熱砂の浜辺を越えて

 鳳先輩に勝負を挑まれるようになった。僕より強い人間だったら口説かれると言ったのを大真面目に捉えたらしい。珪が相手をすることもあれば、僕が勝負を受けることもあった。
 一日一回、必ずどこか時間を見つけてやってくる先輩にうんざりもしたし、同時に面白くも感じていた。あの手この手を繰り出してきているのは関心してしまったけれど、どれも直情的であったが故に見切るのは難しくなかった。
 ある朝、僕は洋シャツのままで勝負を受けたが、鳳先輩の力にボタンが耐えきれず弾け飛んでしまった。僕の肌が見えたことにより、先輩は石像のごとく固まり、結局僕が勝った。
 あまりにも ( ひしゃ ) げた表情だったので、なんだか可哀想にも思えてしまう。後輩に連戦連敗しているばかりか、素肌に動揺してしまったと広がればこの人の立場もなくなるだろう。
 僕は気まぐれとささやかな期待を起こして、先輩を名前で読んでみた。それは色んな意味でも効果覿面で、僕のシリカにまで狙い通りに飛び火した。端的に言えば、先輩を調子づかせた僕に起こった上に可愛らしい嫉妬を顕にしてくれたのだ。
 ほんの少しヤキモチを焼いて欲しかっただけだったけれど、僕のシリカは思っていた以上に僕のことを愛していてくれた。
 僕ら二人でちょっとした──だがとても重要な──儀式をした。
 母様から贈られた、真っ赤なピアスを二人で分け合う。僕の左耳とシリカの右耳を飾るピアスは、血の雫の様でもあり、丸で互いの血を分け合うような儀式だった。
 片時も離したくなくて、学校にも身に着けていったら先生方から当然に怒られた。けれど、自律した行動と有無を言わさぬ成績を取り続けることにより、どうにか有耶無耶にできた。耳飾りをこっそりしたら成績が上がる、なんてジンクスが流行ったくらいだ。
 
 そうこうしている内に、怒涛の一学期を終えた。僕は夏休みが楽しみで仕方がなかった。
 宗田家の別荘に五月女家の別荘。どちらも毎年訪れていて、しかもシリカと二人で行ってきても良いとお許しが出たのだ。珪に持ち出せば、二つ返事で行くことが決まった。
 だから、多少の風邪なんて気にもしていなかった。よく食べてよく眠ればすぐに治ると信じて疑っていなかったし、海では子供っぽすぎるくらいにはしゃいだ。
 英語の原田先生に似た肴を捕まえたり、砂浜で僕のシリカと二人して倒れ込んだりして「嗚呼、夏が始まった!」と心が踊ったものだ。
 何よりも。
「……お前が眩しかったのだ。」
 そう言って僕を力の限り抱きしめた珪に、僕は身体中が満たされていた。対してシリカは不安定さを滲ませていた。抱き締めてきたのも、僕を捕まる為みたいだった。
「莫迦だなぁ。」
 目の前で揺れるシリカのピアスが、光を受けて肌に紅がかった影を落とす。黒髪には赤が映える。太陽光に照らされているのもあって、高貴な玉座に据えられているルビーとオニキスを彷彿とさせた。
 僕のピアスに、珪が口づけを落とす。夏が二人を大胆にしていく。
「ッ、けい。」
「己れの清陽。己れのヘイゼル。
 ……そろそろ上がろう。冷えてしまう。」
 不安を払拭出来ないような声音だった。上手く言えないけれど、夏を今この瞬間に嫌いになったような素振りだった。
「……シリカ?」
 怪訝には思ったけれど、僕はその時さして気に留めなかった。思えば、この頃から珪は僕の異変を感じ取っていたのかもしれない。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 真夜中、こっそりと足を運ぶ。忍者になったつもりで、呼吸を忍ばせ、スロウ・ワルツを踊る位、床板と足の接地面に神経を巡らせた。
 こんな事をしなくても、シリカが目を覚ました事はないのだけれど。
 波の音が遠くで聞こえる。窓の外は昏い闇に充ちていて、この別荘の中にも忍び込んで居る。手許の小さな燭台が、その闇を燃やす様だった。
 熱っぽい身体は意識を膨張していく。冴える様な、ぼんやりする様な、不思議な感覚だ。伸びる廊下の先まで見えそうだと思うのに、足許が覚束ない。
 目的の部屋に辿り着いた。音を立てぬ様に気を払いながら、ノブを下げて扉を押した。蝶番がゆっくりと動いて、僅かに微動する別の装置にも思える。
 シリカは布団に横たわり、穏やかな寝息を立てて居た。闇に目が慣れたのもあったり、雲間から覗く月明かりが出てきたこともあって、僕は燭台の火を息を掛けて消す。ほんのりと蝋の香りを漂わせながら、小さな煙を立てて、軈て其れも無くなった。
 
 シリカは僕の寝起きがイマイチ悪いと思って居るだろう。其れはこの《夜更かし》の所為だと知ったらどんな貌をするだろう。
 僕は、珪の寝顔を見るのが昔からの日課だった。一度寝付いたら、どんなに突いても、どんなに撫でても、朝までずうっと眠りの中だ。幼い頃に、そう気付いてから、僕は寝ている珪をじっくり眺めてから床に就く。
 眉を顰めて難しそうな雰囲気を醸し出すのが常であるけど、眠っている時ばかりは眉間の皺も姿を消す。あどけない貌で、規則的な寝息を立てるシリカ。大人びた振る舞いをする彼が、寝顔は随分と幼い事を知っているのは、きっと僕だけだろう。
「僕の珪。」
 口の中だけで、名前を呼ぶ。風邪が移るかもしれないと思い、触れる事はしなかった。
 本当なら、そっと唇を寄せてみたい。頬を撫ぜる事はあったけれど、寝込みを襲う様な真似はしないと誓っていた。
 だって、そんな事をしたら。其れこそ想いを通わせ合うという事が不可能だと認める様なものだ。
 昏闇の中でも、シリカの黒髪は美しく輝いて居た。長い睫毛に縁取られた瞼の奥には、オニキスの目玉が夢を見ている筈だ。微睡む瞳を見てみたくなったが、流石にシリカと言えども、眼をこじ開けたら起きるに決まっているの。
 僕の ( ブラック ) 。僕の ( シュバルツ ) 。僕の ( ノワール )
 シリカの雰囲気に似合う響きは ( ノワール ) かな。そんな事を考えながら、絹糸の如き髪をサラリと梳かす。
 何色にも染まらず、 何人 ( なんぴと ) にも影響されず、信念を貫く姿に、僕がどれほど助けられているか。
「僕の、シリカ。」
 無防備な姿に悪戯したい。でも其れは、僕の心に反する。互いが惹かれ合いながらも、親友として、兄弟として居られるのは、唯一の関係であると断定出来るからだ。
「愛しているよ、僕の珪。」
 
 頭がぼうっとする。まだ体調は快復しない。
 海で泳いだだけで、こんな風になるだろうか。ヒタリとする足音が厭に生々しい。 上沓 ( じょうか ) を履いている筈なのに、床の上を裸足で歩いてる様な音だった。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 別荘で過ごして三日ほど経った。
 結局熱が下がらず、ものすごい剣幕でシリカに病院に行けと凄まれてしまった。
 遊びも課題も出来ないのなら、確かに此処に居ても意味はない。ふう、と息を吐くと弾みで泪が溢れる。悲しいから出てるのではない。ぼうっとする頭の排熱をしてるのだろう、と未来の名医者は言った。
「参ったな。このままだと、独逸語と仏蘭西語が更にあやふやになっていってしまう。」
「この己れが付いているのだ。すぐ取り戻せるさ。」
「それもそうだね。」
 自信満々に言うシリカはいつも通り冷静で、ちょっと安心する。でも、僕の症状を見てただの風邪ではないと確信しているからか、筆が挟めそうなほど眉間の皺が深い。
「ふふ、僕のシリカ。そんなに怖い貌をしないでおくれ。きっと疲れが溜まっているだけさ。」
 随分はしゃいでしまったしね、といってみたけれど、怠さは拍車がかかるばかりだ。今回ばかりは反省する。珪は難しそうな表情が解けるばかりか、歯軋りしていた。
「こら、珪。これは君の所為じゃない。僕が我儘を言ったからだよ。」
 どうせ、僕を引きずってでも連れ帰れば良かったとか、そんなことを考えてるんだ。額を指で突くと、図星だったのか頭を掻いて誤魔化していた。
 一番近い病院であれば人力車ですぐ到着するとのことで、僕は玄関先にある庭いじり用の椅子に腰掛けた。珪は母様に持たされたパラソルを僕に差す。これじゃ女物が似合う男じゃなくて、本当に女の人と同じ様な扱いじゃないか。
 そう言いたかったけれど、僕は苦笑するしか出来ず、シリカに凭れて眠りに就いた。
 
 病院に到着するや否や、医者は血相を変えて凡ゆる検査をした。ぼんやりとする意識の中、ただ夜が更けていくのが分かる。どうやら入院するほど具合が良くないらしい。遠くで両親に連絡するとか、別の医師を呼べとか、そんな内容だけは朧げながらに理解できた。
 結局、僕が死ぬ運命にあると聞かされたのは、四日後だった。その病は、例が少なく治療法も確立してないものだった。異例のスピードで特定出来たのは単なる幸運だった。
 散々に眠り、熱は下がった。いつもよりちょっと怠いくらいだ。その状態で不治の病と言われても、ちっとも自覚出来なかった。その上余命が一年にも満たないと言われ、僕は呆けるしか出来ない。
 もしかして、シリカが僕を諌める為にでっち上げた嘘なんじゃないかとも思った。父様に聞いてみたら、珪にも受け止める時間が必要だと言ったきりだ。
 父様と共に病気について説明を聞く。発症すればあっという間だが、発症せずに抑え込めれば長寿を全うできるらしい。まずは療養し、薬を受け止められる身体に戻す事が先決だと言われるのみで、父様は珍しく憔悴した様子で医者へ詰め寄っていた。
 
 何もかもが耳の上を滑っていく。頭の中へ侵入するのを拒んでいたのかもしれない。
 父様もこの医者も、何を言っているのだろう。
 珪とまだ山の別荘にも行って居なければ、海だって遊び足りない。夏祭りもある。母校に遊びに行くのもいいな。夏休みが終われば、秋の体育祭があって……そうとも、学年行事では僕達二人は既に注目の的なんだ。
 なのに? 
 
 不治の病。何、それ。それは、死ぬの。
 
「僕が、死ぬ。」
 
 言葉にしてみて、口の中がどろりとした黒いものに汚されていく心地がした。
 嗚呼、違う。此れが病の正体だ。
 粘りつく様な、爪を立てる様な、侵食する様な、根を張る様な、縛り付ける様な、──! 
 こんな、こんなものに、僕の生活を邪魔されてたまるか! 僕の人生を、僕の将来を! 
「大丈夫だよ、父様。」
 僕はいつも通りにしたい。僕はいつも通りに生きたい。皆を愛し、皆に愛され、課題に悲鳴をあげながら、生き続けたい! 
 その為にも、僕の隣には僕のシリカが居なくては。
「僕、頑張るよ。」
 父様も、お医者様も僕に視線を向ける。大人が感情を揺らしてやり取りしているのを眺めていたのもあってか、僕は極めて冷静に見えたかもしれない。
「頑張るからさ、僕はなるべく普通の暮らしをしたい。」
 だから、お願いだよ。シリカに会いたいんだ。
 
  ◆ ◆ ◆
 
 入院生活が余儀なく始まり、僕は早速暇を持て余していた。僕の珪と会えたのは、宣告を受けてから二日経った頃。初めは珪も、僕の病について大分ショックを受けたというが、僕のいつも通りな姿に少し気が解れたみたいだった。
 珪とお喋りをしていたら、母様がやって来た。母様は自宅側の病院へ移れるように手続きをしてくれたらしい。薬や症状についてはキチンと引き継ぐから心配しなくていい、とも。
「珪、少し買い物を頼まれてくれるかしら。」
 母様は万年筆を取り出して、珪に走り書きを渡した。
 買い物をして来て欲しい訳ではなく、シリカに席を外して欲しい様な雰囲気だった。シリカはそれを知ってか知らずか、快諾して病室を後にする。病室には、僕と母様だけになった。ベッドの側の木の椅子に腰掛けて、僕の右手に母様の左手が重なった。
「……母様?」
 いつになく真剣な表情だった。母様は元々冗談を言ったりしない極めて真面目な人だけれど、瞬きをせずにジッと見つめられると何か悪い事をしたのではないかと思ってしまう。もしかして、熱が出ている状態で海で遊んだことを叱られるのかもと身構えた。
「清陽。……そんなに気を張り詰めないで。」
 予想していたお咎めではなかった。言われている意味が分からず、僕は首を捻る。
「張り詰めるなんて、そんな事ないよ。」
 病気については半信半疑なくらいだ。皆があまりに悲愴な雰囲気になっても、僕は困ってしまう。
「皆を安心させようと、元気な振りをしてない?」
 心臓がドキリと鳴った。熱はかなり下がったし、食欲もある。僕はほとんど普段と変わらない。だから、だから……。
「それは……違うよ。」
 僕は変わってない。変わったと思えない。寧ろ病人扱いされたら、身体の中にある黒い泥が広がってしまうとさえ思える。
「僕が、いつも通りにしたいだけ……。」
 そう口にすると、堤防が崩れたみたく泪が溢れた。意図せず溢れるそれは呼吸を乱していく。
 母様は僕の肩を包むように抱いて、背中をさすってくれた。
 不安なんだ。でも僕は普段通りにしたい。僕は、本当に……。
「母様。僕、本当に死ぬの?」
 しゃくり上げながら、僕は母様にしがみ付く。額にキスを贈られて、ぎゅうぎゅうに抱き締められる。
「死なせるものですか。」
 母様の声にも泪が混ざる。でもそれは一瞬の事で、短い息が吐かれてすぐに芯の強い声が響いた。
「必ず、母様と 父様 ( マイスポーズ ) が助けます。だから貴方も、正直になりなさい。私たちに対して強がる必要は無いの。」
 幼子みたく散々に泣いて、僕は皆に愛されてると実感する。シリカにしか見せられない貌もあるけれど、それ以上に僕は、この人の前では只の子供で、この人はやっぱり僕の母様なんだ。
「僕、後悔だけはしたくない。学校も休みたくない。僕の珪と一緒に居たい。」
 母様の腕の中で表に出さずにいた事を漏らせば、新たに流れた泪を拭われる。
「……分かっています。だからこそ、貴方も自分だけの物を見つけなさい。」
 自分だけの物。ピンと来ないものだ。シリカは僕のものだと思うけれど、僕だけのものではない。父様や母様にとっても、息子の一人であるように。
「それは、例えば何?」
 泪で視界が歪んでしまったのを、指で擦って焦点を合わせた。母様は僕以上に美しい人だ。髪をシニヨンにして纏めていても、光輝いて天使の輪を作っている。
「サムシング・フォーというものを知っている?」
 鸚鵡返しをして尋ねると、母様は優しい声で教えてくれた。
「母様が父様と……清昌さんと結婚する時に、携えてきたものよ。」
 それは母様の国で伝えられる、花嫁が幸福に過ごす為のものだった。元は詩集であるとも。
 〈何か新しいもの〉、〈何か借りたもの〉、〈何か古いもの〉、〈何か青いもの〉の四つ。それらがあれば、新たな人生を幸せに過ごす事が出来ると信じられたものなのだという。
 貴方は花嫁ではないけれど、と前置きして母様は口を開いた。
「大人は誰もが皆、〈自分にとっての何か〉を携えているの。それさえあれば、死すら恐れずに前向きに生きられるだけの、何かを。」
「母様は、何を持っているの?」
 あまり他人に言うものでは無いのは承知の上で聞く。母様は少し目を伏せて、再び僕を見る。長くて絹みたいな睫毛が、緑の瞳を煌めかせた。
「清昌さんから貰った約束、母から借りた赤いリボン、祖父から譲られた今はもう無い家の鍵、そして私の名前。」
 母様は迷いなくそう言った。母様の名前はジェイド──緑や青の宝石に通ずる名前だ。
「僕にも、見つかるかな。」
「勿論よ。」
 神様は誰にでも用意しているわ。そう言って再び僕を抱き締める。
 僕にとっての何か。〈何か新しいもの〉は、シリカと分け合ったピアスだ。確信を持って言えるものは、今のところそれしか思い当たらなかった。その他は何があるのだろう。
 見つかるまでは死んでなんかいられない。病に斃れてなんかやるもんか。
 俄然気力が湧いてきたところで、僕のシリカが戻ってきた。珪の姿を見ただけで、心にあった黒い靄が晴れていく。
「母様、頼まれたものを調達してきましたが……。席を外した方が良いでしょうか。」
 母様に引っ付いている僕を見ての発言だった。僕も母様も、その台詞に可笑しくなってしまう。
「いえ、大丈夫よ。……貴方もお出でなさい。」
「己れも、ですか。」
 たじろぐシリカが余計に面白くて、僕も手招きをする。照れ恥ずかしそうにしながらも、僕の珪も母様にそっと寄り添う。
「貴方達は私の自慢の子供達です。愛すべき、私達の天使よ。」
 遠慮がちな珪も抱き締めると「嗚呼、大きくなって」と母様は呟く。もしかしたら生前仲の良かった和水さんを思い出しているのかもしれない。
 母様に二人まとめてハグされたのは久し振りで、心温まるのと同時に少し後ろめたくなる。
 
 ごめんなさい、母様。
 僕は、兄弟としてではなく、家族としてでもなく、シリカを愛しているんだ。
 
 この想いが、母様を傷つけやしないかと、僕のずっと後ろのほうで頭を擡げた。
 
  ◆ ◆ ◆
 
 珪が、僕の入院についてフロイライン達に詰め寄られたとぼやく。情報源は一体何なのかと苦虫を噛み潰す貌をするシリカに、僕は苦笑いを返すしか出来なかった。余りにも暇で手紙の返事を一人に返したからだろう。僕はその事は黙っておいた。
 シリカは彼女達に見舞いに一度だけ来て良いと言ったらしく、僕は勿論承諾した。
 日付については珪に任せて、彼女らの来訪を待つ。お客さんが来るのは、僕にとっても楽しみになった。
 
 そして良く晴れた日に、彼女達はやってきた。
「おや、僕の珪が席を外すから誰が来るかと思いきや!」
 歓迎の意味も込めて ( おど ) けて見せる。僕の珪は気を利かせて、病室から退出していった。溜め息混じりだったのは聞き逃さなかったけれど、彼女らに対する配慮を優先してくれたのは間違いない。
「良く来たね、フロイライン達。見苦しいところを見せて、本当に申し訳ない。」
 いつも通りの僕に彼女らの緊張感が幾らかほぐれたようだ。母様にはああ言われたけれど、学友やフロイライン達にはどうしても心配されたくなかった。僕は家族にだけは不安を出す事にして、今は彼女らの憧れの的であろうとする。
「大方、珪に脅かされてここに来たんだろう? ああ見えて、僕のシリカは大袈裟なんだ。」
 それは本当だ。症状としては軽微なもので、許されるなら今すぐにでも退院したいくらい。柔らかな笑い声に包まれるのは、真綿が降り注ぐ様な心地がした。
「でも、その。珪様が清陽様を心配なさるお気持ち、分かります……。」
 控えめだけれど、芯のある声の子を見る。嗚呼、彼女は珪を好いていた子だ。僕は彼女に謝らなければならない。彼女に対する、子供じみた嫉妬による行為について……。
 暫しの間が空いた。空気が揺れ動く。外から夏の風が吹き抜け、外の夏の香りが廊下まで駆けていった。
「おいで、フロイライン。僕は君に謝らなければならない事があるんだ。」
 いつもより硬質な声になってしまう。珪が居ない今なら、──そして、弱ってしまった今なら──素直に謝罪できると思った。
「毎日、珪へ手紙を書いてくれて有難う。」
 彼女の頬にさっと紅が差す。そして、瞳にも泪が滲む。その表情から、彼女がまだ珪を愛している事が見て取れた。シリカは、「物好きも居たものだ」と言って何度か返事を出していた。彼女と珪のやり取りは、どんな物かは見ていない。僕の珪はほとんど関心がない様だった。それでも、彼女の手紙に無意識のうち笑みを浮かべていたシリカを見た時、僕は心臓を握り潰される思いをした。
「僕は……。僕はね、君にも、シリカにも最低な事をしたんだ。」
 彼女が動揺しているのが伝わる。今では卑劣な行為をした自分に対して恥を覚えているけれど、その時の僕はそうせざるを得ないくらいに掻き立てられていた。珪を想う子だけではなく、他のフロイライン達も同様で、身を固くしていた。
「一学期が終わる前、手紙で珪を呼び出しただろう? だが、珪は来なかった。君は長い間待って、本当に長い事待って、泣いて泣いて、とうとう諦めてその場を離れたと思う。
 でもそれは、珪が君を嫌いだった訳ではないんだ。」
 僕の言葉につられ、はらはらと泪を落とす。乙女の泪は美しくて清らかで、僕の狡猾さとは対極にあるものだ。
 僕に手紙を託して、貌を真っ赤にして、一言も無く立ち去った彼女から手紙の内容は明らかだった。そして僕は、礼儀知らずにも封を切った。
 ……珪に宛てた手紙にも関わらずだ。
「僕はね、フロイライン。嫉妬深い男なんだ。君に珪を取られたくなくて、あの手紙、シリカには渡してないんだ。御免。御免よ。」
 彼女と額を寄せ合って眼から溢れる雫を落とす。他の子らも、同様に泪していた。
「僕が弱っている時に、酷い話をしてすまない。でも、僕にはもう、そんなに時間が無いらしいんだ。
 次、君に会えるのがいつになるか分からないから、今、謝らせてくれ。一生分恨んだって構わない。卑怯者と罵ったって良い。僕は、僕はそれだけの事をしたんだから。」
 治らないなんて思ってない。でも余命まで宣告されて、後がないのも事実だ。後悔だけはしたくない。これは謝罪なんかじゃない。ただ謝って、僕が許されたいだけにすぎない。それでも、これを逃したらこの子に謝る機会が無いかもしれない。
「清陽様、誰が貴方を責めましょうか。」
「私達は、もちろん貴方を好いています。ですが、お二人が闊歩するお姿が何よりも好きなのです。」
「ヘイゼル様、どうか。私達は強いのです。ですから安心して。」
 慈しむ声に、僕は堪らず泪を落とした。どうして僕はこんなに狡い人間なのだろう。いっそ怒られたらもっと楽に受け止められただろうに。
 これから出会う人や、出会った人を限りなく大切にしなくては、僕は潰れてしまう。
「底抜けに、優しいなぁ。」
 僕と彼女達は、特殊な絆で結ばれた関係だ。だからこそ、僕の想いも曝け出してしまった。フロイライン達は、そんな僕でさえも好きだと言ってくれる。
 僕は恵まれた人間だ。だからこそ、病で命を差し引きされたのかもしれない。
 
 外は、僕の珪と共に見た海と同じ色が広がっていた。
 限りなく冴え渡る、青空として。