錦の楓に燃える身体を

 夏休みが明けても、僕はまだ学校へ行く事は許されてなかった。自宅療養となり、週に何度か通院する。僕は主治医の先生に会う度、駄々をこねた。
「先生、僕はいつから学校に行けますか?」
 いつもの検査や診察を終えたら、必ずこの質問をする。そして、いつも同じ答えが返ってくる。
「体調次第です。週に一度は出している熱がなくなったら、考えます。」
 取りつく島もない言葉で、僕は頬を膨らます。
「熱といっても、大した事ないです。」
「程度の判断は先生が決めます。」
 主治医の先生は、唐崎先生という。子供の僕にも敬語を崩さない人だ。父様より三つ年上で、とても優秀な人だ紹介された。迅人センセとも知り合いらしい。滞在中の診察をしてもらうように紹介状を書いてくれたのも、唐崎先生だ。
「迅人センセはもっと優しかったのに。」
「今の清陽君の状態なら、日南田先生でも私と同じ事を言います。」
 僕は面白くなくなって、回転する丸椅子に座ったまままくるくる回る。
「療養ばかりで、とても暇なんです。」
 学校を休んでいても、授業に遅れないようにしている。教科書に沿って勉学に励みつつ、二日に一回のペースで帰ってくるシリカに手伝ってもらっているのだ。あまりにも暇だから、父様の書斎にある本を読んだり、お手伝いさんと一緒に洗い物をしたりしている。
「気力が漲っているのは良い事です。外出は今暫く控える様に。」
 ……通院だって外出じゃないか、という言葉はぐっと堪えた。自宅から馬車や人力車を使うまでもない距離なのだ。
 このままでは体育祭に間に合わない。その前に応援団の選抜がある。出来れば逃したくなかった。
「先生。」
「駄目ですからね。」
 有無を言わさぬ態度になり、僕は今日も失敗したと項垂れる。
「僕、諦めませんから。」
「体調を整えるのが先です。それに注力してください。」
 だからその体調は、もうほとんど良いというのに! 
 僕は地団駄踏みたくなる。流石に子供っぽすぎるので唸るだけに留めたけれど、唐崎先生は眉ひとつ動かさなかった。
 
 ◆
 
 残暑も引き、空の色や日光の色が赤味を増してきた。学校の授業に遅れるどころか、少し先を学習して進められている。一時的に落ちてしまった体重も戻ったし、背も少し伸びていた。《美しいヘイゼル》を保てていると安心出来る。
「だからね、先生。そろそろ良いと思うんです。」
 僕は今日も唐崎先生を説得する。結局、応援団の選抜からは外されてしまった。そのせいで、僕の機嫌はすこぶる悪かった。
 先生は溜息を吐いて、眉間のあたりを揉み解す。
「清陽君、君は自分が不治の病というのを忘れているのですか。」
「だからこそです!」
 溜め込んでいたものが、叫びとなって噴出した。大声を出してしまって見っともないと思いつつも、僕はもう止められなかった。
「僕に時間がないって言ったのは先生達じゃないか!」
 余命を告げたのは、正確には鎌倉に居た先生だ。でも医者からそう言われて、余命幾ばくかという前提があるから今でもこの状況が続いている。
「本当に、一年もなく死ぬなら、悔やむ事だけはしたくない! もし生き延びられるなら、尚の事学校に行きたい!」
 癇癪を起こした子供と思われても、なんでも良かった。枯木の老人みたいな暮らしをして死ぬのなら、燃え盛る勢いで日々を過ごしたい。
「僕はまだ、これからなのに! 学校の皆から置いていかれたくない!」
 シリカの好敵手であろうとするならば、尚の事。
 手当たり次第に物を投げようとして、先生に抑え込まれる。診察用のベッドに倒れ込んだ状態で、酷く喚き散らした。
 暫く叫んだり藻搔いたりしているうち、疲れから気が抜ける。水面が揺れて、保てなくなったものがグラスから落ちていった様に似ていた。
 先生は僕にちり紙を渡して、無言で宥める。僕の高ぶりが落ち着いた頃合いに、口を開いた。
「……今は、まだ暑い日もあります。もっと気候が穏やかになってから、学校に通えるように調整しています。」
 学校に、という言葉に僕は貌を上げた。
「学校側も受け入れる準備には前向きです。幾つか条件を付けるので、直ぐには難しい。確定していない状況で清陽君には伝えられなかった。」
 糠喜びさせる可能性もありますから、と付け加えられた。
「じゃあ、もう直ぐ……。」
「もっと秋めいて来てからです。」
 唐崎先生は微笑みを浮かべて僕に手を伸ばす。先生が笑うのは滅多になくて、僕は珍しい物を見たと表情に隠さずポカンとした。乱れた髪を撫で付ける手付きは優しさに溢れている。
 先生が僕の知らないところで、色々と進めてくれていたというのに、僕ときたら……。急激に恥ずかしくなり、貌を伏せた。
「ごめんなさい……。」
「分かってくれたなら、良いのです。」
 治療に専念しろ、というのは当然僕の為を思ってだ。僕の身の安全だけでなく、僕のしたい事を出来るようにする為にも、必要な事だ。
「あの、先生。」
 先生も迅人センセも、〈その人にしかない何か〉を携えて、今を生きているのだとしたら、それは一体どんなものなのだろう。
「何でしょう。」
 先生はいつも通り、威厳ある姿に戻っていた。何となく聞き出せる雰囲気ではない。
「……また来ます。」
「はい、待ってます。お大事に。」
 僕は診察室の扉を閉めて、穏やかな空気が流れる廊下の先を見つめる。〈何か古いもの〉〈何か借りたもの〉〈何か青いもの〉はこれといって見つからず、僕は少し焦っている。
 母様は人生の転機とも言える結婚で、全てを揃えていた。なら僕も、短期間で見つけ出すことは出来るはずだ。
 学校に行き始めたら、きっと僕の人生が動き出すと信じて、出口へと歩みを進めた。
 
 ◆
 
 寮の部屋は、シリカがそのままにしておいてくれた。そのおかげで、すんなり戻って来ることが出来た。
 前の晩から寮に滞在し、復帰祝いとして寮の皆が出迎えてくれた。無理はしない程度に、夜は早めに寝ようとしたけれど、興奮でなかなか寝付けなかった。僕のシリカとぎゅうぎゅうになりながらベッドに潜りこんで、どうにか眠った。
 朝の目覚めは、新たな世界が始まったと思えるくらい、眩いものだった。
「緊張しているか?」
 今日に至るまでの日を指折り数えていた。一日千秋とはこの事だと思い知った。シリカもきっと待ち侘びてくれていただろうし、外にいるフロイライン達もそうだろう。
 外套を羽織る手が震えてしまう。
「少しだけ。楽しみ過ぎて、どうにかなってしまいそうだ。」
 寮の外に待ち構えているのは、フロイライン達は勿論の事、太鼓の音から察するに応援団が居るみたいだ。諌める先生方に野次馬、通学中の生徒の騒めきが混ざって、玄関から離れたところまで届く。
「嗚呼、僕は愛されているんだね。」
 忘れられてなかった。置いていかれなかった。その事実だけで、僕の胸中には歓喜が渦巻いた。
「では、手を。」
「……どうしても?」
 僕もこのお祭り騒ぎのなか真っ直ぐ歩けるとは思っていないけれど、病人をアピールしてしまうと思えて躊躇った。
「己れが居るのだ。安心しろ。」
「うん。」
 履き慣れた、だが久しぶりに学校用のブーツへ足を通す。踵を鳴らし、履き心地を確かめる。このまま踊り出したくなるくらい、昂ぶってしまう。
 僕の珪に手を引かれ、玄関の戸を大きく開けた。外へ一歩踏み出した途端に、割れんばかりの歓声が響いた。まるでパレィドと錯覚するほどの眩しさが、僕を出迎える。
「まだ泣くな。これからもっと、熱烈になるのだぞ。」
「……分かっているさ。嗚呼、僕は! 僕は本当に愛されている!」
 僕へ様々な声と呼び名が反響する。応援団の太鼓が鳴り響き、校旗がはためく。激しいほどの熱量に、僕の身体は打ち震えた。彼ら全員に届く声で言い放つ。
「宗田清陽! 只今戻りました!」
 
 嗚呼、思えば。
 誰しもが、この時は信じて疑ってなかった。僕の病は、上手く付き合えば何とかなるものだと。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 まずは校門で待ち構えていた、竹造先輩。遠目からでも目立つ人だ。鍛えた肉体は衰えていないと直ぐに分かる。
「宗田、清陽。」
 厳しい表情で、僕を見下ろす。竹造先輩は背も高い。また伸びた気がするな、と思いながらにっこりと笑顔を浮かべる。
「宗田清陽、戻りました。竹造先輩。」
 呼び掛けると、先輩はぐっと唇を噛み締めた。こみ上げる泪を堪えているみたいだ。
「よくぞ、戻ってきた。」
 固い握手をして、視線を合わせる。潤んだ目が其処にある。角刈り頭は相変わらずで、変化のない先輩にどこか安堵していた。
「暫く勝負は出来ませんので、今なら口説かれても良いですよ。」
 その台詞に、僕のシリカが言葉になっていない叫びを上げた。口説かれても、心が揺らぐことは無い。それでも面白いものは面白いのだ。
「莫迦者。俺の知る宗田清陽は、軟弱ではない。」
 貌を赤らめて慌てふためくと思っていたのに、意外な言葉が返って来た。
「病に打ち勝った時、磨きに磨いた俺の技を仕掛けてやる! 其れ迄はこの勝負は預けておく! 人として、お前を尊敬している。だから、……。」
 そう言うと、夥しい泪と洟水が流れ出た。絵に描いたような男泣きに、先輩らしいと思える。釣られて僕まで泣きそうになるのをどうにか耐えた。
 先輩は僕が入院している最中、お見舞いには来なかった。きっと復学すると信じてくれていたのだ。
「己れのヘイゼル。先輩を揶揄ってやるな。」
 呆れ半分、嫉妬半分といった様子で僕の肩を叩く。先輩の横を抜けて昇降口へと向かえば、様々な人に声を掛けられた。
 同級生だけではなく、先輩方や先生方も温かく迎えられる。明るく笑いかけ、手を振って答えていたけれど、嬉しさで涙腺が緩んでしまう。決定打は英語の原田先生だった。
 厳しく気難しいと有名な先生だったけれど、僕はこの先生が好きだった。常に公平であるし、先生然とした態度は尊敬出来るものだ。
「宗田清陽、戻りました。これから騒がしくなりますがよろしくお願いします!」
 だから僕は、また叱られるつもりでそんな事を言った。浮かれるなとか、そんな檄が飛んでくるのを期待していたのだ。
「よく戻って来た。」
 普段への字に引き結んだ口元を僅かであるが緩め、少々外側に付いた引っ込んだ瞳には教師として生徒の心身を案じる様子がしかと見えた。
 予想していなかった歓迎の言葉に、僕の涙袋は耐えきれず、僕は貌をくしゃくしゃにして泣いてしまった。
「原田先生……!」
 先生に抱きついておいおい泣いていると、先生はそのまま僕の腰ベルトをむんずと掴む。
「復学の手続き。それから中間試験の代わりに復学試験。今日は別室で受けてもらう。」
「そんなぁ!」
 初日だっていうのに、別室だなんて! 
 僕の喚きは虚しく、原田先生にそのまま引き摺られていく。僕のシリカは合掌して僕を見送っていた。
  
 手続きは注意事項が書き連ねてあるものばかりだった。遠出が出来ない為、課外授業にあたるものは自宅学習となる事。部活動の禁止(僕は元より何にも入ってなかったのだが念の為)、通院を優先するため居残りの禁止などである。全て父様のサインがしてあったが、本人の同意として僕も署名する必要があるらしい。
 事前に聞かされてはいたが、制約が多い学校生活になる。
 僕は堪らず、溜息を吐いた。
「原田先生。あと何枚あるんですか?」
「これで最後だ。」
 ペラリとした一枚の紙には、激しい運動が出来ない為、体育祭等は参加不可になる旨が記されていた。
 想像していたとはいえ、胸にズシンと来る。黙々とサインをし、原田先生へと渡した。
「うむ。これで全てだ。質問はあるか。」
「体育祭、何かしらで僕も参加したいのですが。」
 原田先生は眉を顰めて、僕を見る。何かあっても責任が取れないから、きっと無理だとは思うが言わずには言われない。
「応援をしっかりしなさい。それだけで君達のクラスは百人力だ。」
 競技の参加は認めないが、応援の参加なら良い、との事だ。今の僕なら、それで丁度良いのかもしれない。
 溜息混じりに「応援頑張ります」と答えると、紙束を渡される。
「これは?」
「確認試験だ。」
 溜息が重くなるが、不安は無い。僕の珪に学力面は手伝ってもらっていたから、寧ろその実力を見せ付ける時だ。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 どうにか午前中の試験を終える。昼食もこのまま別室に居ろと言われ、僕は原田先生とお弁当を食べことになった。
 普段は食堂で食べることが常だったので、新鮮だった。渡された中身は先生のものと全く同じだ。
「このお弁当は、原田先生が?」
「うむ。」
 意外な一面を知ることになった。何の変哲もないお弁当だが、先生が料理をする姿が全く想像できなかった。
「意外です。そして美味しいです。」
「そうだろう。」
 正直に口にすると、先生は満更でもない様子だった。当たり前に差し出されて気付くのが遅れたが、お弁当を二つ用意してあるということは……。
「このお弁当、まさか僕に食べさせる為に?」
「一つ作るのも二つ作るのも、手間は変わらん。」
 聞けば、僕が復学する初日は騒ぎになると見越していた為だと言う。
 閉じ込められるのはいい気分はしないが、それよりも原田先生とゆっくり話が出来る機会になったのは嬉しかった。作り始めた理由だとか、卵焼きは素の味に限るだとか、他愛の無い事だ。
「男寡(やもめ)、大体のことはどうとでもなる。」
「原田先生なら、優しそうなお嫁さんが居そうだと思ってました。」
 頑固な夫に嫋やかな妻という構図ならバランスが取れそうだと思ったし、先生のイメージにも合っている。意外にも愛妻弁当なんかこさえて貰って、照れ隠しでへの字口になったりする姿が、想像しただけでも目に浮かぶ。
 原田先生は卵焼きを食べ、ふと微笑む。見た事がない表情で──見てはいけないものを見てしまった気がして──、心臓がドキリとした。
「全部食えたか。」
「はい、すっかり。ご馳走様でした。」
 そうか、と短い返事と共にすっからかんになったお弁当箱を片される。さっき浮かべた先生の表情は、原田先生らしかぬほど優しげなもので、僕は暫くぼうっとしていた。
「あっ、お弁当箱、洗います!」
「構わん。午後の試験に向けて、今のうちに厠にでも行っておけ。」
 食べっぱなしでは申し訳ないと思って申し出てみたものの、原田先生はいつも通りの先生だった。
 もしかしたら、〈原田先生にとっての何か〉があのお弁当の中にあったのかもしれない。
 〈僕にとっての何か〉は、身近な所にあるのだろうか。
 一先ず目の前の試験に集中するため、頬を両手で挟む様にぴしゃりと叩いた。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 漸く戻ってきた頃には、部活動に励む生徒ばかりが残る夕暮れだった。僕は魂が抜けそうなくらいの、安堵の息を吐く。
「本当に、どうにかなって良かった。」
 一日中、別室で手続きと試験漬けだった。久しぶりの登校や試験で、流石に疲労が隠せない。学帽を被り直し、椅子にしなだれる様に崩れていると、シリカはクスクスと笑った。
「シリカ。入院中、勉強も面倒見てくれてありがとう。」
「己れに張り合えるのはヘイゼルだけだ。好敵手が居なければつまらないからな。」
 これは尊大な意識でも無ければ、謙遜でもなく只の事実だ。二人で研鑽し合う内に、同じ事を同じ程度出来る者が互いしか居なくなってしまった。試合や勝負は同格同士が戦うからこそ楽しい。
 そして間違えて欲しくないのは、《どうにかなった》というのは落第しなくて良かったという意味では無い。休学中だったとはいえ、学力は僕の珪と同等を維持して来た。
「ところで、僕の珪は何点取ったんだい?」
 だから、こうやってシリカに挑発的な眼差しで尋ねたくなる。僕のシリカもそれを分かっているからか、中期試験の結果は、今の今まで伝えてくれなかった。
 古文漢文、外国語、第二外国語、数学、歴史学、倫理学の六教科、各百点満点の試験。予想では六点か八点差を付けられると思っている。
「五八十八点だ。」
 流石は僕のシリカだ、と心から讃えたくなる。予想していたよりずっと差を詰められていた。僕は暫く無言で、僕の珪を見詰める。
 そうしてたっぷりと間を取り、猫の様にニンマリと笑う。シリカはそれだけで敗北を察知したらしかった。
「五百九十点! また二点差だね、やったぁ!」
 嗚呼またか! と珪は叫び、頭を抱え、天を仰いだ。よっぽど悔しかったみたいだ。僕はほっと胸を撫で下ろした。
「危なかった。歴史学、九十二点だったんだ。」
「……満点が四つあるのか。」
「古文漢文、倫理学と数学。それから第二外国語。二学期から独逸語か仏蘭西語、どちらか一つになっただろう。仏蘭西語のほうが肌に合っていそうだと思って変えたんだ。」
 そう考えると、凡ミスが惜しい。外国語の問題用紙を思い返してボヤく。
「外国語の、スペルミスが一つなければ四点差だったのになぁ。」
 その台詞に珪はがっくりと頭を垂れる。よっぽど強い敗北感が伸し掛かっているみたいだ。
「暇な病人が動きもせず、勉強漬けだったんだから出来て当然さ。今回はシリカに大差を付けて勝てると思ったのに、流石は僕の珪だね!」
「……お前から讃えて貰えて、己れは心から嬉しいぞ、流石のヘイゼル。」
「そう沈む事は無いさ! 期末も頑張ろうね。」
 期末試験が本命だ。そこで大差を付ける為には、弛まぬ努力をするしか無い。それが《美しいヘイゼル》でいる事の第一条件みたいなものだ。
 シリカは早々に心を切り替えて、晴れやかな貌で僕のエスコートをし出す。珪には敵わないなぁと頬を崩した。
 帰りの花道こそ、きっと賑やかだ。かつてない熱気と快気祝いを、両腕に抱えて変える事になるのだから。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 通院にも通学にも随分慣れた。病を理由に応援団の選抜から落ちてしまった為、体育祭はする事がなく暇を持て余していた。写生会で大いに身体を動かせたので文句は言うまい。
 僕のシリカは応援団の一員として練習に明け暮れているので、終わるのを待っている。勉強にも飽きて、手持ち無沙汰になってしまい学校内をうろつく。あまり一人になってはいけないと言われているけれど、散歩くらいは良いと思う。
 各学年から選挙制度で二人ずつ選ばれる、名誉の応援団員。元々ある応援団を体育祭の時のみ増員し、紅白応援団として結成される。名前の通り紅白で組を分け、種目での競争とは別に、団員の演目でも争う事が伝統となっている。
 夏休みに入る前は僕と珪で間違いなしとまで言われていたので、参加出来なくなってしまった事はどうにも悔しかった。応援団でなくても、一般応援席に参加する事は原田先生に許可を貰ったのは幸いとも言える。
 中庭辺りでは、白組応援団が声出しをしていた。竹造先輩が、副団長を務めている筈だ。
「竹造せんぱーい!」
 後ろ姿でもよく分かる。三階から呼び掛けると、先輩は吃驚して振り返った。先輩の反応は一々面白くて、僕はヒラヒラと手を振る。
「五月女はどうしたァ!」
「紅組応援団で、励んでまァす!」
 僕だって、通る声は出るんだ。悪戯心を働かせて、白組応援団に呼び掛ける。
「組は違うけど、僕にもエールを下さァい!」
 そう言うと、竹造先輩は三年生の団長に視線を目配せする。団長は頷いて回れ右を号令した。一糸乱れぬ動きで、白組応援団はこちらを向く。冗談で言ってみたけれど、どうやら送ってくれるみたいだ。
「宗田に向けてェ! エールを送る!」
 窓枠がビリビリと揺れるかと思うくらい、しっかりした声援だった。強いエネルギーというのは、それだけで身震いしてしまう。
「満足かぁ、宗田清陽!」
「ありがとうございます! 僕、紅組も応援してます!」
 照れ臭い様な、恥ずかい様な、むず痒さを覚えた。竹造先輩は、男が認める男だ。無論、エールを送ってくれた応援団の皆も。
 
 僕はこれだけで満足だったのに、先輩ときたら! 
 
 体育祭当日。僕は白組応援団の側に引っ張り込まれた。
 一般生徒は、応援団とは違う席になる。にも関わらず、シリカが僕の手を取って長ランを翻してエスコートする。
「紅白応援団で決めたことだ。……それから、大莫迦先輩には後で礼を言っておけ。」
 訳もわからず、白組の団長と珪に挟まれて整列する。紅白応援団の応援合戦は終わったし、十分に圧倒された。演目としては、次の競技に移る頃合いだというのに。
「宗田清陽ィ!」
 聞こえてきたのは、間違いなく竹造先輩の声だった。紅組団長ではなく、竹造先輩が台に立ち、声を張り上げている。大太鼓の音が、僕の心臓にまで響いた。
「病に負けず、周囲に負けず、己に負けず!」
 この時の僕は、目の前の出来事を受け止めるのに必死だった。先輩、そこで何しているの。僕は、紅組で、一般生徒だというのに! 
「研鑽を積む貴殿に、尊敬の念を表し、エールを送る!」
 熱気を孕む空気を割いて、僕の胸の真ん中に声援が刺さる。三階から送られた時とは比べ物にならないくらいの熱量が、真っ直ぐ僕に向けられた。
 こんなの異例中の異例だ。そんな事は一年生の僕にも分かる。これを実現するのに、貴方は一体どれだけの人に頭を下げて回ったの。
 男らしくないのは分かっていても、こんなの、泪するに決まってる。不器用なくせに大胆な竹造先輩の想いを受け取って、僕は両手で貌を覆う。
 僕に向けるものは情愛だけではないのだ。人間としての強さや振る舞いを認めて、竹造先輩は壮大なエールを実現させてしまった! 
 目頭が熱く、視界が歪む。こんなの反則だ。心が揺れ動いて勢い良く泪が溢れるのだって、仕方がなかった。
 
 ◆
 
 体育祭が終了してすぐ、僕は竹造先輩を探し出した。
 閉会式と表彰式を終え、応援団は打ち上げへと出掛けてしまうだろう。その前に何としても捕まえたかった。
 昇降口の前辺りに、大きな背中が見える。僕は堪らず駆け出して、先輩に飛びついた。
「そ、宗田!?」
 再びあのエールを思い出し、僕は涙目になる。周囲の生徒が冷やかし半分に竹造先輩へ声を掛けて、去っていった。
 埃と汗が染み付いているが、ちっとも嫌な臭いに感じなかった。先輩は僕を剥がし、正面から見据える。
「先輩、……!」
 僕はおろおろとする竹造先輩にしがみつく。大きい掌が置き場に迷っていたが、僕の頭を何度か撫で付けた。
「エール、ありがとうございました。僕、絶対に病気を治します。」
 僕が、あの声援に応える為にはそれしかない。言葉にせずとも、完治を願ってこそのエールなのだろうから。
「……俺は、お前が好きだ。一人間として。一人の男としても。」
 落ち着いた声音に、僕は貌を上げる。貌を真っ赤にしつつも、竹造先輩はいつもよりも平静な様子だった。
「だからお前の病が治るのを待つ。その間に、お前を口説ける程、俺は強い男になる。病に打ち勝つ心を持つお前に、釣り合いが取れるほどになるまで。」
 ベタベタと愛の言葉を垂れ流すよりも熱烈な告白だった。僕は十分に、この人から愛されているのだと知る。
「これ、借りといてくれ。」
 差し出されたのは、ハチマキだった。今日の応援で身に付けていた物だ。隅には先輩の名前が刺繍されている。
「卒業した後だって良い。来年でも、明日でも良い。お前の病が治ったら、返してくれ。」
 その時はまた、それを締めてお前にエールを送る。そう言葉を添えて、ハチマキを握らされた。
『先輩って、やっぱりお莫迦さんだなぁ。』
 僕は泪を拭い、そのハチマキを額に締める。伸びた髪に絡んで、ハチマキの白が夕陽に染まった。
「宗田清陽。精一杯、精進します。それまでは先輩の思いを、お借りします。」
 この人の声援があれば、僕はこれから降りかかる困難に立ち向かえる。これは、僕にとっての〈何か借りたもの〉足り得るものだ。
「愛してます、竹造先輩。男が認める男として。」
 握手を交わして、先輩は校舎へと向かっていった。先輩を見送っていると、遠くで僕のシリカの声が聞こえてくる。
 ハチマキをポケットの中にしまって、僕は珪の方へ駆け出した。
 
 僕は、身体が錦に燃えているのを自覚する。赤く、盛んに、秋の中で。