夜空の大輪を見上げ

 窓側に垂らした風鈴が涼やかに鳴る。母様が持ってきてくれた物だ。清涼な音は良く響き、鉛筆を走らせる音と重なり程良く集中出来た。
 「出来た!」
 課題に悲鳴を上げたい、とは言ったが思わず両手を上げてしまう程度には大変だった。その分、大きな達成感が得られる。計画していた所から遅れていた分を取り戻し、独逸語の翻訳課題を終える事が出来た。
 「頑張ったな。」
 「当分、独逸語は見たくないなぁ。いやはや、聖典の言い回しには参った。」
 苦笑しながら頭を掻くと、僕の珪は褒めてくれた。それでも手元の筆を止める事は無く、さらさらと問題を解いていく。
 「真夏、だね。」
 窓の外は鮮やかな青空だった。〈何か青いもの〉を無意識的に探している僕にとって、余計に鮮やかに映る。
 「今日は、地面で料理が出来そうなくらい暑いらしい。」
 「厭だなぁ。焼け焦げてしまいそうだ。」
 緑の蔦で壁面を覆ったこの病院は、それなりに涼しい。シリカは先生の許可を取ってからは一日中、朝から晩まで僕の病室にいる。父様と母様はより良い治療が出来無いかを幅広く探し回ってくれていて、お陰で僕の顔色は格段に良くなった。寧ろ、入院する前よりも元気なくらいだ。
 「先生が言っていたんだ。この病は急性に転じたらアッという間だけれど、慢性であるうちは天寿を全う出来るほど、進行が緩やかなんだって。」
 ゆっくりと伸びをする。背骨一つ一つの隙間を開くのを想像しながら背中を動かすと、滞っていた流れが解消されていくのが分かる。珪の視線が、一瞬こちらに飛んで、直ぐに課題のほうへと戻っていく。
 僕の企みは、たった一つだ。例年通りに過ごしたいという、単純明快な願い。
 「だからね。僕の珪。お願いを聞いてくれないかい。」
 僕が寝たきりの老人ではないし、深窓の令嬢でもないのだ。今日だけは、否、今夜だけは絶対に外出したい。
 だがシリカは鼻で笑った。
 「外出の手引きはしてやらんぞ。」
 「なんだい、何もまだ言っていないじゃないか。」
 「違ったのか。」
 「いや、そうなんだけども……。」
 筆を走らせながら、こちらも見ずにあしらわれてしまった。僕は項垂れるくらいしか出来ず、他の手を考える。
 「山の別荘に行く許可は貰えたのだ。焦らずとも外には出られる。」
 主治医からは、夏休みは全て養生に充てる様にと言い付けられた。ならば避暑地へ行くのは養生だ! と主張して、何とか許しをもぎ取った。そもそも、夏休みが終わったら僕は学校に行くつもりなのだ。一度止まってしまえば、似たような事柄も中止せざるを得なくなってしまう。
 「だって今日は、祭りがあるだろう?」
 だから、例年通りにしたかったのだ。夏祭りで納涼し、花火を眺めるのが常だったのだから。
 「僕は、毎年と変わらない事がしたいんだよ。」
 僕のシリカは頑固だし、いつだって正しくあろうとする。僕の事となれば過剰になるくらいだろう。医者を説得するより難しい事は分かっている。
 「どんな風に過ごしたいのだ。」
 シリカは筆を置いて、内容を見直す作業に入ったらしい。僕の気を紛らわせようとしてくれている為か、そんな話題を振ってきた。
 「そうだなぁ。飴細工、金魚掬いなんかを眺めて歩いて……。何と言っても甘い物を食べながら、花火を見たいかな!」
 「見るばかりだな。」
 「どうせ珪は、食べるばかりなんだろう。」
 「屋台の物が一等美味に感じる瞬間を逃してたまるか。」
 シリカは案外、食い意地が張ってる。感覚に正直なだけかもしれないけれど、学校での一面しか知らないクラスメイトからしたら意外がるだろう。
 「さて、己れは一旦家に戻る。次の課題を持ってきてやろう。」
 確認が済んだのか、僕の珪は立ち上がっていそいそと戻る準備をし始める。あまりに淡泊な流れに、流石にムッとしてしまった。
 「僕のシリカ。もう少し僕を甘やかしたって罰は当たらないと思うのだけど。」
 「普段通りが良いのだろう?」
 「言っておくけどね。期末試験の合計点は、君より僕の方が二点高かった事実を忘れるなよ?」
 「次で己れに抜かれたくないなら、さっさとやる事だ。」
 ああ言えばこう言う。僕はやれやれと肩を竦め、首を振る。栄養補給の為の点滴が、犬を繋ぐ紐みたいで憎らしい。
 良い子で待っていろ、と額に口付け、靴を鳴らすシリカ。振り返る事もなく退出していった後姿を見送ってから、僕は無意味に布団を蹴った。
 
 でも、それは良い意味で裏切られる事となる。戻ってきたシリカは大荷物を抱えて再び病室に現れた。
 風呂敷から貌を出したのは、真新しい浴衣。生地は生成りかすれ、帯は紺と白の献上角帯。もう一着は黒縞に白と藍の帯。普段、僕が着用しているのは洋装だけれど、祭りの日は毎年浴衣に袖を通している。
 妙に上質さを漂わせる浴衣は、春に仕立てて貰ったものだと直ぐに分かった。
 それを持ってきたということは、つまり。
 「一体、どうやって。」
 驚嘆の息ばかりが漏れて、あまり声にならなかった。
 「春に、仕立ててもらっただろう。先走った母様が仕立屋を呼んで、採寸したじゃないか。」
 「それは、覚えているけど。そうじゃなくて!」
 「……言っておくが、外出というほど遠くには行けんからな。」
 胸が高鳴なる。要望がじわじわと実現されていくと確信に変わり、喜びが湧き上がった。僕は珪から目が離せなくなってしまう。だって、僕の我儘をこの珪が通してくれるなんて! 
 珪は照れ隠しなのか、そっぽを向いて説明をしてくれた。
 「行動範囲は病院の周辺のみ。食べ物は火を通した物だけ。野山には立ち入らぬ事。少しの混雑も避け、帰って来たら入念に手を洗い、うがいをする事。外出が出来る時間は十八時から一時間半程度。」
 指を立て、取り付けるに至った規則を並べていく。それを聞いた僕は、シリカの両手をガッシリと取って嬉しさ全開にお礼を言った。
 「嗚呼、本当に嬉しい! 有難う、僕のシリカ!」
 その場で踊り出したいくらいだ! 実際、僕は小躍りしていた。点滴の針が抜けるのを恐れたのか、シリカは慌てた様子でベッドへ座らせられる。
 「そんなに、祭りへ行きたかったのか。」
 「そりゃそうさ! シリカと沢山、色んな物を見たいんだ!」
 僕のシリカは僅かに表情を崩して、消毒液に浸してある枕元のピアスに手を伸ばした。
 ちょっとした悪巧みも込みで、僕等の花火会場はかつての母校である中等部に決めた。時間迄は課題をしようとしたけれど、大して捗らなかった。二人してそわそわするものだから、シリカも僕とのお祭りを楽しみにしてくれているのが伝わって、緩んでしまう貌を取り繕うのに必死だった。
 
 程よい時間となったので準備に取り掛かり、看護婦や小さなフロイラインに見送られながら、病院を出発する。
 学舎方面にも屋台はあった。人通りはそこまで多くない。人とすれ違うのに困らない程度でもそれなりに盛況た。普段は履かない下駄の音が楽しい。
 シリカは僕に向き直り、手を差し出した。
 「ヘル・ヘイゼル、手を。」
 ……丸でエスコォトだ。ヘル、と男性につける敬称が却って態とらしい。
 「ねぇ、ヘルって付けているのは嫌味なのかい?」
 僕が女の様に扱われるのを好んでない事は分かっているというのに。僕の不機嫌そうな声音に構う事なく、シリカは不敵に笑った。
 「莫迦者。この己れが、フロイラインを列記とした病人と同格に扱うとでも思ったか。」
 さあ、と促す僕のシリカに、パチクリと瞬きをする。
 つまりは、ただ女性であるだけではエスコォトすらしないと言っているのだ。かと言って、ただの病人にもしないだろう。つまり、《病を抱える珪のヘイゼル》の特権であるという意味だ。
 僕は盛大に噴き出した。
 「おお怖い! ヘル・シリカは僕以外に、こんなにも厳しい!」
 嗚呼、何だ。病気というだけでこんな扱いが受けられるなら捨てたものでもないかもしれない。ケラケラと笑いながら、珪の手をしっかりと握る。互いの指を交互に重ね合う様に繋いでくれたので、僕はまた笑った。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 中等部の侵入は容易く、そして屋上の扉を開けるのも問題なかった。鼈甲飴を片手に忍び足のままで屋上へと滑り出る。
 あまり外側に出ると地上から見つかる恐れがある為、壁際に沿って座り込んだ。酒と乾き物を包んだ風呂敷は、守衛や宿直の先生に見つかった時の口止め料だったけれど、もう必要無いだろう。僕の主治医への土産として、脇に避けた。
 夜空は星と月が天幕を飾っていた。大輪の花を待ち侘びて、見上げ続ける。
 「わぁ!」
 程なくして、花火が打ち上がった。僕の感嘆はすぐに、太鼓の様な音に消されてしまった。夜空に咲く大火は降り注ぎ、消えていく。
 周りには当然、人は居ない。大きな花火を僕と珪だけで独り占めしている。
 一つ目は赤。二つ目は黄。三つ目は橙。閃光と轟音を肌で感じ、その度に僕は歓声をあげる。次はどんなものだろうか。もっと高く上がるだろうか。もっと響く音がするだろうか。
 次々に上がる花火を眺めているうち、不意に終わりの事を考える。
 花火が終わったら、僕は帰らなければならない。自宅ではなく、病室に。
 シリカは僕を病院にまで丁寧に送ってくれるだろう。でも、それで終わりだ。お祭りの余韻に浸って夜更かしした去年とは違い、僕は一人でその余韻の中に居ることになるだろう。
 「清陽?」
 シリカが僕を呼ぶ。上手く声が出なくて、返事の代わりに手を繋いだ。見えて欲しくない。今の僕は、きっと酷い貌になっている。
 それでも、花火は終わりに向かって上がっていく。明かりに照らされた大粒の泪は、隠しきれないだろう。
 「ヘイゼル……。」
 困った様に僕のシリカが再び呼び掛ける。僕は、シリカと毎年と同じ事がしたいと思っただけなのに。
 結局泣き声を殺しきれなくて、僕は咽ぶ。僕のシリカは肩に腕を回し、そっと抱き寄せてくれた。その間も泪は止め処なく溢れ、喉を震わす。
 「あまりに、あまりにもいつも通りで。この後、病室に帰るなんて信じられない。」
 自宅に戻って、着替えて、風呂に入って、ラムネでも飲みながら話をしたい。今日の興奮を思い出しながら眠りにつきたい。たったそれだけの事が、今年は出来ない。そして来年も実現できる保証がない。
 「シリカ、僕は。僕は怖い。」
 花火は上がり続けていたけれど、観る余裕はもう無かった。暗闇にばかり目を向けていたら、僕の中にある黒い泥が広がりそうな気がするというのに。
 「症状は、確かに軽い。だからこそ、僕の与り知らぬところで、身体が少しずつ崩れていっている気がして。」
 珪の肩口が僕の泪で濡れた。首から肩にかけてのラインが、浴衣によって色香を漂わせている。
 シリカは、何だか少し逞しくなった気がする。僕と珪は、手足のバランスも、身長も、体重も殆ど変わらない。でも、今だけだ。このまま病室でジッとしているだけでは、僕は萎んでいってしまう。そうなったら、きっと僕のシリカが好きな《美しいヘイゼル》から遠ざかってしまう……。
 「シリカ。僕のシリカ。
 君のヘイゼルは、ちゃんとここにあるかい?」
 シリカは無言で、僕を掻き抱いた。僕の弱音に、どう返事したら良いのか迷っている様だった。
 「……《心は燃えても、肉体は弱い》。」
 今日片付けた、課題であった聖典の言葉。口から漏らすと、無性に泣きたくなる。目を覚まして祈りを捧げる事があっても、誘惑には負けてしまう。
 死が僕を惑わしているのなら、確かに身体は引き摺られてしまうだろう。
 「己れのヘイゼル。
 お前は確かに、ここにある。」
 僕のシリカは、輪郭を確かめる様にして、全身に触れていく。髪から始まり、肩、腕へと降りる。手を握り、指先を絡め、もう片方の手で背中から横腹へ……。
 「あっ……。」
 過敏になった所もシリカはまさぐっていく。断続的な夜空の花に照らされ、危うい光を孕む漆黒の瞳が僕を捕らえる。海や別荘で見た時みたいな不安な様子はなく、確かに燃える強い意志が奥底から覗き見えた。花火の光が映り込んで、シリカの瞳にも夜空があるみたいだ。僕の泪ひと粒ずつに口付けていき、睫毛にもキスを落とされる。
 「珪ッ……。」
 僕のシリカは、多分僕の瞳が一番のお気に入りなんだと思う。眼に触れない様に慎重に泪だけを舌と唇で啄ばんでいく。その間にも、身体は益々密着していった。親友と、しかも母校で触れ合う背徳感に僕は身悶えた。
 「駄目だよ、珪……!」
 「……《安心しなさい。わたしだ。恐れる事は無い》。」
 「……ッ、狡いよ、僕のシリカ……!」
 珪が口にしたのも、聖典にあった言葉だ。恐怖と戦うだけでは、安心すべき相手をも恐れてしまう。──嗚呼、僕は混乱しているのだ。けれど突き動かされる衝動もまた、確かなものだ。
 シリカは僕の首筋を柔く食み、ピアスをねぶる。触れ合ている所全てが熱い。互いの汗と匂いが混ざってクラリとする香りが立ち上る。余裕を無くしつつある僕の珪の表情に、息を詰めて耐えた。
 
 嗚呼、駄目だ。止まれない。止められない。止まって欲しくない! 
 
 シリカの熱っぽい舌の感触に僕の身体が跳ねた。互いの鼓動を感じ取れるほどの距離で、かちりと視線が合う。刹那、距離の無いその隙間に二人だけの花火が散る。
 「……存外、甘い。」
 「──ッ!」
 最後の盛り上がりに差し掛かった花火は、派手な音と光で弾けた。耳元で囁かれた台詞と目尻に溜まった泪を啜られて、背筋がぶるりと震える。弾けては儚く落ちる光が、珪の瞳を揺らしていた。
 ついに最後の花火が上がる。
 「愛している、己れのヘイゼル……。」
 「僕も、……愛しているよ。僕の、シリカ。」
 互いの熱と興奮で僕も珪も息が乱れている。言葉の隙間で漏れた吐息が熱い。鼈甲飴は既に溶けきって、シリカの舌の上だ。僕のは、──……。
 「……帰ろう、己れの清陽。」
 長い間抱擁したのち、僕の珪は切り出した。大丈夫だ。僕は、珪に愛されている。毎年と違う事だとしても、悪い事ばかりではない。何を考えてか、難しい表情になってしまった珪に微笑み、頬を摺り寄せた。
 「疲れてしまったから、おぶってくれよ。」
 気怠くなった身体をそのまま預けて、僕は意識を手放す。
 夢でないなら、醒めないでほしい。間違いなく、僕と珪の間には、唯一の愛があると確信が持てたのだから……。
 
 恐れる事はない。だって、僕のシリカだもの。
 どんなことをしても──何をしてでも──、僕を残して欲しいという欲望は、今は見ない振りをした。