PHASE 1

 あの子が居る、あの子が居ない、居る、居ない、居る。反芻しているうちに、両手にあったはずの赤い石は無くなっていた。無くなったからこそ、あの子が再び《エンボリッチ・フラクタ》に戻ってきたのだと思った。僕の爪と指の隙間に茶けた鱗粉が挟まっていたので、フウと息を吹いて散らせる。煌めくことなく、ただの砂となって舞い、虚空へ消えていった。
 あの子だった岩場を中心にして、荒野が広がっている。必然、僕は今の世界の中心に立っていた。
 赤い大地に点在するブルーガーデン。青々とした木々と水の気配を纏うが、オアシスとは違い、遠くからしか目視出来ないもの。

 あの子はブルーガーデンの何処かに居るかもしれない。

 遠くを見る為に目を凝らすと、額と米神に皮膚の引きつりを感じる。扉を開くように、生まれ変わるように、鍵を回して、皮膚を裂いて、中と外の空気を混ぜる気持ちで神経を張り巡らせ……。
 視野が急激に拓けた。
 ほぼ全ての角度が視界に含まれ、中心に据えた景色は拡大されて見える。
 赤い大地は、あの子のマグマが冷えて固まった物ではなく、正確にはあの子のアトミが抜けて、朽ちたものだ。よく見える目が、この世界の性質を教えてくれた。ふと、赤い石がなくなってしまったのも、ただ朽ちたから無くなったのであって、あの子が戻ってきた訳ではないかもしれない……と思った。
 それでも、僕はあの子を探さなければならない。
 自らの肉体も、精神も、あの子とそれ以外を見極める尺度へと変化していく。背骨を中心にして、関節が増え、幾何学と原論を軸にして翼を構築していく。近く、遠く、狭く、広く、僕は今の世界を知らなければならない。
 僕自身に意味や価値は無い。今の僕は物差しだ。僕という尺度にとって、触れる空気全てが判別対象となる。真なるものは身体に触れていて、僕はそれを丁寧に選り分けて探し出すだけなのだ。
 だからこそ! 僕は虚と無に溢れるわけではない。僕の胸の中には、いつか辿り着けるという確信があり、その核心によって、大きな喜びが渾々と湧き上がっている。

 僕は飛ぶ。
 あの子の声を聞く為に。
 あの子の姿を見る為に。

 ◆ ◆ ◆

 荒野地帯は案外狭く、周辺はクリームイエローとスカーレットの葉を付けた森だった。葉脈だけで成り立つ葉は陽の光を遮ることなく、それでいて木漏れ日を作り出していて、光のケープを森全体に被せていた。
 葉脈だけの葉だとしても吸い上げる養分と水分は極上の物らしく、幹や葉から息づかいが聞こえて来る。
 不思議な直感だった。木が人肌を持っていそうな気がして、僕は肌に手を触れる。ざらざらとした木の感触を期待していたけれど、それは大きな男の人みたいだった。広い背中にごつごつとした骨と肉。爪を立ててもちょっとやそっとじゃ破けることなく、爪痕も付けられないような。
 葉脈だけの葉は、ストイックさの現れだったのかもしれない。血潮が巡り、廻り、意識になって、呼吸になって飛び立っていく。欲望から解き放たれた境地にも見え、一片の不安もない最大の幸福を顕しているようにも思えた。
 光合成に必要な気孔はあるのかな。
 そう考えて、その知識はどこから来たのだろうかと考える。現実世界の常識こそが、此処では非常識的で、非短絡的であるというのに。
 正しい知識は自らを正解に導く標べとなるだろう。知は武器であり、自らの手足になると思っている。此処の常識は、望めば何だって叶う事だ。
 だからこそ『自分は何がしたいか』『自分は何になりたいか』『自分は何を望むのか』が明確でなければ、文字通り形を保つことすら難しい。霧散することが最善であるとアトミから願えば、此処なら叶うのだ。現実世界で、どんなに消えたいと願っても出来ないが、此処なら出来る。

 現実世界とは、何処のことだったっけ。

 二つの太陽は交互に炉となって、雨と風をもたらす。蝋の翼を生やすことはしない。けれど、太陽にあの子がいるなら──例えば太陽があの子自身になっていたとしたら尚更──僕は真っ直ぐに向かうだろう。
 熔かされないほど頑丈な、心と身体を共にして……。

 唐突に、僕の身体が割れた。表面は卵の殻より脆くひびだらけになり、背中から生えた八枚の翼は崩れ去った。熔かされた訳ではない。そして望んだ訳でもない。
 遥か遠いところで、全く聞いたことのない声、それから発音がチカチカ光る。あれだ、あれに壊されている。僕は直感でそう確信した。

 やめて、壊さないで、呼ばないで、探さないで。
 xxxxxxxは、知らないんだ。

 鼻が曲がる刺激臭。
 口から、引き摺り出された、アトミの塊、閃光。

 赤い、赤い石。

 ◆ ◆ ◆
 
 夢から醒めたように、意識を取り戻す。

 あたりは夕暮れ時。二つ、三つとビニール風船が立ち上っていったのを、ぼうっと見ていた。黄色と赤色と青色の、親しみやすい安っぽさが、心の中にあった窓を開けてしまった。
 風船を見送り終わる頃には、辺りが見えてくる程度に意識を覚醒させていた。街角の丁字路、ガードレール、誰も居ないのに気配のする一軒家、隙間なくそれらが並ぶ住宅街……。
 僕は何処で、何をして、此処に居る? 飛び石を渡る様にして思考を繋いで、嗚呼、僕は生きている、と思った。
 《エンボリッチ・フラクタ》に居て、こういった人工物に溢れた場所に来たのは初めてだった。無人の自動車がのんびりとした速度で走り、家屋に備え付けられた車庫に収まっていく。人は居ないのに、何処ともなく、楽しそうに過ごす声が聞こえてくる。
 全てのものから目と耳を塞ぎたくなった。僕にとって、これは地獄絵図だったからだ。
 かつて僕が当たり前に持っていたもの、今の僕にとってみれば喉から手が出るほど欲しいもの、未来の僕にしてみれば懐古に似た憧憬を示すものだ。胸の中をくしゃくしゃにされそうな痛みをどうにかしようと掻き毟る。硬い感触に気付いて、自らの胸部を見ると、大きな赤い石が埋まっていた。表出している部分はカットされていて、フィボナッチ数列によって磨かれたものだった。
 上半身に衣服を身に付けていないことに気付き、道路のミラーで僕の姿を見る。真っ黒な角が左右それぞれにねじれながら生えていて、光沢ある白い布を頭に被せていた。上半身は胸の宝石から放射状に黒い模様が広がっていて、下半身は霧となっていた。こういった住宅街で、悪魔と幽霊を足して割った様な姿というのは違和感が強く、僕は少し笑ってしまった。背中に翼でも生えたら空からこの街を眺められるのに。そうしたら、あの子を探しに行けるのに。
 あの子の顔を思い出そうとして、胸の宝石に触れる。僕だけではない、という確信じみた勇気を産み出していく。

 遠くで超音波を発する蝙蝠曰く、あの子は各地に散って青ざめたままで、新しい神に定義するべく広大な自意識に拐われてしまった、ということだった。
 僕は鼻を掠める夕食の香りが邪魔で、少しでも避けるために街頭に立って耳を澄ませた。胸の宝石には地図があって、僕はそれを辿ってあの子に会いに行けばいい。
 見ようとして見えないのなら知覚の範囲で最も遠いものを選択するべきだ。目を凝らすのと同じ感覚で、胸の宝石、奥深くへ注意を向ける。

 ──真夏の終わりが過ぎて、秋の夕景は気配を色濃くするから、歪になって、隠れ家が出来る。吸い込まれる事実に真実はない。揺らぎの中に真理があって、追いかけても、追いかけても、追いつけないなら、やはりそこにあるのは間違いがない──

 僕は、あの子のためなら何にでもなろうと誓う。あの子が神様になろうとしているなら、行く道を阻む熊や山羊でもいい。側に居られるのなら、恋人でなくてもいいのだ。
 僕があの子に対して持つ愛が一方的なものだとしても、しかしあの子もまた僕に愛を向けてくれているのは確かなことである。対極に位置するからこその愛があるのならば、この見た目は確かに、僕が欲したものなのだろう。
 星の煌きが、いつか見た水面下に咲く花の色と同じであると気付いた。夜空だと思っていたが、此処は水中で光が届いていないだけで、夕暮れに見えていた橙色した太陽の中心には、黒曜の反射を濃縮したものだったのだ。ならば、この街並みは、僕が焦がれた景色を反映したに過ぎない。
 野菜を煮込んだ柔らかく優しい匂いは、きっと影だけの子供たちと秋風が食べてしまうから、手を伸ばすのをやめた。

 神は居ない。でもあの子という神様は居る。確かなことはそれだけだ。
 そもそも、神などという存在が居ては、《エンボリッチ・フラクタ》の原則が打ち破られてしまう。それは此処ではない世界でも共通することで、しかしそれでもアトミが神の所業だとするならば──説明のつかないものを説明づけようと努力するなら──、神という存在にも意味があるのだろう。
 あの子は神様だ。僕は説明ができない美しさを持ち、何を表出させたとしても、その美しさからあの子だと分かってしまう。
 神秘を讃え、美を讃え、救いを讃え、一つ残らず讃えたとして! あの子を成り立たせるアトミには僕の賛美は届かない所にある。
 神様の中のアトミを作り出したものがいるのならば、それは確かに、神と呼ぶにふさわしい。それでも真実は無意味なのだ。僕とって、及ばぬ領域の存在であることだけが確かなことだ。

 だから、こうして、引き合うのも。

 上空目指して飛び立って、その実、水面を目指して魚より早く泳ぎ去って、眩い星々と見紛う鮮やかな花々を通り過ぎて、手を伸ばして、伸ばして、全身を変容させていく。
 視界に入る髪は長く、青くなっていく。胸の宝石は僕の核として胸の中に沈み、鼓動と共に全身に回った。霧と化した下半身は三本脚になった後、癒着しあって外側を三角形の鱗で覆う。
 水神なんて実はちっぽけだ。あの子からしたら、海も、湖も、沼も大差ないのだろう。僕からしてみれば……こうして底から這い上がる身にしてみれば、丘と山の違いを明確には区別出来ないのだから。
 水面上まで跳ね上がる。まとまった脚では、陸を進むのは面倒になるが、全く問題にはならなかった。僕が自ら進むのではなくて、今いた水を柱の形にして、あの子がいるところまで上がれば良い。
 緩やかに熟して死へ向かう月の光。それを飲みながら流れる水面は、うねりと渦を作って、勢いを持って天を目指していく。星と花は細かく砕かれ、雲母や硝子へと姿を変えていった。水流は高音を奏でながら上昇し、螺旋を描く。
 三つに分かれた月は、それぞれ仄かに三原色の靄を纏っていて、それを見た僕は不意に、天弓、と僕は呟いた。
 突き抜けるイエロー。照らし出すレッド。包み込むブルー。僕がどんな姿になっても求めたものだ。それを目の前にした僕は、自ずと手を組んで祈りを捧げたくなるような神秘さに、涙をこぼした。
 何十回も、何百回も、何千回もその子を呼んだ。確かな存在感を頼りに、水の柱は伸びに伸びて、とうとう小枝程度の太さになって、僕を押し上げる。遂には蜘蛛の糸ほどになるかと思うところで、手が届いた。
「────……!」
 僕が発音しようとした言葉は、掠れた喉に引っかかって、外へ羽ばたくことはなかったが、その子の耳には届いたらしかった。
 拒むようにして広がっていた金色の雲が晴れ、煉瓦に様変わりする。荘厳な雰囲気は、石造りの門の奥から発せられていた。一定の感覚で浮かぶ島石。どれも綿帽子に似た植物を載せているのが見えた。
 そこを潜れば、様々な石で作られた庭園が広がる。花を模したカーネリアン、ツタのようなペリドット、焚き火を携えたオパール、小さな庭を抱えたクォーツ……。花崗岩の塀がどこからともなく照らす光を反射して小さな煌めきを纏っていた。
 静かに進んでいくと、一段と荘厳な雰囲気を持つ空間に辿り着いた。玉座と思しきものが随分と離れたところにあった。それでも、神そのものがまるで眼前十センチにあるかのような、……圧迫感はないけれど、圧倒的なその存在に釘付けとなる。
 僕は、その子の姿を見て身震いした。畏怖とは足の裏から駆け巡り、背中を伝って首の後ろから抜けていくのだと思い知った。
「来たよ。……僕だよ」
 絞り出した声は、宙ぶらりんになって途中で落ちてしまった。明確な約束をしたわけでは無い。それでも、ずいぶん長い間、待たせてしまったような気がする。
 人の形から遠く離れた姿だったが、間違いなくあの子である。糊付けされてしまった様に動かせなくなった足の裏を剥がして、歩みを進める。踏みしめると、星屑が舞った。
 その子の姿は、一言では表せない様相だった。僕よりも何十倍も大きい。頭と顔はあるが、四肢はない。その代わりに、複数の手足と翼が、まるで車輪のように、円を描いている。それは駆動する様に、その子の顔周辺に沿ってゆっくりと回っており、その外側にも、さらに外側にも……幾重にも広がる大輪の花のごとく、手足と翼の輪で埋まっていた。
 その子の目は閉ざされ、口元は羽根で覆われて見えない。周辺には一つ目の鳥が何十羽と飛び交っており、何となく、この子の目の代わりをしているのだろうかと考えた。長い長い髪はロープのように編まれて、下界へと垂れ下がっていた。周辺に漏れる光が濃くて、正確な輪郭……この子の境目がどこなのかも掴めなかった。

 その子の姿を見て、僕は「ああ、」と呟いた。
 額にはべっこりと凹んだ部分。完全でありながら不完全な狂気を感じてしまうのは、そこに本来あるべきものが無いからだ。
 僕は《エンボリッチ・フラクタ》に来て初めて、誰かの為に別の姿になろうと願った。膝をついて手のひらを胸の前で組む姿勢で集中する。隅々まで行き渡っているアトミを手のひらに掻き集め始めた。今の僕には、この子の心臓だったものが──全身に脈打って駆け回ってるのだ。
 動き、巡り、辿り、捧げる祈り……
 留まり、止まり、皮膚の帳(とばり)を捲り……
 手の中に出現したのは前に見た時よりもずっと深い色をした石だった。つるりとして艶のある石の表面は、一見、洞窟の奥深くに横たわる漆黒に見えるが、この子の光に当てられると輪郭が透けて、高貴な気配を感じさせる。溟がりに灯る炎でもあったし、膨張した世を終わらせる結晶でもあると思えた。
 此処は不規則で、不安定で、でも理不尽さは無い。だから、何が起きても受け入れられる。
「僕は君に、……」
 君が君らしくあるために。僕が僕であるために。
 僕ひとりのアトミでは、きっとここまでやってくる事は出来なかった。この子を探すために、この子のアトミを借りて……それが物質としてなのか、非物質としてなのかは、大した問題ではないのかもしれない。
 とにかく僕は、返すことにした。額の凹んだ部分に、この子だった結晶を嵌め込む。

 コン、とも、トン、とも言えない音は、玉座の間に響いて、大きな変化をもたらした。
 額にぴったりと嵌った石。それはもう一つの大きな瞳となって、縦向きに目が開く。同時に、飛び交っていた一つ目の鳥たちも、一斉に僕を見た。
 彼らの瞳は一つとして同じ色をしているものは無く、僕はまた、いつか見た星空や水中花を思い出す。この子に関わる色は、常に鮮やかに彩られていて、常に透き通っている。
「来たよ。僕だよ」
 下から吹き上げる風が、複雑に絡む花の匂いを運んできた。羽根で隠された口元が露わになる。薄く色付く唇は、わずかに微笑む形をしていた。縦向きの目が、ピントを合わせるためか何度か瞬きをし、やや間があってから、左右の瞳が静かに開かれていく。
 神になろうとしたこの子が、ちっぽけな僕の存在を個として認識できるのだろうか。ふと、そんな不安を覚えた。その子の瞳に、僕の姿が映る。いつの間にか、水神を模した様な姿ではなくなっており、一角獣よりも短くて太い角が額から生えていた。ともすれば鬼にも見える角。足は鉤爪、手には三本の指と、鳩に似た白い羽毛。頭の上には、踏み締めたときに出来た星屑が、輪を描いて浮いていた。
 この子に見せたこともない姿だったが、それは問題ではない。僕というアトミと世界を作るアトミの見分けが付くかどうかが心配だった。
 その子はしばらく僕の姿を凝視し、やがて、再び瞳を閉ざした。駄目かもしれない、と思うと胸が締めつけられそうになる。だが、結果から言ってしまえば、そんな事は杞憂だった。
 その子は手足と翼の輪を畳み、一つ目の鳥を全て呼び寄せて彼らと一つになり、光をさらに濃くしていった。あまりの眩さに僕は目を開けていられず、自らの羽を額に翳す。光と影の関係のように、今まさに、僕はこの子と対峙していると実感する。
 大いなる光の変化は、日出と日没を何倍速にもした様子を目の当たりにしているのと同義だった。翳した羽根に透けて見える姿は、徐々に人の大きさと形に近づいていく。長い髪、華奢な身体付きをしていることは、影だけでも分かった。そしてその身体のライン、髪の質感から、──僕等はいつだって同じ姿をしてきたことがないというのに──懐かしさが胸からこみ上げて、その子の存在が肌に迫ってくるように感じ取った。
「私も、来たよ」
 光の収束と共に、その子の声が響く。残響がうっすらと玉座の間にも広がっていって、僕の胸に仕舞い込まれていった。
 その子は、僕と瓜二つの姿をしていた。およそ女性的な部分が取り除かれていたが、それでも、僕とは全く違う。同時に、僕と共通する普遍と不変を持っていることには以前と変わっていなかった。
「なんだか、こういう姿が久しぶりで……。君の姿を見て、作ったの」
 少し照れた素振りが、か細い声が、目の動かしかたが、頬に乗せる笑みと表情が、その子たらしめる要素となっていく……。この子が身動ぎするたび、この子は目の前にいるのだと、そう根拠づけていく不思議な感覚が、湧き上がってきた。
 やはり、僕は待たせていたのだ。この子はこの子で、僕の姿を探していてくれたのだ。だから、人の形からどんどん遠ざかってしまったのだ。自分の境目が
薄い膜になるまで広げて、全てを知覚するために特化した姿を望んだのだ……。
 そう確信し、一も二もなくその子の手を取る。同じ本数の指と爪、真っ白は羽毛、先が少し丸い額の角……。
 オリーブグリーンのカーテンが、石造りの窓に垂れ下がった。同じ色の薄布が上からふわりと降ってきて、僕等を丁寧に覆う。
 広大だった世界が、僕とこの子が密着した空間まで縮んでいく。どちらともなく、唇に触れ合って、二人だけのものと二人それぞれのものを確かめ合う。
「同じ喉笛」「違う息」
「同じ心臓」「違う鼓動」
「同じ眼球」「違う瞳」
「同じ両翼」「違う羽根」……
 一つずつ吟味して、口付けて、最も単純な方法で、自分と相手を見出していく。擦れ合う薄い布は、僕等以外を柔らかく断絶して、僕等は溺れていく。二人それぞれの端々の違いから、いかに姿が似ようとも、その厳然と言ってもいいくらいの差異と、それらが同居するこの空間に対し、これから僕等こそが世界になっていくとも思えた。
「同じ空気を、吸っているはずなのにね」
 そう言ったその子の瞳は、空と宇宙の狭間の色をしていた。