松虫草で弔って

 優しい冥闇の中にいる。
 刹那的な夢を見た。水面からゆっくりと浮上する感覚に眼が開く。開く、と言っても、黒い景色に切り込みが入って、そこから木目が遠くに見えるだけだった。病室であると合点がいき、手の平に温もりを感じとる。
 何度か眼球を動かすと、美しい黒が見えた。
 シリカ。シリカだ。僕の、美しいノワール。何者にも染まらず、僕に強さをくれた、僕の珪……。
 声は出なかった。どころか、口周りが強張って一寸も動かせなかった。
 珪は僕の見つめ、手を強く握る。此処に居る、と語りかけてくれる。
 なんだい、君、物凄く思い詰めた貌をして。いつもみたく寝坊助な僕を揶揄ってくれよ、僕のシリカ。
 軽口を叩きたいが、其れを言うだけの空気が吸えない。破れた紙風船みたく、吸っても何処からか抜けていってしまう。
 嗚呼、せめて。せめて僕にとっての青が手に入った後なら、いつ死んでも良いと思えただろうに。月の青白い光が珪の肌に差し込んで、滑らかな夢の景色に思える。美しいけれど、此れは僕にとっての青ではない……。
 珪が好きで、大好きで、だから今は恋人同士で、だというのに僕は未だ、満ち足りずに居る。
 珪は此の先、どんな人生を送るだろうか。其処にきっと僕は居なくて、それが堪らなく悔しい。認めた手紙だけでは、僕の輪郭は褪せて霞んでしまうかもしれない。生き続けられるならまだしも、死した後の不安は、結局この終末でも越えられなかった。
 『上手くいく。上手くいくとも。僕を連れ去るしか、珪は出来なくなる……。』
 珪が迎えるであろう、数々の節目。僕が死んでしまったら、渡して欲しいと頼んだ手紙はその時の為のものだ。
 僕が死んですぐの頃、高等学校を卒業する頃、成人する頃、結婚する頃、子供が生まれる頃、……。
 珪は優秀だから留学するかもしれない。父様と同じく、海外で恋愛して、お嫁さんを娶るかもしれない。或いは父様や母様がお節介を焼いて見合い話を持ってくるかもしれない。
 でも、僕はもう、その頃には居ない。
 愛している。愛しているからこそ、僕に全て奪われて欲しい。
 僕が珪に丸ごと連れ去るには、僕が珪の総てを奪うしかない。人ひとりが背負える全てを可能な限り広げるならば、心の空間を大きく空ければ良いと考えたのだ。事あるごとに、今の僕がシリカの心に染みとなって広がれば、と……。
 献体で僕を余すところなく差し出した上での手紙なのだ。頭の天辺から足の爪先まで、シリカの糧にして欲しい。血も、肉も、骨も、魂さえ!
 僕を抱えて、分け合ったピアスや交換したピンブローチを携えて、僕を思い続けて欲しい……。
 出来るなら、珪のブローチを──そういえば、母様に聞いてみたら松虫草だと教えてもらったもの──、僕の棺に入れてもらいたい。ピアスは……珪のもう片方の耳にも穴を開けられるならば、両耳に身に着けてもらうのも悪くないかもしれない。〈何か新しいもの〉としてのピアスは、既に僕の耳に傷としてあるのだ。そこから流れる血を思い出せるなら……。

 僕は、非道だ。《翡翠の天使》なんかではない。僕だって、罪深い人間に過ぎなかったんだ。
 
 視界が歪む。目に涙の膜が張られていく。珪はただ、僕をジッと見つめてくれた。
 その瞳には、僕へ向けた有りっ丈の愛が載せてある。最期まで、珪は僕の隣に居てくれると分かる。
 嗚呼、幸福だ。とても、幸福な事だ。
 それでも僕は、君からの愛だけでは駄目だった。パーティーの夜に、溶け合うくらいの想いを確かめあうことで、より強まってしまった。
 君の総てを欲している。総てを失って、僕への愛情だけを持つ珪を、僕は愛してしまったのだ。
 出来るなら。澄み切っていて、それでいて窒息しそうなほどに僕だけを想い続けて欲しい。僕を喪って、それが悲しみであるとも気が付けない珪を愛したい。死しても、それでも、ずっと……。
 
 僕は宗田だった。君は五月女だった。でも、今は、僕のシリカで、君のヘイゼルだ。君は、僕が一等愛した人──。
 
 愈々輪郭を無くした視界に、僕は目蓋を閉ざす。
 シリカと交わした口付けの後に見た冥闇ではなく、それよりも無機質な黒に覆われていく。
 こんな黒もあるのか。冬の雲や空の間にある冷え切った夜は厳しさのある黒だけど、それとも違う。
 此処から先には何もないと分かる、黒だ。眼を凝らす先すらなく、切り立った崖でもなく、聳え立つ壁でもない。只々、僕の道は此処までなのだ。
 そう理解した途端、不意に身体が軽くなる。目の前は黝(あおぐろ)い闇となり、泡沫が身体に纏わりつく様な感覚だった。肌の上を羽毛が撫ぜる様な、細かな泡が洗いたてて行く様な……。
 
 青みがかった景色の中、一瞬何かが光る。
 
 注視するやり方を身体が忘れてしまったのか、焦点が合わない。光を探る為にその方向を探し、近付こうと藻掻く。
 その間に青みは深まり、褐色(かちいろ)、藍色、濃縹(こきはなだ)を経て群青色になる。夜明けに見せる空の表情に似た変化に僕は戸惑うばかりだった。
 僕は死んだのでは無かったのか。いや、死後の世界に足を踏み入れたのだろうか。そうであるなら、神様に言う事は決まっている。
 
 遠くに見える散らつきは白波の様にも見えた。掴もうとして腕を伸ばしたつもりが、感覚が上下逆転して、僕は真っ逆さまに落ちていく。
 果てのない浮遊感に慌てたのも束の間で、僕に似た何かとすれ違う。似ているけれど、全くの別物で、でも根源的には同じ物。目が合ったのが分かった。その刹那、永遠にも感じられる時の中に放り込まれた心地がした。
 君は、と尋ねれば、彼から穏やかな笑みがこぼれる。明瞭に姿が捉えられないが姿形は似ている。似過ぎている。
「僕は君だった者。君は僕だった者。きっと、これ切りさ。」
 花が歌う様だった。漣(さざなみ)が足首をさらう。いつの間にか僕は、見知らぬ浜辺に降り立っていた。
 朧げな月が紺碧の空を彩る。辺りを見渡しても、僕らしきものは何処にもいない。
 走馬灯の続きなのだろうか。砂を掬うと細かに砕けた貝や珊瑚ばかりだった。星が燃えて、落っこちて来たものにも見える。
 波は驚くほど穏やかだ。滑る様にして陸を濡らす小波は、暑くも寒くもない夜の中で、僕の足元を行き来する。
 次々と切り替わっていった景色を思い出しながら、あてもなく波打ち際を歩いた。鎌倉の海とも違う。何処かの国の無人島か、それとも僕だけに用意された醒めぬ夢の中か。
 左を向くと見える陸地は平地で、遥か遠くまで続いている。所々に背の低い草が生えていて、赤茶けていたり、黄緑に光っていたりしている。右側の海には岩一つなく、ふしぎな光景をぼんやりと眺めていた。
 唐突に、大波が僕にのし掛かって来た。突然の海水に目を白黒させる羽目になる。体勢を崩したせいで、濡れ鼠の砂塗れだ。砂と潮が口に入り、思わず口の中の唾液を吐き出して居ると、右手の中に何かを握りこんでいた。
 
 丁寧に編まれてある紐に通された、小指の先くらいの、小さな青色。シリカと分け合ったピアスと同じ形をした、淡い青色の雫。硝子で出来たそれは、チョーカーなのだろう。留め具は黒ずんではいるものの、細かな彫刻が美しい。
 月明かりに照らすと細かな気泡を含んだ瑞々しいソーダ水にも見えた。
 カチリ、と歯車が噛み合う音がした。──否、もしかしたら、僕の心臓が止まった音かもしれない。
 目の前できらめく光は倍増に倍増を重ね、僕を丸ごと包んでいく。爽やかな風、涼やかな透明、目の覚める青! 
 此れだ。此れが僕にとっての、〈何か青いもの〉! 
 嗚呼、嗚呼! なんて事だ。見つからない筈だ。いくら探しても! 
 死して初めて、〈僕にとっての僕の総て〉が揃うなんて! 僕の未来が潰えねばシリカが手に入らなかったのならば、それもそうだろう! 
 眩い光の中、僕は再び僕のシリカと共にあった日々を駆け抜ける。
 
 若草の風、熱砂の浜辺、紺碧の湖、錦の楓、琥珀色の夜、純白の学舎、……。
 
 僕の珪が、真っ白な部屋の中で笑っている。けたゝましく、螺子が切れたからくり人形みたく、笑っている。父様は珪を落ち着かせる為に何か言っているけれど、シリカにはあまり響いていないみたいだった。
 「嗚呼、楽しみです。清陽が、己れの清陽が、己れの為に……。まるで、総ての人生を捧げられた様な……壮大なプレゼントの様です。」
 珪は恍惚とした表情で、蕩けた声でそう言った。きっと僕のシリカにとっても、今生一番の幸福を得たのだ。
 
 ほらね、僕の珪。言った通りさ。
 
「どうだい、上手くいっただろう?」
 
 僕は踊り出したい気分だった。きっと僕の顔は自慢気に、頬を染めてる事だろう。
 シリカへ手を伸ばしたが、そのまま引き込まれる様に真っ暗闇へと落ちていく。
 
 墜落感の中で、僕は身に纏った〈僕の総て〉それぞれに触れる。
 
 僕を弔って欲しい。その悲しみに満ちた、僕への愛で。