若草の風に吹かれて

 僕が学校へ通い始めてから、噂が噂を呼んで、寮から学舎までの道程は混雑極まった。
 この見目で騒がれる事には慣れているつもりだったけれど、其れが好意から来るものだと強く出られない。敵意は無く、クラスメイトも気安くしてくれるし、フロイラインに持て囃されるのも悪い気はしない。何たって、新入生の挨拶を僕に任せてくれるくらいの校風だ。実力を見た目で否定されない事は、幸福なのだ。
 珪が僕を連れて登下校してくれるお陰もあって、僕は昔のことに想いを馳せる程度には余裕があった。
 
 小さな頃は、どうしたって心無い事も言われた。其の理不尽さの所為で僕はとても泣き虫だった。いつだって珪の側から離れなかったし、珪も珪で僕を守るのが使命になっていた。
 学校へ行き始めた頃まで——特に一年生に成り立ての頃——は、なかなか理解が得られなかった。
 僕が標的になって、珪が僕を守る。僕たちがたん瘤や生傷を増やして帰ると、珪の母様の和水さんが手当を施してくれた。消毒液が染みて涙目になったっけ。
 其れよりも珪が僕の所為で傷を負った事が、申し訳なくて、自分が情けなくて、悔しくて泣いた事も覚えている。
 其の時、珪の父様である菱さんから掛けられた言葉は、僕等の信条の軸として根を張った。
「一人では立ち向かえない事も、二人なら乗り越えていける。この傷は勲章だと思えば良いさ。」
 勲章、という言葉が光り輝いて見えた。
 珪が、僕を守る為にもっと強くなると言い出したのは、ごく自然な事だったと思う。そして僕も、守られてるだけでは強くなれないと考えるようになった。
 誰よりも強くなろうと決めた。特に珪に負けてられないと思った。だからこそ、切磋琢磨し合える関係があった。
 
 努力する姿を見ていた先生は、僕等を一層褒めてくれるようになった。
 元々、先生は一視同仁の思想を持つ人だった。先生は僕等の同輩に時間を掛けて説いた。時に、誰かが言葉で僕を突き刺す事を言おうものなら、其の子に怒声と拳が飛んでった。
 其の先生は部落に対する意識を改革しようとする人で、先生の信条の難しさや厳しさを理解したのは、僕が幾らか大きくなってからだ。
「宗田は誰よりも強い心を持っている。五月女は誰よりも優しい心を持っている。血を流せば同じ赤色だが、心の色こそが人の価値になる。」
 同じ赤色の中に混ざった心の色。其れを見分けられる人は身分に関係が無い事は、直ぐに理解できた。
 職業に貴賎なし。生まれに貴賎なし。最も貴いのは、人の持つ心である。
 先生は多くの人から反感を買う事もあっただろう。でも、僕は間違いなく、其の先生に救われた一人だ。
 
 僕は僕で、実力を身に付ける事で皆の模範となり、認められようと思った。お陰で一年生の半ばが過ぎた頃に馴染み、其のまま中等科に上がった後も、友人が出来た。けれど、珪の側からひと時も離れなかった。
 単純に僕は、守られていた頃から珪の事が大好きだったんだ。
 皆に認められようと思ったのも、僕の存在が珪を貶める要素に成りたくなかったから。でもそんな物は無用の心配だった。
 珪は珪で、メキメキと頭角を表して、誰もが認める秀才となった。隣に並んでも可笑しくない様に、僕も頑張った。
 いつしか、僕の方がほんの少しだけ珪を上回るのが常になった。
「清陽、次は泣きを見せてやるからな。」
「楽しみにしているよ。僕の珪!」
 珪はいつだって悔しがって、其れでも挑戦的な笑みを向けて、僕と共に駆けた。
 僕はそんな珪が、もっと好きになった。
 親友として、兄弟として、最も愛しい存在として、珪を愛していた。
 文武両道を掲げ、実行するのは大変な事だし弛まぬ努力が必要だったが、珪が居たからこそ、今の僕がある。
 否、僕の全ては、珪に結びつくんだ。
 
 父様と母様、其れに珪の父様に母様、恩師にまで恵まれたからこそ、僕は僕のままで居られた。
 だからこそ、僕は好きな人を好きなままで居られたんた。
 
 珪の両親が亡くなった日。覚えている。酷い雨が降った翌日で、気持ち良く晴れ渡る秋の日だった。僕の六つになる前だった。
 馬車で悪路を進んでいる時に、土砂崩れに遭った。亡骸はなるべく綺麗にしてもらってあったが、肩から上しか僕は見ていない。棺の窓から覗く二人は生きている頃と変わらぬ面差しであるのに、決定的に違うものになってしまったと理解した。
「まだお子さんも小さいのに。」
「優秀な人達が、本当に勿体ない。」
「お仕事に向かう途中だったと。」
「何て可哀想な。」
 優秀な菱さんに人当たりがよく美人な和水さん。二人を弔う声は、哀れみに満ちていた。
 珪は葬儀の間、始終茫然としていて、泣くどころか身動ぎもしなかった。珪の魂が抜けて、両親と一緒に天国へ旅立ってしまうのではないかと怖くなった。
 僕は二人が死んでしまった悲しみよりも、珪を喪うかもしれないと、涙をボロボロと流して、珪の手を握り続けた。
 二人が煙となって空に溶けて行く時、珪は光のない瞳で其の行方を追っていた。
 僕は僕で、其の光景から目を逸らしてはならない気がして、泪で頬を濡らしながら二人を見上げていた。
 珪は其の日から、ぼうっとしていた。話しかけ、ご飯を食べるよう食堂へ連れ、お風呂も一緒に入った。
 短い返事をするようになるまで三日。呼び掛けに応じるまでに更に三日。
 
 空高く、晴れ晴れとした日。珪は突如、ひっつき虫になった僕を振り払って、菱さんの事務所に駆け込んだ。
 憔悴仕切った表情で、ガランとした事務所を眺めていた。
 長い時間そうしていた。僕は珪を連れ戻すことはしなかった。何となく、珪にとって必要な事で、邪魔してはならない事だと察知したからだ。
 軈て、珪はワンワン泣き崩れた。僕は一緒に涙を流すぐらいしか出来ることが無かった。
 
 珪は其の日を境に、自身の事を《己れ》と言うようになった。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 友人は居たし、何人かで遊ぶことだってあった。其れでも、僕の特別な想いが薄れることはなかった。
 否、薄れるどころか、益々強くなっていった。時として其れは、僕の心に黒く焦げ付いた。僕が好いている珪がこんなにも素敵だと、周囲に知らしめたくもなったけれど、出来ることなら、珪の視線を独り占めしたかった。
 
 相反する心情は、今包まれている暗闇と同じく、果てのないものだった。
 
 例えば、こうしてフロイラインから茶屋の菓子を渡された時、どうしたって僕の貌は緩んでしまう。
「……お前は何という貌をして笑うのだ。菓子に女子に噛み殺せないほど嬉しいか。」
 的外れな台詞に、僕は噴き出してしまった。
「勿論そうだとも! なんと言っても愉快なんだ。」
 知っているかい?僕の珪。
 君がヤキモチを焼いている時、ほんの少し、左の眉が釣り上がる事を。
 子供の時から、ちっとも変わりゃしない。可愛い、可愛い、僕の珪。
 むくれた表情で、勝手に突き進む珪を追いかける。腕に戯れ付いて、不意に思い付いた渾名で呼び掛ける。
「待ってよ、僕のシリカ。」
 耳慣れない単語が聞こえたからか、僕の珪は視線だけで此方を見た。不機嫌そうな表情がいくらか和らいでいた。
「なんだ。シリカというのは。」
「独逸語で珪石はシリカスタイン。だから珪はシリカかなって。」
 学び始めた独逸語と仏蘭西語はどちらも新鮮で、そこかしこで使いたくなる。発音が独特で口に出すのは面白いし、響も珪にピッタリだった。
「安易な上に、其れは硅素ではないのか。」
「良いじゃないか。僕の好きな鉱石は石英なんだよ?」
 未だにへそ曲がりが治らない僕の珪に、有りっ丈の想いを載せて──其れでも、親友という立場でひっそりと隠して──愛を説いた。
「可愛い僕の珪。僕のシリカ。君の魅力は、僕だけが知っていれば良い。」
 途端、シリカは急に立ち止まった。反応出来ず凭れた体勢になったかと思うと、ぐいっと貌を近づけられる。
「……己れの清陽が、己れのヘイゼルが、其の輝きを他所へ易々と向けるのが気に入らん。」
 《僕のシリカ》に対する《己れのヘイゼル》と返された単語の意味は分からずとも、僕のことを指しているのは分かる。キョトンとしたままシリカを見つめると、得意満面にこう言った。
「良く聞け、己れのヘイゼル。あまり己れを嫉妬させてくれるな。
 お前の其の眼窩に嵌った淡褐色が、どこの馬の骨とも分からぬ輩の眼鏡に掛かる事が一等不愉快なのだからな。」
 ──僕の珪は、時々吃驚するくらい気障な事を言う! 
 自分の頬がみるみる紅潮していくのが分かる。羞恥よりも、歓喜に染まる僕の表情を見られるのが照れ臭かった。
「……僕のシリカ。あまり、そういう事は外で言う物では無いんじゃないのかな。」
「数えで十六年、己れのヘイゼルがそんな事を気にする性質だとは知らなかったな。」
 余裕ぶった表情が憎たらしくて、珪の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「この、薄ら鈍感のくせに! 僕より一寸ちょっと背が低いくせに!」
「言うに事欠いて其れか! 残念だったな、己れの背は着々と伸びている!」
「僕だって伸びているんだからね!」
「来年の測定で泣きを見せてやる。」
「どうだか。」
 程近い距離のまま睨み合い、やがて堪えきれずに噴き出す。春の夕方、気持ちの良い風がそよそよと間を抜けていく。
「帰ろう、僕のシリカ。」
「そうしよう、己れのヘイゼル。」
 活気ある通りの中心を二人で歩んでいく。若葉の香りが心地よい。
 
 シリカ。僕、君の事をずっと見ていたんだ。
 
 君の魅力は、僕だけが知っていればいい。
 フロイラインだろうが、マダムだろうが……いいや、僕に気がありそうな人と話すだけで、可愛らしい嫉妬を覗かせる君が、僕は大好きなんだ。
 
 愛してるんだよ、僕のシリカ。