優しい冥闇(くらやみ)の中で

 強く抱き締める腕。それから震える身体。引きつった様に漏れる嗚咽。僕は今、シリカの愛を全身で感じている。
「君にはもっと、僕を連れ去る権利が必要みたいだね。」
 珪の頬には、瞳が溶け出しそうなほど、たくさんの泪の筋が出来上がっている。そっとそれを拭って両手で貌を包み込んだ。
「僕は、頭の天辺から足の爪先まで、君のものなのだから。
 ……そんなに泣かれては困ってしまうよ。」
 声が上ずる。僕も、泣く事を我慢できなかった。だってそうさ! ずっと、この時を待っていた。
 額を寄せ合って、互いの泪で濡れる。僕らの距離はほぼ零だ。
 顔を傾けてシリカの唇を柔く食む。ピントがぼやけているのは瞳に張った膜の所為じゃない。あまりにも近いからだ。シリカも僕の唇を舐め、すぐに啄ばんだ。
 繰り返される、触れるだけのキス。僕の心が跳ねまわった。どれだけ、どれだけこの時を待っていた事だろう! 小鳥が囀り合う様な音が控えめに、何度も響く。
 危なっかしい灯りに照らされて、僕らは直接想いを何度も交わす。僕はずうっと、珪の心を奪って互いに貪る事を望んでいたし、珪を僕にもっと夢中にさせたかった。
 僕が生きる限りはプラトン的な愛を交わし合うと約束した。とても嬉しかった。何十年と続く未来が、僕の珪と共にあるなんて! 僕と共に生きるだなんて、プロポーズ以上の言葉だった。
 でも、残念ながら僕の壮大な計画は歯車が噛み合ってしまった。
 ……そして、この行為は最後の引き金だ。僕の未来が潰えて初めて恋人として結ばれるなんて、何だかルネサンス劇にありそうで素敵じゃないか。
 染み出してくる泪は熱く、静かに尾を引いて頬を伝った。
「幸せ者だな、僕は」
 珪とのキスは今までの──特にここ一年間の事を濃縮した様な思い出を蘇らせた。唇への接吻を、鋼の意思で堪えたクリスマスの夜を思い出す。あの時、恋仲になる様な行為を途中で取り止める事が出来たのは、僕とシリカの未来があったからこそだ。
 その未来が、もう僅かも無い。今際の際というのはこの事なんだろう。梅雨の雨が草木を濡らしてころころ転がり、やがて溢れていく。珪のオニキスの様な瞳から落ちるのはそんな泪だった。止む気配は無く、また無限に湧き上がる泉みたいだった。

 僕の珪。
 僕は君を愛している。それこそ、病的と言って良いくらいには。でも君は、きっとそれを知らないんだろう。僕が心底、清廉では無いと分かってしまったら失望されるかもしれない。僕は、君が思っている以上に嫉妬深いし、君に執着している。君が今、流している泪の泉に深く沈んで、その中で生きる事を心底望んでしまっている。

 僕の珪。
 その為に、僕は終末で君を奪う。最期の最期まで、僕が望んだ通りになれば、その時は「どうだい、上手くいっただろう?」と言おうと思う。僕は君の心を奪って、更には未来の君の心まで縛って虹の橋を渡ろうとしている。我ながら酷い事だと思う。でも僕のシリカがこれから長い間、僕の事を思って、悲しんでくれるかもしれない。そしてシリカは、それが悲しみとさえ気付かないかもしれない。嗚呼、何て愛しい、僕のシリカ──!
 この悪巧みが神に知られたら、さて何て言ってやろうか。夏の日に言い渡した流星群での願いが総て叶ったのです! と言えば、神でも面喰らった貌になるだろうか。

 綺麗な黒が揺れている。僕には無い美しい黒。濡羽色の髪、オニキスの瞳。抜ける様に白い肌。ランプが今にも消えそうだ。泪に滲む愛しい人の黒を目に焼き付けて、目蓋がまるで終幕みたいに下りていく。
「……お休みなさい、僕のシリカ。」
「ゆっくりお休み、己れのヘイゼル。……良い夢を。」
 心地よい声が僕の心を包んでいく。しっかりと握りしめられた手は緩やかな熱で溶けてしまいそうだ。

 ──……手紙、気付いてくれよ、鈍感シリカ。

 僕はとっぷりとした優しい冥闇に沈んでいった。