PHASE 4

 固まってしまった僕の身体は、代わりに熱を溜めて、耐えきれず大粒の涙を流した。この世界では、少女の涙というものが大人の男性を狼狽させる一品であるらしかった。大袈裟に宥められ、香りの良い薬草茶を出される。温かいお茶は、どんな味でも、どんな世界のものでも、気持ちを落ち着かせてくれるのだとしった。赤みがかったランプの光もあってか、身体の中から温る。
「……僕ァ、とあるところの教授兼研究家なのさ。だからね、君の言うことは信じてやる。世界なんてのは、揺らぎの中であやふやに傾くどうしようもないものだからね」
 僕が冷静さを取り戻りしたことと、敵意がないことを理解してくれた。その上、この世界の話をしてやる、と言ってプロフェッサーはたくさんの話を聞かせてくれた。
 この世界の成り立ち──錬素術が基礎となり発展し、やがて錬素そのものは衰退したという歴史──から始まって、思想と宗教についての関わり合い──とりわけ、万能の存在証明と神能の言語化を目的とした論証と実践、及びそれらを人智の内外に位置するかを討論しあう間柄であった──だとか、種族間の文化差と争いの過程──血腥い戦いと犠牲の数々やそれに反して繁栄と発展を遂げた星の数ほどある芸術──を押踏まえた上で、現在今に至る生活──技術の発展につられて、人々はあまり生産分野において力を割くことが無く、研究や芸術に没頭している様子らしい──などをずいぶんと噛み砕いて説明してもらった。
「僕にとっちゃ、生きてる世界は此処だけだからねぇ。他の世界がどんなもんかは知らないが、大体こんなもんじゃぁないのか」
 全く同意出来なかった。
 あの子と居た世界では争いは一つもなかった。二人だけの思想と宗教(というほど体系だったものでもないけれど)に対立はなく、僕等は常に僕等の大本となるもの……何と呼称していたか、うろ覚えになってしまっているが、それをほんの少しだけ制御出来た。錬素術というものと、通ずる部分があるかもしれない。
 だが、僕の記憶に近しいところ──即ち知識として刻まれているものがある。その世界では、錬金術と呼ばれる似た学問と技術があったし、科学の発展と共に変化していった。この世界にも科学と同義の分野があるのだろう。
「それで? 君はどうするんだい。この世界について、何か調べていくのか?」
「もちろん、そのつもりです。この世界があの子に繋がっているかもしれない。繋がるための世界の足がかりになるかもしれない……そう思うからです」
 プロフェッサーは、長い髪を手櫛で梳かして、何やら難しそうな険しい顔をした。眉間のしわが縦に深く刻まれて、溝になりそうだった。
「×××××××、といったな」
「はい。恐らくそれが、僕の名前です。意味として認識出来ませんが、音として記憶しています」
「単なる偶然とも思えないから、この世界での意味を教えてやる」
 彼はまたパイプをくわえて、深く長く吸う。頭痛に悩むご婦人みたいに凝りをほぐすために首を何度か
「かつて、この世界ではありとあらゆるものが巡る、という思想があった。広く支持されて、宗教としても一致しており、各国各地で宗教都市が栄えた。
 ……教えに連なる中に、始まりと終わりを告げる存在がいるのだという筋道を見出し、皆それを信じている」
 その者は皆と同じ姿を象るだろう。あるいは今いる者の姿を借りるだろう。その者は環の外から来たりて、環の外へと旅立つ。その者がもたらすのは破滅の風。それから新たな種。
 簡単な言葉だけで聖典には記されており、老若男女問わず暗記している一説なのだ。
 そこまで言って、プロフェッサーは頭を抱える。僕という存在を受け入れ、理解し、納得するのに、とても負荷が掛かっているように見えた。額に汗が滲んでいるし、吐く息の音が目立つ。
「この世界は、繰り返す。生まれ変わるのではなく、繰り返すと考えられているのだ。そしてそれを忘れず、受け入れることこそが、×××××××というのだ」
 プロフェッサーは、余計な説明をなるべく削ぎ落として、そう教えてくれた。
 つまり…………
「それそのものが、僕?」
「僕ァ、断言は断言できない。だが、そういう分野を研究している身としては、驚くべき事態だ」
 僕は全くそうである──少なくともこの世界では──、としてしまえば辻褄が合う。そんな状況が降って湧いても、僕は受け入れられなかった。そして、プロフェッサーも。
 ×××××××は、いくつもある愛の形であり、名称であり、警鐘であった。神を超えるような人間が至る境地を愛し、生きていく姿勢を指すものでもあった。
 しかしその音からは諦念を感じる。神の存在を信じたい人間にとって耐えがたい冒涜であるし、積み上がった歴史や進化を否定しかねない。しかしこの世界では、それが当たり前に横たわっているのだという。
「君の渡ってきた世界を、もう少し聞かせてくれないか」
「あの子の居ない世界も含めて、ということですか」
「君がこの世界について知ることが、真理に近づけるのと同じさ。ここ以外の世界について知ることで、この世界の真理が紐解けるかもしれないんだ」
 僕はお茶のおかわりと、膝掛けをねだった。それから、この世界での僕は令嬢らしいので、それに似合う甘いお菓子も。

 ◆ ◆ ◆

 あっという間に夜が深くなった。今の僕の家族に、何かしら連絡しなくて良いのだろうかと疑問が過ったが、どうやら令嬢である僕は、調べごとのために二日外出する予定を組んでいたらしい。僕は心ゆくまで、プロフェッサーと話し込むと決めた。

 プロフェッサーと話しているうち、少し気になり出したことがある。
 僕がいる世界にも、この世界のあの子が居るかもしれない。けれど、僕があらゆる世界に渡っている時、僕は一人の人間としか対峙していない。あの子と、看護士と、プロフェッサー。仮に僕自身に何かの制約があって、世界につき一人の人物にしか会えないのであれば、……今会っている人物があの子であるか、その世界では永劫会えないか、である。
 あの子と居た世界は、僕等だけの楽園だったから当然、あの子はあの子自身だったので、除外しても良いかもしれない。けれど、あの看護士やプロフェッサーがあの子であるとは到底思えなかった。顔も仕草も全く違う。更に言えば魂が違う。
 ついでに言うなら、世界それぞれの大きな違いにも気付いた。あの子と居た世界は、プロフェッサーの世界や看護士の世界にあった、多勢の為の仕組みは組み込まれていなかった。
 多勢の為の仕組み……即ち、それは経済や産業の構造だった。経済や産業こそが人間の発展を創り出したとだと言わんばかりで、僕自身は好きではない。しかし神はどこにでも宿るため、数字と金銭に見えざる力を感じる場合もあるというのは、僕を少しだけ上機嫌にさせた。
 僕等があの世界ではなく、今いる世界で会うことができたなら……僕は少女の見た目であるが、楽しく過ごせるのではないかと想像して、ひっそりと笑う。
 プロフェッサーは僕の話を聞いて取ったメモを、辺りに書き散らしていた。クッキーと薬草茶、珈琲(正確にはきっと、これもこの世界独自のものなのだろう)が聖域のように机上に鎮座する。彼は疲労の溜まった目と眉間を指でほぐして、また書いてを繰り返す。
「そういえば、君、今の顔は見たのか」
「はい、鏡がありましたので。ああ、僕の顔だ、と思いました」
 僕の姿はどの世界に行っても僕であると分かる。年齢や性別が変わることがあっても、大きく外れることはない。だから、恐らく、あの子も同じ姿をしていると思っている。
「××××××という言葉は、いつから記憶してるんだ?」
「さぁ……それだけは……はっきりしなくて」
 思えば。
 僕はあの子にも、尋ねられた事がある……。同時に疑問として沸いたのは、あの子と居た世界でも、どこのものか分からない知識を持ってして、動き回っていた。知識だけの世界。実感なく知るだけの世界──。
「あの、僕が居た覚えのない世界の話をしても良いですか」
「良いとも、何でも聞かせたまえ。時間が惜しい」
 では、と僕は切り出す。
 今いる世界に少し似ていることから始めた。錬金術の話。そこから発展した科学の話。神話の話。宇宙の話。生活の話。宗教の話。僕が生まれ育った国の話……。もちろん、どれにも実感はなく、そう記憶しているものだ。どうにも、知識だけの世界については、説明材料に欠けた言い方になってしまう。大枠の話と詳細な話だけで、それを形作る中間の枠について説明出来なかったのだ。
「もう一度、その錬金術の話を聞かせてくれ。なぜ、それは廃れた?」
「ええと、……金や銀以外の金属から、貴金属を作ろうとする試みでした。そこから発展して、魂や肉体の完全な錬成を目指したことや、完璧な永久機関を生み出そうとしました。どれも失敗したので、今では学問としては存続していません。しかし、科学や化学というものに引き継がれています」
 何となくの常識として得ている範囲の知識でしかなく、僕は度々しどろもどろになった。他の世界については隅々まで説明できたというのに。
 プロフェッサーの質問に答え、更にそこから派生する話題について広げ、ある程度経った頃に、プロフェッサーは急に立ち上がって頭を掻き毟った。何かの答えを掴んだらしかった。艶やかな髪は乱れ、飄々とした雰囲気は消え失せていた。
「確かに、君は破滅の風だ」
 ああそういうことか、分かってしまった、何ということだ……というフレーズを何度か繰り返す。プロフェッサーは手付かずのままだった珈琲を煽り、前髪をかきあげる。しばらく一人がけのソファー周辺を歩き回り、深呼吸してから、再度着席した。
「きっと、僕の居るこの世界ってヤツは、停止しているか滅びるか……そんな運命を辿るのだろう。誰かがそれに気付いて、時が来たら初めからやり直すようにページを元に戻すのかもしれん」
 僕には理解出来なかった。僕が経験していない知識だけの世界について話したにすぎず、信憑性などまるでないのだ。 
「あの、なぜですか。僕が居た覚えのない、知識しかない世界のことなのに」
「だからこそ、信じられるということさ。君にとって、思い人と居た世界についてはまるでその世界の神々しか知り得ない部分まで理解しているのに対し、知識だけの世界と呼ぶ所については、まるでそこに生きる市民のようだからだ。
 大方、この世界は君のいう知識だけの世界から分岐し、微細な差異の発展をした結果……とすると、まぁ、腑落ちる部分もあるってことだ」
「僕が、市民……」
「なんだい、不服か」
 からかうようなプロフェッサーに、悲壮さは無かった。納得はいかないが、真理に触れられたことに満足しているのかもしれない。

 知識だけの世界について、忘れかけていた景色がある。夕暮れ時、夕食の匂いが漂う、夕焼けに染まる街。僕が欲していたかもしれないもの……。
 僕は、床に散らばった複数の本を見つめる。どれもこれも、誰かの思想が
繁栄されていて、パッケージングされた世界そのものだ。

 世界。
 床に散らばって──決して整頓されておらず、飛び石のように、同時多発的に存在する──、虚に開く世界…………
「わたくし、は」
 口からこぼれた単語に、僕もプロフェッサーも顔を上げる。
「やだ、変ですね。僕ったら、わたくしなどと……。いえ、わたくしは、僕の話をしていたはずで……」
 言葉がちぐはぐになって混乱する。プロフェッサーは目を見開いて僕の様子を見ていたが、何かを悟り、察した様子で、傅いて僕と目を合わせた。
「実に有意義な時間だった。機会があるなら、また来ると良い。長い時間、
話通しだったから疲れたろう。少し眠ったら良い」
 木の枠がはまった窓は、今は扉が閉められているけれど、隙間から日の光が差している。確かに僕は、朝方まで話をして、すっかり疲れ果てていた。太陽が規則的に登るのはやはり、ここの世界でも同じだった。
「ありがとう、……。わたくしも、理解しました」
「ああ、お休み」

 君が思い人と再び歩める日が、来らんことを。


 ◆ ◆ ◆

 真っ白な壁に、仕切られているカーテン。天井四十センチの隙間を眺めて、僕は起き上がる。
 長い間眠っていた……いや、途絶えていたのだろう。渡ってきた世界を一つずつ指を折って数える。一般病棟の四人部屋。人の気配が薄いのは、深夜三時の夜中だからかもしれない。
 ヘッドライトを点けると、僕の読み散らかした本と、書き散らかしたノートが散らばっていた。僕が食べた文字と吐いた文字が虚に開いて、隙間から這い出てきそうだ。
 僕が行くべき場所は、分かっていた。知識だけの世界では会ったこともない。それでも、十分なリアルが体の中に漲っているし、あの子の存在を強烈に感じる。胸の中のコンパスが、僕という小舟をぐいぐいと引っ張っていく感覚だった。
 三階の病室を抜け出して、二階に降りて渡り廊下を滑るようにして進む。水面をゲル状に固めた情景。僕は覚えている。
 看護士には会わなかったし、患者の呻き声もしない。やはり僕は一つの世界につき一人にしか会えないのだ、と思いながら少し笑う。本当は、その他大勢に気を払えないくらい、あの子のことしか目に入らないだけなのだ。
 渡り廊下で別棟に到着したあと、三階に上がる。此処は個室ばかりが並ぶところ。その中でも、今は、あの子しかいない。

 僅かに開いた引扉の隙間は、青白い光がもれている。規則的な電子音が月明かりと共に、僕を導いている。迷うことなく歩み進んで、すり抜けるようにして病室へ 足を踏み入れた。
 
 部屋の中には八畳ほどの病室。置かれたベッドはひとつだけ。寒々しい空気の中、そこだけが、春の彩と秋の実りを感じさせる温かが見えた。
 管に繋がれていたのは、あの子だった。でも、《エンボリッチ・フラクタ》に居たあの子だけではない。
 僕の気配を感じてか、その子はゆっくりと目を開いた。髪は金色ではないし、目もルビーではない。それでも、あの子であるとはっきり感じられた。
「会いにきたよ」
 手を握って、ずっと伝えたかった言葉を捧げたかったのに、なんの変哲もない第一声になってしまった。
「春になる前で、よかった」
 そう言って、その子はいつもと同じように、柔らかく微笑んだ。

 ありきたりな答え。
 あの子はもともと、僕の心の中にいた。だから、いつでも会うことができたんだ。あの子の名前は付けていない。付けなかったのだ。初めから僕の中にいたから、自己紹介なんてものはしなかった。
 あの子が動けるのは僕の夢の中だけではなく、僕が書いた本の中に移っていった。
 そしてあの子を好きな女の子が、君だった。面会室にわざと置いて行った、僕の書きかけのノート。それを読んでくれたのは、君だったんだ。

 僕は君のことを知っていた。いつしか、君のことを思いながら書いていた。それでも君の名前は知らないままだった。
 あの子と君は一つになって、君はあの子になっていった。
 なのに、僕が夢の中ばかり探すから、君は僕を追いかけて……。
 君は、僕に会うために、色んな薬を無理やりに飲んで、飲んで、飲み干して……

 理屈は分からない。理論なんてない。論理性だけで組み上げた世界が、結局回帰に行きついて、行き詰まったのだ。理論を飛び越える神秘、それから組織と利益に属さない愛が、世界を広げる一手ならば……僕と君が、こうして、幾多の世界を巡って、再び此処で出会えた。それだけで、僕の世界は完成したと言っても良いくらいだ。
「まだ、分からない?」
「……ううん。分かるよ」
 僕の名前ではない。あれは、神様だった僕等の証明なのだ。
「楽園は、此処にあるのだから」
 二人だけの楽園に。二人ぼっちの楽園に。