白い祝福を受け取る

 僕が倒れてから、少し経ったある日。発熱は落ち着いて僕は平常を取り戻しつつあった。未だに病に罹っているという自覚は全く無かったけれど、再び入院を余儀なくされた以上、間違い無いのだろう。
 鎌倉の病院から、自宅側の医院に移った。と言ってもそこは療養所に近しいところで、病院特有の陰鬱さや重苦しさ無く、清涼な空気に穏やかな時間が流れる所だった。白い壁、白い床板、白い 窓帷カーテンが揺れる病室に、差し込む陽がいっぱいに広がる。当然、町中は日常が送られて居るだろう。それさえ忘れてしまいそうなほど、切り離された穏やかさに満ちている。
 ピアスは消毒液に付けっ放しだ。シリカがやって来た時に身につけ、帰ってしまった後に外している。本当は片時も離したくない。けれど少々の傷から化膿する事を恐れ、最低限の時間だけ許しを得て、雫を垂らす。
 赤いドロップは、あの日に開けあったピアスの穴から滴る血が今でも少しずつ流れ、固まっていったものに見える。僕の珪と僕とで流した二人の血が混ざり合って、それが互いの耳朶で揺れている。その光景は僕の心を擽って、抑えきれない感情が頬の紐を緩めてしまう。
 シリカへの想いはずっと昔からあるものだ。
 幼い頃に言われた言葉がふいに蘇る。珪はもう忘れてしまったと言っていたけれど、僕さえ覚えていれば十分だ。
 三つか四つの時だ。珪は何かを考える様に、ジッとオニキスの瞳で僕を射抜いた。何度話しかけても何も言わず、只々見つめられ身動ぎ出来なかった。長いことシリカはそうして、ようやく一言発した。
「きらきらした目は、ホーセキでできているのか。」
 口達者な子供故の、純粋な、綺麗なものに対する疑問であり、同時に賛辞だった。
 布団を深く被り、ふふっと笑いを漏らす。珪はあの頃から変わっていない。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 まだ珪の父様と母様──菱さんと和水さんが生きていた頃から、僕らは既に仲良くしていた。父様たちが幼馴染なのもあったし、母様も和水さんからお料理や日本語を沢山教えてもらっていた。
 和水さんは看護婦で、近くの診療所で働き、多くの人から優しくて気がつく人だと評判を得ていた。菱さんは外交官だったので、しょっちゅう海外に行っては土産話を聞かせてくれた。
 珪は僕の家に預けられる事もあったし、和水さんと一緒に診療所へ連れられる事もあった。僕も時々、診療所に付いていった。
 僕らは目立った。
 僕の日本人離れした見目と、シリカの人形の様な見目の所為だ。珪は母親譲りの黒髪に父親譲りの切れ長の瞳で、小さな頃から目鼻立ちがハッキリとしていたし、僕も僕で母様譲りの美しさを手にしていた。西洋人形と日本人形が戯れていれば、人目を引くのは当然だった。
 人目を引く、というのは良いことだけではない。寧ろ、標的に定められることだってある。珪は誰にだって褒められていた。だから側に居る僕は異端と看做され、珪を貶める存在であるとさえ囁かれた。
 五月女さんのところの珪君は将来有望だ。艶やかな黒髪に強気な瞳で嘸かし美男子に育つだろう。負けん気も良い。礼儀正しいし頭も良さそうだ。なのに唐色で目の色が違う、獣のような子が側に居るな。あれは有害だ。何故五月女さんは何も言わないのか。異邦人は血を啜って生きるというらしい。おお恐ろしや。珪君が何か怪我をしたらどうするつもりなのか。
 ──幼心にも、邪魔だと言われて居るのは分かった。耐え切れず、男らしくもなく泣いて逃げ出した事もあった。珪に何度も、僕は怖くないのかと聞いた。
 初め、シリカは何故僕がそんな事を聞くのか分からないと言っていたが、その囁かれる悪意が原因と知った瞬間、菱さんの事務所へと駆け込んで行った。
「父さま! なぜ、みなは、きよあきをおそろしいと言うのですか!」
 庭の外まで聞こえる声だった。滅多に感情を大きく出さない子供だったのもあって、菱さんは驚いていたけれど、直ぐに事情を察した様だった。
 僕はこっそり、二人がいる部屋を覗いて、そのやり取りを見ていた。
「珪は、清陽をどんな風に思ってる?」
「きれいな奴です。宝石みたいな目をして、ねこみたいに笑って、好きな奴です。」
 そうか、と言って菱さんは珪の頭を撫でた。僕は素直な言葉に擽ったい思いをした。
「お前と清陽は、同じだと思うか?」
「いいえ。でも、きれいなモノを持ってる奴です。」
「でも、好きなんだな?」
「もちろんです!」
「なら、清陽の綺麗なところを、分かるように教えてあげなさい。」
 分かるように、と呟く珪は何かを指折り数える。菱さんはもう一度、珪の頭を撫で、真面目な表情でこうも言っていた。
「でもな。残念ながら綺麗な物を理解できぬ人も居る。そういう人には自分の思うように伝えなさい。」
 子供だったのもあって、僕が菱さんの言ったことを理解出来たのは、ずっと後になってからだった。菱さんが偏見を持たなかったのは外交官だったからという理由だけではないだろう。
 あと、と付け足して僕の方を見る。
「清陽。お出で。」
 隠れていたつもりだったけれど、菱さんにはお見通しだった。手招きされるまま側に近づくと、二人まとめて膝の上に乗せられた。──きゃあきゃあ言いながら、菱さんにしがみついたっけ。
「けい。」
 照れながら、珪の名を呼んで手を伸ばせば、笑顔を返して手を繋いでくれた。
 僕には家族が居る。だから悲しくない。心底、そう思えたお昼下がりだった。
 
 そんなやり取りがあってから、五月女家の庭でボール遊びをしていた日。確か春頃、珪が五歳になったばかりの時。
 和水さんの勤め先にいる婦長さんが五月女家にやって来ていた。恰幅の良い婦長さんは、目尻に皺があって、声が大きい人だった。お茶を飲んでいた二人の話が聞こえてくる。
 内容はもう、薄らいでしまったけれど、僕についての事だった。この家に出入りするのは相応しくないとか、珪に悪影響だとか、……。
 和水さんはどうやら、柔らかく否定していたみたいだけれど、容赦なく差別する言葉に、僕は我慢出来ずその場で泣き崩れた。途端、珪が僕の腕を掴んで、家の中へと走り出した。
「ふちょうさん!」
 珪の声は怒りに満ちていた。
 なぜきよあきの事を悪く言うのか。何もしてないのに。大人なのにどうしてなのか。きよあきはよく笑うし、やさしいし、きれいなやつなのに! 
 矢継ぎ早に、声を荒げる珪の貌は、興奮の為か赤くなっていたのを覚えている。
「珪ちゃん。あなたは優しいから、付け込まれてしまうかもしれないの。あなたの為を思って言っているのよ。」
 婦長さんは諭す様に、日本男児たるものどうあるべきかを語った。
 黒髪で、黒目はお母様譲りね。やっぱり日本人の黒に敵う美しさはそう無い物よ。切れ長なお目々はお父様似で賢そう。男の子は強くてお勉強が出来なきゃダメよ。
 僕はその理想から遠く離れているどころか、外敵である言い回しだった。
 珪は、酷く絶望した表情になったが、直ぐに部屋から飛び出して行った。置き去りになってしまった僕は珪の後を追うことも、婦長さんを見ることも出来ずお腹あたりの洋服を握りしめるしか出来なかった。
 異変は直ぐに起きた。
 大きな物音がしたかと思うと、再び駆けてくる音がする。ふちょうさん! と大声あげて現れたのは間違いなく珪だった。珪だったのだけども。
 
 皆一様に呆気にとられた。
 子供ながらに美しい黒髪頭は木屑に塗れ、貌は何かの粉で白く塗りたくられていた。
「頭は黒じゃなくなったし、かおは真っ白になりました。ふちょうさんは、今のぼくを、きよあきと同じ言葉にでバカにしますか。」
 庭の物置小屋にあった、可燃材のおが屑と、石灰を被ったのだと分かった。それは子供の珪なりに考えた、真っ向からの抗議であった。
 婦長さんは、「感じが悪い子だね!」と言って出て行ってしまった。僕はポカンとしていたが、珪の姿があまりにも面白くて、泣いていたのも忘れて笑い出してしまった。
 
 和水さんもクスクスと笑い、おが屑と石灰だらけの珪を撫でる。
「珪は、清陽くんが大好きなのね。」
「とうぜんです!」
「なら良いわ。お風呂に入りましょう。」
 今思えば、奇行に走った息子を否定しなかった事から、和水さんの懐の広さが窺い知れると思う。しかも相手は仕事仲間で上司の婦長さんだ。子供がしたこととはいえ、他の家だったらすぐに謝るように叱るだろう。
「清陽くん。」
 穏やかな声だったので、転がるようにして和水さんの腰にしがみつく。和水さんはしゃがんで、珪と一緒に抱きしめてくれた。
「清陽くんは、珪のこと好き?」
 温かい腕の中、とても照れ臭くなってしまい、顔を埋めて頷くしか出来なかった。和水さんは更に強く抱き込んでくれた。
「私は、そんな二人が大好きよ。」
 温かな思い出。そして珪への想いがはっきりと芽生えた日。自分が正しいと思ったことを貫いて、間違いだと思うものには染まらない、美しい黒色──……。
 
  ◆ ◆ ◆
 
「己れのヘイゼル。具合はどうだ?」
「シリカ!」
 お見舞いに来た珪が、眩く見えた。僕にとっての、美しい宝石。真っ黒であり、透明度の高い、心美しい僕のシリカ。
「ねぇ。小さい頃、婦長さんに抗議したの、覚えている?」
「嗚呼、あれか。おが屑の。」
 この日のことは、十年近く経ってもシリカも覚えていた。そうそれ、と僕は表情を崩す。
「入院している別の患者に、何か言われたのか。」
「ううん。あんな事もあったなぁって思い出してたんだ。」
「誰かに何か言われたのなら、石灰くらい、いつでも被ってやる。」
 大真面目な貌をして、そう言うのだから、僕は可笑しくて、嬉しくて、黒髪を犬猫の様に撫でてかき混ぜる。
「愛しているよ、僕のシリカ。」
「愛しているとも、己れのヘイゼル。」
 真っ白な窓帷がふわりと風に舞い、柔らかな光で僕等を包む。根拠も無く、神様に祝福されているような心地がした。