phase 3

 口笛、鼻歌。それからスナップ、クラップ、ステップ。
 僕は目的を見失いそうになるたび、歌を歌い、踊りを踊ることにしていた。あの子の居た世界を思い返しては、情景を思い浮かべる。何の規則性も持たない、言語的な意味もない歌だ。側から見れば、心が暇で仕方ない、頭のおかしい人間の戯れに見えるだろう。
「スース、オード・ルード、ソテ……。クハキ二、キハボニー、……」
 あれも、これも、覚えている。剥がれ落ちそうになるものを縫いとめて、主体的な寂しさを真理と捉えていた。
 アルミサッシに埃が溜まっていて、外の景色と汚れを交互に眺める。病棟の敷地外は道路と林しかなく、一日に数回、車やオートバイが通りかかるのみだった。人が乗っていたし、だが気配は薄かった。うっすらとした真実味しか感じられない。
 この世界にはあの子だけでなく、その他の人も居る。その時点で、僕が求めている世界ではない。シンプルな裏付けである。自分にとっての真理であるような真理。あの子以外の誰が何と言って否定しようとも、僕にとってのリアルだった。
「×××××××さん、検診です」
 歳若い看護士が、僕に声をかけた。振り返ると生真面目そうな瞳があった。どうにも僕は、この世界を上手く認識できていないらしい。その看護士の顔は、卵形の顔に目が二つあるだけで、鼻や口が無い。そこに黒のボブショートが被せてある。だが異形という訳ではないと理解していた。看護士から声も聞くし呼吸のそよ風も感じる。単純に、僕の目に映らないだけなのだろう。
「具合は良さそうですね」
「ええ、おかげさまで」
 僕はこの世界……、取り分けこの看護士にとってまともに見えるように振る舞っていた。彼か彼女か定かでは無い。仕草から性別を割り出すことが出来ないのだ。髪を耳にかける仕草もしないし、大股歩きする事もない。看護士とのやり取りは決まっている。挨拶に始まって、検温、問診、幾つかの質問。時に、簡単な計算問題が混ざる時もあった。
「良い結果です。今までにないくらい好調ですね」
「そう仰って頂けると、不安が和らぎます」
 努めて柔らかな笑みを浮かべると、堅さのある看護士の目が、ほんの少し弧を描いた。
「退院ももうすぐでしょう。何かしたいことはありますか」
 退院したら。この世界の僕は、一体どこに帰るのだろう。そもそもこの世界の僕は、どこに住んでいたのだろう。留まることができる場所もなければ拠点もない。島もなければ木々もない。ならば、流れ去るように生きていても良いかもしれない。
「旅をしたいです」
 看護士はほんの少し目を見開いて、「結構なことです」と言った。単に僕は、あの子が居なければ、無意味な世界に居続ける理由がないだけなのだというのに。
「良い傾向です。世界の広さを知ることは、己の広さを知る事と同義ですから」
「ええ、そう思います」
 僕の素直な返事に気を良くしたのか、看護士は珍しくニコリと笑いかけて「また夜に来ます」と言って立ち去った。
 僕は再び外に視線をやり、歌を紡いだ。

 日が高く昇り、やがて沈む。夕焼け、黄昏、薄明と移り変わり、空が紫を経て紺に染まるのを、ずっとずっと眺めていた。この世界は規則正しく夜が来る。当然に知っていることだけれど、忘れていた。
 それから寒暖差も。この世界では日が昇るとぽかぽかとするのに、日が沈むと冷えていく。どんな幼子でも知っていることだろう。それでも、僕は体感するまで忘れていた。
 外から見える景色は、あの子と居た世界に少し似ている。林の木々は茜色に染まり、水に濡れた道路は金色に輝いた。あの時は遥か地底か高層か……根が見えない木に掴まって過ごした、美しい黄金の時。
 この世界は騒がしい。暗闇で見えなくなった後も、木々の葉が擦れ合う音や正体不明の動物や虫の鳴き声が耳に入ってくる。考えてみれば、僕等が居た世界には、そもそも生物がいなかった。蝶が羽音を立てるだけで、何かがけたたましい声を上げるなんて、一切と言って良いほど無かったはずだ。
「×××××××さん、検診です」
「よろしくお願いします」
 一瞬に感じられる程、時間が経つのが早い。繰り返される毎日に変化はあまりなく、姿も一定であるので飽きが来ているのだが、時の流れとは関連がない。退屈を感じていようが、溶けるように時間が経っていく。外の変化を目で追うと忙しいからだ。退屈ではあるが、暇ではない。
「外を眺めていたのですか」
「ええ。なんだか、日々の変化が愛おしく感じるのです」
 あの子と居た頃に全てを紐付けて、心に刻み付けるように眺め、音にして、耳で聴く。その為の工程であり、変化そのものに愛情や愛着があるわけではない。しかし看護士好みの回答のはずだ。案の定、看護士は満足気に何回か頷いた。
「素晴らしいことです。毎日の中で愛を感じることは、活力になります」
 広めのアイホールを持つ目が、ゆっくりとした瞬きをする。多分、肯定を示す仕草なのだろう。僕はその言葉を噛み締めていた。あの子を思う日々が活力になっていることは全くの真理だからだ。
「明日は外に出て、散歩をしましょう。退院に向けての準備運動のようなものです」
 今いる世界を知っておくことで、あの子といた世界に……あるいは、この世界のあの子に会えるかもしれない。僕は「楽しみです」と言って、静かに微笑むに留めた。

 ◆ ◆ ◆

 どうにも認識が上手く出来ていないと、思い知ることとなった。
 まず、今の季節が分からない。四季の概念は知っているはずだったのに、打ち砕かれてしまった。春には桜が咲き、淡い色した花びらが舞う季節だ。夏は青く透明な空が広がったかと思うと大雨が降ったりする。秋は甘く熟れる木々が紅葉色に染まって山が燃える。冬は骨まで染みるくらいに冷える空気が、真っ白な景色をもらたしてくれる…………
「いい時期です。ちょうど山見の季節ですから。綺麗ですね」
「ええ、とても」
 僕の知っている山見とは意味が違うみたいだった。だが、おそらく木々を見るのに良い季節……紅葉狩りと同じ意味合いな気がした。
 目の前に見えるのは、シダに似た植物だった。けれど僕の記憶にあるものよりも数倍大きいし、表面は星を散りばめたように──銀の粉がまぶしてあるみたいだった。紺青の葉が太陽の光を受けてのびのびとしている。湿気による水滴は、乳白色や珊瑚色を載せて葉の周辺を転がっていき、その跡から別の小さな葉が芽吹く。小さな芽は、いつか見た燻んだ金色をしていた。
 僕が驚いたのは、葉が明確に呼吸していることだった。風もないのにほんの少し上下に動いている。僕は驚愕を表に出さないよう、表情を微笑みに固定したままで、注意深く観察した。
 遠目から見たときは、僕が知っている林とあまり違いはなかったはずだった。深緑の景色があって、夕日に照らされた時は花緑青に輝いていた。目の前の植物だけではない。背の高い針葉樹は全体的に青錆色をしていて、少し離れた広葉樹は消炭色だ。どれもこれも、細かな光の粒を纏っている…………
「そういえば、子供の時にこうして遊びませんでしたか」
 看護士はそう言って、シダに似た葉を指で弾いた。そうするとパンッと音を立てて、輝く粒が四方八方へ飛び散っていった。太陽の光を受けて、虹色に眩しく光った。
 葉の裏に、小さな光の粒がびっしりと貼りついている。水滴かと思いきや、それは無色透明の小石みたいな種子だった。
「街中でも見かけたら必ずやっていました。母には悪戯するなと怒られたものです」
 看護士は懐かしむ声音で少し笑った。辺りに散らばった種子を拾う。手のひらの上で踊る小指の先ほどもない塊が、朝露みたくころころ、ころころと…………
「祖母に教えてもらった御伽話が好きでした。この種は、この世のものではない悪を取り払う力があって、これで首飾りを作ると幸せになれるという……」
 息苦しさを感じて近くにあった木の幹にもたれる。自分の知識や常識がことごとく覆っていく。日出と日没があり、東から西への移動を繰り返すことしか、最早通用するものは無いのかもしれない。
「久しぶりの外で、少し疲れてしまったみたいです。戻っても?」
 生気が抜けていきそうな心地がする。足元の地面が底なし沼になってしまう。
「正直な申告は大変正しいことです。戻りましょう」
 ばらばらと、看護士の手のひらから種が落ちて足下で弾む。反射的に、半歩下がった。この世のものではない存在を……この世のもののフリをしている僕を、脅かすかもしれない。まるで銀の弾丸を恐れる闇の住人になった気分だ。
「どうされました」
「ああ、いえ。動くものが見えた気がしたのですが、勘違いだったようです」
 看護士は、らしくもなく「ふふっ」と笑った。
「この木々の集合地で、私達以外に動くものがあったら確かに驚きます。そんなものがいたら、それこそこの世のものではないでしょう」
 僕は乾いた笑いを漏らした。看護士から出てくる言葉の端々から、僕が想像していた世界では無いことを裏付けていく。そしてそれは、僕自身が確認してしまったことで、確固たるものへと変化してしまった。
 林ならば動物や虫が住んでいるだろうと思っていた。病室にいた時、動物や虫らしき鳴き声を聞いていた。しかしそれが、動くものから発せられるものでないのであれば……。十中八九、この植物たちから音が発せられていることになる。もしかしたら、自分が思っている動物……毛を生やした四つ足のものなどが、静止したまま暮らしている可能性があるかもしれない。
 だからといって、汗は止まらない。自分が思っている世界とはかけ離れた所にいることだけは、事実として手元に残ってしまった。
 遠くで鳥の声が響く。しかしそれは鳥の声ではないのだろう。
 では、どれから。
「×××××××さん、帰りましょう。焦ることはありません。また数日後に、散歩しましょう」
「ええ、ええ。楽しみが、増えました」
 僕は脂汗をかきながら、看護士のほうを向いて笑った。看護士のボブショートの黒髪が、目にかかってさらりと動く。
 僕は、あることに気付く。
 この看護士の顔。僕が認識できていないだけで、鼻も口もあると思っていた。だが、そうではないのなら。本当に目しか付いていないのだとしたら──。
 突如として、眼前の存在に恐怖と脅威を感じた。堪らず叫ぶ。尻餅を付いて、後ずさった。惨めにも追い詰められた獣が、皮膚の下を走り回る。
「大丈夫です。ここにはあなたの敵は居ません。安心してください」
 看護士の言語は理解出来ても、それを上回る恐怖が身体を支配した。
 ×××××××さん、×××××××さん、と呼び掛けられていくうち、視界がぼやけて歪んでいく。あの子がいた世界での途絶え方とは何もかもが違った。強い重力に引っ張られるような感覚がして、僕は地面にひっくり返った。
 泥の臭い。自分の言葉が身体から解離して、代わりにもっと、物質的なものを押し込められていく。今まで僕が考えていたことは精神的なものではなく、単に姿に左右されただけの……物体的かつ即物的なだけの、唯々実物の感触に右往左往して、今この場に転がっているのではないだろうかと疑問が湧いた。
 こうして疑問を持っている僕が居ることも、それが錯覚かもしれないと訝しがる僕が居ることも、真実である。それと同時に、それは他者には何の脅威も恩恵も与えない。唯々、僕が、僕であるという始まりの位置に立ち、同時に終わりの地点に到達するのと同義なのかもしれない。

 ──×××××××さん、大丈夫ですか。
 ええ、大丈夫です。またひどく取り乱してしまいました。申し訳ないです。
 いいえ、問題ありません。脳髄が疲弊したのでしょう。──

 僕からかけ離れた僕が、身体を動かし始めた。
 僕は、僕の世界に……。

  ◆ ◆ ◆

「だからね、それは名前なんてないのさ。名前が付く前に、存在が先んじて発生しているにすぎないのだよ」
 分かるかね。そう言われて僕は我に返る。
 咄嗟に「ええ、そうかもしれません」……そう口走って、視覚情報にピントを合わせた。林でもなければ、病棟でもない。異形じみた看護士も居ない。
 木造のロッジみたいな建物の中、昼光色のランプが天井に吊るされていた。机の向かいにはエキゾチックな雰囲気を持つ男性がいた。ゆらゆらと揺れる光源に照らされて、長い黒髪が射干玉に艶めく。ストレートヘアの天使の輪は濡れているようにも見えた。
「なんだい、随分と腑抜けた言葉だなァ。君にゃ信念ってものがないのか?」
 生成りのシャツに黒皮のベスト……いや、チョッキを着て、細身の皮のズボンに身を包み、彼は熱弁を奮っている。珈琲の香りが鼻をくすぐって、古い紙とインク、木の匂いに混ざっていった。
 辺りを見回せば吊るされているのはランプだけではなかった。壁から壁へ渡された縄に、何枚もの大判紙がクリップに挟まれている。本棚に収まりきらない程の書籍が床や机に積まれており、本の塔が何棟も出来上がっていた。
「ともかく、その本は貸してやるとも。隅っこに座って読んでくるが良い」
 胸に抱え込むようにして持っていた図鑑の存在を、初めて認識した。男性の長い足が底の高いブーツのおかげで、更にすらりとして見える。あの子でもなければ、看護士でもない。自信過剰な口振りから、なんとなく学者か教授だろうかと見当を付けた。
 訳が分からなかったが、僕はまた世界を飛んできたらしい。
 この世界の僕は、一体どんな僕だったのだろう。そう考えながらも、言われるままに、隙間のある四隅を探している座り込んだ。木の床は少し湿っていたが、不快ではなかった。図鑑を開いてみると植物を中心に掲載されているものだった。文字は読めないが、何が書いてあるかは理解できる。なんとも不思議な感覚だった。
「しかし、面白い」
 教授……何となく、音としてはプロフェッサーと発するほうがしっくりくる。彼は僕に好奇心一杯の眼差しを寄越した。瞳の奥底、小鼻あたり、首を通り過ぎて腹、膝、つま先までじっくりと見る。
「何だったか。他の世界を歩いている気がする、だったか。自分を離れる感覚というのは、どんなものだい?」
 この世界の僕は、今の僕になる前に疑問を持っていたようだ。あの子が居た世界でみた植物や……もしかしたら看護士と見た透明な種子について調べたかったのだろう。図鑑に載っていないかと考えて、プロフェッサーに借りに来たのだろうか。
「その……」
 発した声はあまりにも幼かった。少し驚いたが、構わず続ける。しゃがんでいた体勢からすくっと立ち上がり、プロフェッサーの目を見た。
「ある日突然、別の世界に放り込まれるようなものです」
「ほう?」
 プロフェッサーは片眉を上げてパイプを燻らせた。僕の話に幾ばくかの興味を持ったらしい。一人用のソファーにどっかりと座り込んで、脚を組んだ。細さが際立つポーズだと、ぼんやり思った。
「ではその異世界で、何を見た?」
「……異世界、というのは厳密には異なります。あくまで同時多発的にある世界です。しかし並行しているわけではなく……飛び石のように、あちこちに点在するのです。少なくとも、僕はそう理解しています。
 ある時は黄金の砂上を飛び回り、ある時はガラスドームで雨風を凌ぎ、ある時は水上を滑り、ある時は水中花の中を泳ぎ……。僕は、世界にたどり着くたびに姿を変えて、捨てて、得てきました」
 幼少にしては口達者だったからだろうか。だが、幼いからこそ、嘘なく言える。彼は否定したり馬鹿にしたりすることなく、話の続きを言うように僕を促す。
「ずっと一緒だった子が、居るのです」
 鏡面の脚を持っていたあの子。羊の角を持っていたあの子。人から大きく外れた姿になっても、僕を探してくれたあの子。僕と同じ姿になって触れ合ったあの子。長い髪を美しくまとめたあの子。…………
 プロフェッサーはスウッと煙を口に含んで、吐き出さずに口に溜めたまま僅かに唇を開く。隙間から細い煙柱がいくつも立ち昇っていく。滞留する空気に、甘いような、苦いような匂いが立ち込めた。
「僕は、その子が好きなのです。今でも探しています。……僕にとって、その子は神と同義なのです」
 彼はしばらく黙って、僕を見つめる。何となくお喋りそうな気質の人が押し黙っている様子は、妙な緊張感を放つのだと知った。手や背中に汗をかいてしまう。パイプから香る煙は、二人の空気を誤魔化すことはなく……むしろ、目に見えないものが形を取るための素材として一役買っているように思えた。
 証拠に、プロフェッサーの纏う空気が、ぴりぴりとした微弱電流みたく張り詰めていくのが見えてしまった。
「君は、誰だ。いつから来た」
 硬い声で、砕けた口調もなくなった。困惑したのは隠せなかったと思う。僕は目一杯頭を働かせた。
「僕は……その、自己紹介はまだでしたか?」
 単身訪れて、本を借りるのであれば少なくとも顔見知りか、初対面だとしても真っ先に挨拶はすると思う。なのに、お前は誰だと聞かれれば誰だって困るはずだ。
 ……そういえば僕は、あの子の名前を知らない。初めて会った時はもう覚えていない。二人で初めからいたのだ。初めて会ったという地点すら、僕等には無かったのだ。
「……君は、私に図鑑を借りたいと申し入れに来た時、自らのことを“わたくし”と称した。一人前のレディとして振る舞おうとしていたが滑舌はイマイチだった。何よりレディだった君は、神の存在を信じて疑っていなかった」
 失敗した! 僕の頭蓋にその言葉が木霊する。僕は、この世界の僕のフリをしくじったのだ!
 世界は異物を爪弾きにしようとする。それだけは本能的な部分で理解してしまうことだ。逃げ出そうと立ち上がったが、掴み倒される。大人に敵うわけがなかった。
 床に転がるまま、自分の姿を確認する。フリルとリボンをふんだんに使ったドレスを着ていて、絵に書いたようなお嬢様だと思った。
「答えるんだ。君は、……」

 ×××××××という、名前なのかね。