二色に着飾って

 体育祭が終わり、次第に落ち着きを取り戻しつつある学校でも、年末の忙しなさが漂い始めていた。試験は冬休み明けのものを残すのみで、生徒たちは束の間の自由を手に入れたかの様に伸び伸びとしていた。僕はというと、企てた内容を本格的に練り始めていた。
 
 僕はまず、未来のシリカへと手紙を認めることにした。全力で病を治すのは勿論だけれど、何があるか分からない。だからこうして冷静に死後の準備を進められるのは、自分の運命について、受け入れられている証拠でもある(少なくとも泣き喚く様な気持ちは薄らいでいた)。
 僕が死した後のシリカに宛てるものと、節目を迎えるシリカに宛てるものを分けて書く。死んでから一年経ったもの、三年経ったものといった具合だ。何もなければ破り捨てれば良い。そして来年同じ物を書けば良い。そう決めて、僕の珪へと思いを綴った。
 例えば僕が死んだ後に、珪がお見合いしたらどうなるだろう。そう考えただけで、言い様も無い気持ちが腹の底から這い出てくる。五月女家は、シリカだけなのだ。僕の珪は誰かと夫婦となって生きる道を選ぶだろう。
 僕にはそれが、どうしても耐えられない。いっそのこと、五月女の姓ではなく宗田の姓になってくれたら良いのに。子供である内に養子に入ってくれたら……。
 そこまで考えて、流石にそれは望まぬ事だと頭を振る。僕の珪は僕のものであり続けて欲しいだけで、同じ姓になることが一番の望みではない。腹の中で渦巻くのは、なんて事のない、ただの独占欲だと自覚している。
 今だけ、この白い長封筒が疎ましい。帝国ホテルで行われるクリスマスパーティーの招待状だ。僕らも大きくなったし、一度貌を出すように言われたものだ。社交界にデビューするようなもので、高貴なオニキスの如き僕のシリカなら、見合いの一つや二つ来ても可笑しくない。
 何の解決にもならない事は分かっているけれど、僕は封筒をベッドの隙間に落として見ない振りをした。足元の火鉢で暖を取りながら、手元で綴られる手紙の文字を眺める。
 
 大丈夫だ。僕の計画は進んでいる。僕が何歳になっても、珪が医者になったとしても、僕の企みが上手く回れば、珪は僕から離れられなくなる。
 
 まだ自宅療養をしていた時に、父様と話し合った日──……。
 
 
 ◆ ◆ ◆
 
 父様の書斎はありとあらゆる本が揃っていた。小さな頃こっそり忍び込んで読んだ本は沢山ある。父様には当然、子供の誤魔化しなどバレていただろう。それでも叱られる事はなかった。
「父様、少しよろしいですか。」
 ノックをし、ドア越しに声をかければ歓迎の返事があった。部屋に入れば、以前よりも少し散らかった本と父様が出迎えてくれた。
「本、増えたね。」
「散らかっていて済まないね。何か見たい本があるのか?」
 パイプを燻らし、英字の本を片手に父様は日向に居た。一人用のソファーに沈み、リラックスしている。今日は仕事を一日休みにした様だ。
 ここの書斎も中々に洒落た雰囲気だと思う。収納しきれない本が彼方此方に置かれているが、不思議と雑然とした印象は無い。本棚の隙間から見える壁紙はロココ調で、日本で手に入らないものだ。暖かな光に満ちた部屋は、厳かでかつ温もりに満ちている。
「父様の意見を聞きたくて来たんだ。」
「ほう、何かな。」
 聳え立つ本棚の側にあった木製の椅子に腰掛ける。父様は読んでいた本に栞代わりのリボンを挟み、傍へ置いた。小さな円卓には珈琲が置かれており、湯気が揺らいでいる。
「現代の医療技術の進歩について、必要な事は何だろうと思って。」
 僕は一つ呼吸を置いて、切り出した。何度も反芻し、何度も練習したのだ。何としても理解してもらいたい。
「定番の答えとしてはきっと、弛まぬ努力に裏付けされた研究と、それから臨床実験だとは分かっているんだ。」
「臨床実験の歴史はまだまだ浅いが、そうだろうな。」
「僕の病も、その進歩によって治る日が来ると信じている。その上で、父様の意見が欲しいんだ。」
 父様は僕の貌を眺め、一つ頷いた。それを合図に、僕は組み上げた自論を展開する。
 名医を増やすためには、名医が認めた後継者が必要だと思っている。青は藍より出でて藍より青し、なんて事もある。
 じゃあ、その育成の為に必要な事は、一体何だろう。動物による実験は既にあるけれど、当てずっぽうな部分もあると見ている。それを積み重ねるだけで、今後の医療分野の成長は果たして見込まれるのだろうか。
 例えばもっと、本物に近いものが必要なんじゃないかって。
「……死にたての、人間とか。」
 その言葉に父様は一瞬、動きを止めたかと思うと、段々と厳しい表情になっていく。僕は怒られるのを覚悟していた。
「父様は、どう思う?」
「……その通りだ。」
 パイプを傍らに置いて珈琲に口をつける所作に、何処か硬さがあった。僕が話した内容に誤りは無いと判断してか、父様が重くなった口を開いた。
「病死した患者の解剖も必要に応じて行われる。実施した治療の効果や病の進行がどの程度進んでしまっているかを確かめる。そうして得た結果を次の患者へと応用していく。病理解剖と呼ばれるものだな。」
 無論、献体は遺族の同意が必要だ。父様はそう結んで、やや間があってから目を伏せた。
「僕は、それに志願したい。」
 今度こそ、父様は硬直した。目を見開いて、僕を注視する。何かを言われるより先に僕の主張を言ってしまわねば、と心が急いた。
「それでね、出来るなら珪に立ち会って欲しい。」
「……何を言い出す。」
「だって、何があるか分からないじゃない。こういう事はちゃんと決めておいた方が良いかと思って。」
 そうではない、と絞り出す声は今までに聞いた事がないくらい低く、怒りが込められているのが分かる。
「お前は今、治るの信じていると言ったな。なのに何故そこから献体を志願するという結論に行き着いたのか、と聞いている。」
 僕は父様に近づいて、膝を折った。良識的な父様に、僕の思いをどう伝えるのが良いのだろう。僕は探りながら言葉を探した。
「今、言った通りです。急性に転じたら一週間と持たないなら、慢性の内にあらゆる事を考えておきたいのです。」
「駄目だ。」
 今度は少しの間もなく突っぱねられる。一切聞き入れない返しをされて、僕は少しムッと来た。
「何故です! 今後の医療分野には不可欠であると、たった今、父様も仰ったじゃないですか!」
「それでも駄目だ!」
 父様が声を荒げる事は殆ど無い。びりびりと空気を震わす声量に、僕の身体は反射的に竦んだ。バランスを崩して、尻餅をつく。
「死んでから切り刻まれると考えたら、お前の母様は更に悲しむ。珪だって家族と言っても過言でない。親族の中身を覗き込んで、平静で居られる訳がないだろう! 身勝手にも程があるとは思わないのか!」
 身勝手という単語に、頭に血が登る。
 
 これは、僕の命だ! 僕の身体だ! 僕のものだ! 
 そうでないなら、僕は何も持ってないに等しいというのに! 
 
「僕の病はまだ研究が進んでいない! なら死後、有効活用出来るなら活かしたい! 
 その上、医師を目指している珪にだって良い学びになるじゃないか。なのに何故、そんな風に言われなくてはならないの!」
 只では死にたくないだけなのに! 箍が外れて言葉が溢れる。
 貢献したいと思うのは本心だ。ただ単に死んで焼かれて埋められるだけでは、本当の意味で病気に負けてしまったと思えてしまう。勢いよく立ち上がって父様に詰め寄るが、父様も一歩も譲らなかった。
「お前が死ぬなど、皆が考えないようにしているのが分からないのか! お前は自棄になる様な弱い人間ではないはずだ!」
 的外れな叱責に、僕の目に泪が溜まっていく。父様だったら分かってくれると思っていたというのに。失望とまではいかずとも、酷く落胆してしまった。
「違うったら! 父様の分からず屋!」
「落ち着きなさい!」
 乾いた音が部屋の中に響いた。ジンとする熱が頬に広がる。手で打たれたんだ。滅多に手を上げない父様から打たれたという事実は、実際よりも強い痛みとなって感じた。
 瞬間的にカッとなった頭は冷えた。それと同時に心の中で貌を出したのは、もっと奥底へ沈めていた、僕の本心だった。それから、本心の源泉となった、父様の秘密についてだ。
「……知っているんだから。」
 父様から目を逸らさず、瞬きもせず向かい合う。外の明かりが眩しく、僕の目を突き刺した。
「僕、知っているんだ。父様も正しく、僕と同じであったと。」
「清陽。お前は……。」
 父様の声を遮って、僕は口を開く。視線だけで見上げて眼力を強めると、父様は動揺している様子を顕にした。
「幼い頃、僕が珪へ、沢山キスをしたがっていたがっていた事を覚えている?」
 その頃を思い出して、僕は頬が緩みそうになる。好きだと思った時、感謝を伝えたい時、構って欲しい時。僕は事あるごとに、珪の頬や額にキスばかりしていた。母様や和水さんに、学校に行き始めたら控える様に言われていた。子供特有の、可愛らしい仕草として捉えられていたので、問題視はされなかった。
書斎ここで、父様と珪の父様が、しているのを見たからなんだ。」
 目撃したのは、単なる偶然だった。そしてその意味は親友同士だから行うものだと、当時の僕は思っていた。
 今は違う。僕がシリカへ贈りたいと思うものと全く同一であると確信していた。
「清陽、それは違う。私達は、恋仲ではなかった。」
 父様にきっぱりとした態度でそういわれる。声に迷いはなく、嘘がないのは明確だった。僕の中に次々と疑問が湧き出るけれど、口に出来たのはたった一言だった。
「……どうして。」
「それぞれに、守る物があったからだ。」
 守るもの。そう聞いて真っ先に浮かんだのは母様のことだった。次いで宗田家のこと。それから、きっと、僕のこと……。
 それでも、菱さんにもっていた情愛も間違いないものだ。菱さんは若くして亡くなった。珪という忘れ形見が居ても、簡単に耐えられるものではないはずだ。僕自身に置き換えて考えても、無理な話に思えた。
「……父様は。」
 声が震えてしまう。父様の心に空いた穴はどれほどのものだろう、と想像してしまう。
「父様はどうやって、菱さんの死を受け入れたの。」
 仕事に励むのも、僕らを溺愛するのも、その穴からくるものなのだろうか、と考える。
 僕の問いかけに対し、父様は無言で立ち上がった。何かを頭の中で逡巡している様子だった。額に手を当て、深く息を吐く。
 僕の貌を見つめて観念したように頷くと、錠の付いた扉の前に立った。
「おいで。」
 書斎部屋の奥、もう一部屋へ続く扉。そこはずっと鍵がかけられていて、僕達が入ることは出来なかった。それに扉は他のものと違って重厚な造りになっていた。幼い子供の腕では、まず間違いなく開けられなさそうなものだ。
「お前たちに入る事を禁じていたのは、ここが私と彼だけの、空間だったからだ。」
 錠が落ちる。ゆっくりと開かれる密された部屋。そこは古い紙や布の匂いに満ちていた。壁紙は書斎と同じものの筈なのに、随分と印象が違う様に見えた。
 掛けなさい、と椅子を勧められる。ソファー生地が縫い付けられた背板と座から、古びた布とお日様の匂いがした。
「……確かに、私はお前と同じだった。」
 昔話をしよう、と父様は言うと向かいの椅子に腰掛けて脚を組む。
「菱とは、お前たちと同じ頃に出会った。菱のほうが年上だったが、病がちでね。二年ほど留年していたが、人並外れた頭脳の持ち主だった。」
 秋というにはまだ早く、夏というには涼を感じる相半ばの季節に、父様の愛の歴史が語られる。背凭れに目一杯、身体を預けて仰け反る父様の姿は、陽の光もあって若々しく見える。
「菱は、よく私を揶揄って遊んでいた。私はその時、まだ菱より背が低くてね。」
 懐かしそうに目を細め、父様は微笑みを見せた。
「背を抜いた後も、何処か兄貴風を吹かせるのはずっと変わらなかった。……思い切って、愛を伝えたこともあったが、あいつは曖昧に笑って、それきりだった。」
「……菱さんは、父様を愛していなかった?」
「そんな事はないさ。」
 これもまた、きっぱりとした声音だった。父様と菱さんの間にある、特別な絆によるもので、他人が介在する隙間なんて一切ないと理解できてしまった。
「私達は恋仲になる事はなかった。だがね。」
 僕の手を大きな掌が包む。父様は背が高く、手足も大きい。僕もいつか、そんな風になれるだろうか。
「あいつは留学して、珪の母さんと出会った。そうして珪が生まれた。
 私は遊学して、お前の母さんと出会った。そしてお前が生まれた。」
 僕や珪が生まれた頃の話。生まれる前の話。丸で知らない世界のようだけれど、確かに繋がっている出来事だ。
「生まれてくる珪に、病がちな体質が似ないようにするには、どうしたら良いかを私に相談した。医者は向こうだというのに。私は夜を徹して凡ゆる方法を調べ、取り寄せた。」
 父様の瞳が潤む。同時に生き生きともする。目を逸らさずに見ていると、父様がどんどん青年時代へと還っていっているのを感じ取れた。
「菱は、お前の母さんを日本に連れ帰った時、差別や偏見なくただ一人! 心から私達の結婚を祝福してくれた。」
 分かるかい、清陽。
 父様の瞳のずっと深い所で、燃えている想いが覗き見えた。
「私にとって、菱は唯一無二の存在だった。お前の母さん……私の妻であるジェイドは、特別な約束を交わした人だ。」
 母様も口にしていた。父様とは、特別な約束を交わし、誓い合った仲だと。そしてそれは、母様の〈何か新しいもの〉として携えているものだ。結婚の誓いだけではない、何かを含んでいるのは明白だった。
「私と菱は、互いに唯一であった。だからこそ、恋仲にはならなかった。」
 心の中の特等席、というイメージが僕の中に湧いた。一人がけのソファーみたいな、上質な一席。否、きっと父様の中には色んな椅子があるのだろう。それぞれが特別で、それぞれがオーダーメイドの椅子で、一人ずつを大切にしているのかもしれない。
「愛したものが愛した存在を、どうして邪険に扱えようか。愛したものが慈しむ存在に、どうして溺愛せずに居られようか。」
 分かるかい、清陽。
 優しい声が僕に呼びかける。
「お前が、珪の事を大切に思っている事は知っている。珪もまた、お前の事を特別好いているのだろう。」
 父様の言葉が、乾いた砂に潤いを与える清水の如く、僕の心に染み込んでいく。それは僕の願いと決意をますます強くしていった。
 日差しは父様と僕の輪郭を焼いていく。夜に喰われる手前の輝きが、一層眩しい。爪の先に力が篭り、掌に突き刺さった。
「だからこそ僕は、後の事を決めたい。」
 父様は僕の拳に気がついて、手を取って解してくれた。僕の話を耳を傾けてくれようとしているのが伝わる。
「僕は、死ぬのが怖い。」
 家族相手に口に出すのは初めてだった。闊達に振舞ういつもの僕から、今の姿は程遠いものかもしれない。その言葉が、古びた部屋の宙に浮く。
「僕の与り知らぬ所で、黒く蝕まれている気配がするんだ。」
 病状は軽微だし、症状といえば薬の副作用くらいだ。でも病覚だけは冴え冴えとしている。口の中だけではなく、身体の中で黒いものが広がっていっている気がしてしまう。
 それだけに、後のことを考えるのは心を締め付ける。生きている間の未来を考えるのは楽しいし、そこには間違いなく僕の珪が側に居る。
 問題はその後だ。
「死が怖いんじゃないんだ。今、僕が死んでしまったら、珪は僕の何を覚えていてくれる?」
 一度は引っ込んだ泪が父様の貌を歪めていく。鼻の奥がツンと突っ張り、軈て頬が濡れていった。
「父様でさえこの部屋を用意していたくらいじゃないか。二人きりの空間を、こうやってとっておく必要があったから、この部屋があるのでしょう?」
 否定されなかった。父様は黙したまま、手の甲を撫ぜる。僕の推測は間違っていない。喉の奥に何の言語にもならない叫びが溜まっていく。
「珪は、僕を忘れはしないと言うだろう。……でも、珪は珪だけの長い人生があるはずだ! 僕の存在はその分だけ、その分だけ薄まってしまう! 僕たちはまだ若くて、持ち物も残せる物も、少ないんだ!」
 口にして、改めて自覚する。父様と母様から贈られたものは多いと思う。珪への想いは溢れるほどにある。
 それでも、生き続けながら獲得出来るものと比較してしまうと、到底勝ち目なんて無い。僕が先に死んで、珪が充実した人生を送れば送るほど、僕は後ろに追いやられてしまう……。
「……だから、お願いです。今生の願いです。僕が死んだら、珪に丸ごと渡して欲しいんです。」
 これは意見でもなんでもない。只の懇願だ。我儘かもしれない。それでも形振りなんて構って居られなかった。
 僕を忘れた未来なんて、僕には耐えられない。
「良いかい、清陽。それは珪に、お前を背負わせるという事だ。」
 父様から最初に言われたのは、溜息混じりの言葉だった。手の甲を撫でる動きが止まり、グッと握られる。
「人ひとりというのは、思っている以上に重い。普通は家族や友人と少しずつ持っていくものだ。そうして成り立っているのが絆であり、家族であり、引いては社会へと繋がっていく。」
 父様と菱さん、父様と母様、菱さんと和水さん──。それぞれ仕事をして、お客さんや生徒、患者さんなんかが居たはずだ。僕が、英語の原田先生と出会うように。僕が、迅人センセや唐崎先生のお世話になるように。
「お前がそれだけ望むのであれば、お前はお前だけで背負う自分自身を探しなさい。必要以上の物を、珪に持たせないために。」
「僕が背負う、僕……?」
 頷く父様は、大きな手で僕の両肩を摩る。こんな風に視線を合わせて、何かを教えて貰うのは何故だか久しぶりな気がした。
「いいかい。ちゃんと、心に留めなさい。
 人それぞれ、背負える大きさは違う。それを超えたものを持つと、忽ち人は弱ってしまう。
 珪に忘れられたくないのであれば、《必要な総て》を見定めなさい。」
 必要な、総て。
 その言葉は僕の腹の奥へ鉛の槍を突き立てた。
 きっと、珪に持たせなくて良い僕は、今みたいな僕だ。企み事を働いて、酷い独占欲に胸を掻き毟るような、そんな僕だ。
 思考がものすごい勢いで回り、頭の中でカチカチと音を立てて組み上がる。父様は、そんな僕を知ってか知らずか、柔らかく笑んだ。
「献体については、私のほうで病院を通して有識者から情報を集める。同意書や志願書を書くのは間違いないだろう。」
 微笑みというよりは、正しく駄々に根負けした父親の表情だ。
 僕の心に光が差し込み、拡がり、目一杯照らしていく。雲間から覗く救いの一言だった。
「誰に似てそんなにも強情なのか……。……他ならない、私かな。」
 諦め半分、呆れ半分といった表情だったけれど、そこには僕に対する愛情がちゃんとある。父様に摩られた手や肩がぽかぽかと温かい。
「分かっていると思うが、治療にはちゃんと向き合いなさい。それが大前提だ。」
「嗚呼、父様! 本当にありがとう!」
 僕が生き続ける大きな糧を得た気分だった。今すぐにでもシリカに知らせたいくらいだけれど、こればっかりは秘密にしておきたい。僕を頭の天辺から足の爪先まで贈ったら、僕のシリカはどんな風になるのだろう。
 僕にとっても珪にとっても、きっと幸福な事だと確信できる。父様と菱さんみたいに、他人が理解出来る余地などない様に、僕等にとってのみの幸福があるのだから。
 
 
 ◆
 
 招待状の存在をすっかり忘れてしまっていたのは、断じて態とではない。態とでは無いけれど、ほんの少しすっぽかしてしまいと思っていたのも事実だ。だがシリカが騎士のように素晴らしい仕上がりになるのは分かっていたし、僕も美容室で整えられ始めてから気分が乗ってきた。
 母様と並ぶと、僕は本当に瓜二つだと思う。母様行きつけの美容室なので、随分リラックスして居られた。
 僕だけドレスアップもここでして貰うので、美容室にある洋風なソファーには、僕に袖を通されるのを待つ紳士服が鎮座している。
「母様は、今日は何色のドレスにするの?」
「マイスポーズが今日は主賓に顔を立てると仰っていたから、落ち着いた色合いにするつもりよ。」
「母様なら洋紅色(ようべにいろ)でも映えそうなのに。」
「派手過ぎよ、それは。」
 髪の毛を切ってもらいながら、僕は母様とのお喋りを楽しんだ。母様もいつもよりずっと砕けた様子で、始終笑顔だった。
「ドレスを着て父様に見せたら、なんて言うと思う?」
「きっと、世界一美しいと言ってくれるでしょう。」
 特別な約束をした人(マイスポーズ)、と呼び合う仲だからこその台詞だと思う。僕も、早くシリカに見せたいと思ってしまう。
「僕の姿を見たら、珪はなんて言ってくれるかな。」
 頬が緩んで仕方がない。僕が着るものは、全て母様に見立ててもらった。……流石にメッチェンの格好にはさせられないとは思うけれど、母様の選んだものならきっと間違いないだろう。
 
 そうして、変身する時間は瞬く間に過ぎていった。母様は髪を纏め上げ、お化粧を施していた。まだドレス姿では無いけれど、それだけでも充分すぎるほど美しかった。僕はというと、どこぞの貴族かと思えるくらい、高貴な雰囲気を持つことができた。
 思わず鏡の前で、暫く自分を観察してしまう。黒のラウンジスーツ、純白のクラヴァット。発色が良い鮮やかな 金糸雀色の、斜め縞が入ったチョッキが差し色となっている。僕自身が光り輝く様で、病気なんて何処かへ飛んで行ってしまった。
「清陽。仕上げとして、これを差し上げます。」
 母様の手には赤いリボンがあった。幅広に縫われており、金糸で百合の刺繍が施されている。一目で特別なものと分かるものだった。母様が持つリボンで、思い当たるものが一つある。
「母様、それはまさか……。」
「前にお話した、私の〈何か借りたもの〉です。」
 僕はひっくり返りそうになる。そんな大事なものを受け取れる訳がないと断りを入れたが、母様は引き締まった表情で僕の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「清陽が、悔いなき様に生きようとしている事は知っています。」
 輝かしいリボンを、僕の髪の毛に結ぶ。低い位置で纏めていた髪が、煌めきを増した。丸で髪とリボンが一つの装飾品になったかに見えた。
「私の手元にあるより、今日の貴方を飾る方が良いでしょう。……珪に良いところ、見せたいでしょう?」
 大真面目な貌をしてそんな風に言うとは思ってもおらず、僕の貌にカッと熱が集まった。
「母様は、その……。」
 僕が珪を、唯一愛する人として見ているのを知っているのだろうか。上手く言葉に出来ず俯いていると、母様は鏡越しに、僕へ微笑みかける。
「愛する人を愛したいと思う気待ちは、きっと私に似たのでしょうね。」
 あまりにも優しい言葉に、僕は胸をギュッと締め付けられる思いをした。僕は恵まれすぎているのでは無いだろうか。色々な人から、僕は貰ってばかりだ。
「……ありがとう、母様。これ、僕の〈何か古いもの〉に数えて良いかな。」
「お好きになさい。それは、もう貴方の物なのですから。」
 母様に思い切り抱き着いて溢れそうになる泪を堪える。僕はまだ母様より背が低いけれど、幼い頃に感じたよりずっと華奢な細腕が僕の背中を叩く。
「愛しているわ、私の天使。」
 僕が悩んでいる事は、もしかしたら母様にとっては小さな事なのかもしれない。海を渡り、陸を超え、言葉も文化も違う所に嫁いだくらいなのだ。
「愛しています、母様。」
 
 心の中に、様々な色を持つ愛が埋まっている事を実感する。標べになる程の愛で、僕は満たされていたのだ。