山火事の火の粉が頬を撫でる度、森の香りを含んだ風に包まれる度、僕等は一つずつ成長していった。
 その子は、途轍もなく美人だった。大きな瞳に、小さな鼻。ふっくらとした唇は淡く色づいて、水晶のかけらを身体中にまぶしたみたいに、乳白色の肌が輝いている。
 手足から胴体に向かうにつれて、身体は半透明になっていて、生き物なら持っているだろう血管や内臓が、植物や鉱石に置き換わっていた。胸元にある拳ほどの赤い鉱石が心臓にあたるのかもしれない。
 わずかに膨らみを持つ乳房やくびれを描く腹部はガラスドームみたいで、内側からもほんのりと光が灯っていた。

 身体を纏う服は薄布になって、羽衣みたく肌を包んでいた。女神や天女に例えたくなるのは仕方のないことだと思う。美しさを表す存在を知らないから、例えたくなるのだ。

「とても格好良くなったね」
 そう言われて、僕も姿が大きく変化していることに気がついた。まず目線の高さが違っていた。それもそのはずで、下半身は脚の長い四つ足になっていた。模様からしてキリンみたいだった。頭には白詰草の花冠が載っていて、髪の毛は随分長くなっていた。タテガミなのかな、なんて思って髪を梳くと、パサパサにはなっておらず、むしろ髪に弾力を感じる。ふと手を見れば、薄い鱗が肌を覆っていた。手首と肘に当たるところからは鋭利な角が生えている。 硬い蹄に、湿った肌と無骨な角は、水陸両用車みたく悪路をものともしないだろう。この子をリードしたい僕にとって、理想的だった。

 当然のようにその子を背に乗せて進む。庭園の様な雰囲気の建物が見えてきた。この場所にいる間は疲弊せず、疲労せず、眠気もないし腹も空かない。それでも欠伸をすれば幸福を感じるし、水で喉を潤せば爽快だ。
 建物の前に、木造の彫刻像が鎮座していた。儚そうな少女にも見えるけれど、子供にはないふくよかさから、女神像だろうと眺めていた。
 胸部をばっくりと割った女神像は、その割れ目を羽根で覆いひっそりと隠していたが、癒すような手つきでささくれた傷口に触れると、何の抵抗もなく僕等を受け入れた。裂けた胸元から染み出していたのは、女神像の血ではなく、林檎と葡萄を足して割ったように甘い果汁だった。鼻をくすぐっくて口の中まで届く香りは、大小様々な丸いビーズが転がって、空気ごと舌の上で跳ねるみたいだった。
 僕とその子でそっと女神の傷口へ口付ける。ぺろりと舐めると、ほんの少し炭酸が含まれていた。
「おいしい」
 そう呟くと、一瞬のうちに女神像の胸部に引き込まれる。ぐるぐると目が回ったが、その子と離れ離れになりたくない一心が、強さを与えてくれた。
 僕はその子の手を握りしめて、逆の手で生い茂った木々を切り倒す。胸腔はジャングルになっていて、切り裂くと蛍光カラーの液体が夥しく溢れた。
 その液体は霧になり、雲になり、大気の不純物を吸って燻んで忘れ去られた色になった。鮮やかだったのはほんの刹那の間で、ああなんて悲しいのだろう、と僕は空を見上げた。
 忘却色した青や緑やピンクは、おどろおどろしい雷鳴を抱えて嘶き出した。その頃には、僕等は女神像の中にいることをすっかり忘れていた。道中に転がっていた特大キャンディポットは、雨風をしのぐのに絶好の場所だった。キャンディポットが大きいのか、僕等が小さくなったのか、大した問題ではない。クリスタルグラス越しに、退色しかかった雨や風がぶつかって、パチパチと弾けて透明なピンク色へと変化していくのを黙って見ていた。
 嵐を超える度に、クリスタルグラスは薄くなっていった。
「夜が明けるのね」
 大気中の暗雲はくしゃくしゃに丸まりながら、暗くて黒い色だけが棄てられて逝く。浄化に狂ったユニコーンが空を駆け、呼び起こす雷(いかづち)は小さな洞窟にいる囚人を切り裂いたことだろう。嵐を引き起こし、忘却を作り出していたのは彼等だったのだ。涙も叫びもない消失の中で聴こえたのは、短く息を吸う音だけ。囁くような笑い声から、桃の果実に似た香りがする。

 透明なゆりかごの中と洞窟の中は、何が違うのだろう。
 生えていたはずの一角の行方が気になって、そっと額に触れる。

 ◆ ◆ ◆

 ほんの一瞬、意識が途切れていた。
 いや、本当は一瞬ではなくもっと時間が経っているかもしれない。それどころか丸々一日眠っていたのかもしれない。この世界に時間の概念はあまりないけれど、記憶を連続して持っていられない事に対して、ひどく焦りを感じる。

 眼前の色があまりに眩しい。時間差で捉えた視界には、天と地の差もなく黄金に輝く一帯が広がった。
 そこは海だった。眩い太陽が海を照らして、砂浜を煌めかせる。しかし砂浜に足場はなく、僕等は浮遊していた。
 ずっとずっと大きくて、遠くて、深いところに地面があるのだろう。底から生える止まり木に捕まって、僕等はその景色をしばし眺めた。
「こういう景色を見ると、何故か懐かしい気がするの」
 わかる気がする、と僕は言った。圧倒的に美しい風景を前にすると、膝から下が無くなって墜落する様な感覚になってしまって、訳もなく泣けてくる気持ちがこみ上げる。
「きっと僕たち、生まれる前に、この景色を見たんだよ」
「生まれる前?」
 クスリと笑みを浮かべ、目を輝かせる。その子の瞳はいつの間にかルビーになっていて、光の輪が瞳孔を滲ませる。埋め込まれた宝石に一瞬目を奪われて、僕は息を呑んだ。
「その、上手く言えないけど……。僕等は見たこともない、完全な物がどういう物か知っていると思っているんだ」僕は辿々しく続ける。「例えば、完全なる三角形とか、全知全能とか、僕等が再現出来やしなかったとしても」
 喉でこんがらがった言葉をどうにか繋ぐ。うん、とその子は僕の拙い話に頷いてくれた。
「それを知っているのは、生まれる前にどこかで、完全な物を見たから?」
「僕はそう思う」
 素敵ね、とその子は言って、僕の手を取った。気付けば僕等の髪の毛が互いに引き合って、絡まり合ったところから青白い光が溢れた。
「完全に美しくて、素敵なものを──今は忘れてしまっていたとしても──、二人で前に見ていたのなら、とても良いこと」
 そして、悲しいことね、と続けて指を止まり木から解いた。髪はどんどん巻き込まれていって、僕等の距離が近くなる。
「私たち、きっと完全な物を目指すからこそ、不安定なのね」
 まるで早くも真理を引き当てた気分になった。銀色のその子の髪は蜘蛛の糸が朝露を着飾ったみたいにきらきらして、僕の花冠は光の粒に溶けていった。
「きっと、そうさ。僕等はきっと、何にでもなれる。それを成り立たせる性質と物質を持っていて、最も善い状態を探してるんだ」
 このまま引きあえば二人のアトミは混ざり合ってしまうのだろうか。それとも、それぞれに相容れないアトミの性質があるとすれば、僕等はいつまで経っても同一の存在になれないだろう。

 僕はどちらにしても歓喜と悲哀を抱えることになる。
 僕等が望みさえすればずっと一緒にいられるけれど、僕等は一つになれないのだから。

「×××××××、という名前だった?」
 その子が発音するたびに、口元から真珠が溢れていく。滑らかで美しい色白の光を帯びているというのに、とある発音はざらめが散らされたように聞き取れなかった。
「わからない」
「そう」
 その子はそれきり、目も口も閉ざしてしまった。身体に灯っていた光は徐々に赤みを帯び、体内でマグマが煮えたぎっていった。
「わたし、また此処に来られるかしら」
 血潮が沸騰しているのは外から見てもわかるというのに、ちっとも熱いと感じなかった。鉱物を含んだ身体がぐつぐつと音を立て、肌の表面が割れていく。クラックされていく音がするたび、僕の胸は張り裂けそうになる。
「辿り着いた場所がどこでも、僕等は一緒だよ。《エンボリッチ・フラクタ》で会えるなら、きっとすぐさ」
 骨に響く甲高い音を聞き逃すまいと、僕はその子を見つめた。
 僕の記憶が時々飛んでしまうのも、もしかしたら、此処から離脱しているからかもしれない。最後までこの子の手は離さないと心に決めて、崩壊しかかった身体を支える。乳白色だった肌は真っ赤に燃えているのに、ルビーの瞳は変わらぬ煌きをしていた。
「蝶が、暴れているの」
 それが、その子の区切りとなる言葉だった。
 背中から勢いよくマグマが吹き出る。間欠泉と同じ勢いで柱が作られて、そしてマグマは薄衣みたく広がっていった。
 その子の血潮は大気中にばら撒かれ、赤茶色の鱗粉を降らせる。その子から飛び立った巨大な蝶は、絡まった髪の毛に降り注いだ。瓦礫と化したその子の身体は、一部分だけ多彩な鉱石や宝石を持つ岩場となり、すぐさま自然物に溶けていった。

 きっと、すぐさ。
 僕はその岩場に腰掛けて、鱗粉を大きく吸い込んだ。
 ふと、胸部を割った女神はあの子だったのではないかと考える。拳ほどある赤い石を拾って左胸に置くと、触れた部分から安堵が生まれた。