微睡みと企みを

 爪を切られた日を、覚えている。
 今ではシリカが僕の爪を切る習慣が根付いてしまった。切っ掛けは、夏休み中の風が気持ちよかった別荘での日々。
 
 寝惚け眼のままで、僕は手探りを繰り返す。
 部屋の洋燈は朧げな光を齎した。日が陰った部屋の中ではシリカが僕に密着して眠っている。ヴェルヴェットのソファーの上で、僕等は子供みたく丸まって昼寝をしていた。
 昼寝というには寝すぎたかもしれない。外から聞こえるのは風が走る音くらいで、夕飯の匂いが胃袋を擽る。
 コックと、メイドと、馬車乗りを連れて、例年通り五月女の別荘へやって来た実感が湧き上がった。
 主治医の先生に散々駄々をこねて、何とか取り付けた療養だった。どうしても僕は、この別荘に来たかったんだ。
 病気の所為で、なにかを取りやめたり諦めたりするのは我慢ならなかった。
「シリカ、僕のシリカ……。」
 額にキスを落とすと、瞼がむずむずと動く。つられて踊るのは、くっきりとした黒い睫毛。花が開く様に、瞳がそっと開かれた。
「僕より起きるのが遅いなんて、珍しいね。」
 そう声を掛けてみたけれど、まだ寝惚けているらしい。言葉にならない呻きみたいな返事をして、目を擦った。
「己れの清陽……。」
「うん、君の清陽だとも。僕の珪。」
 幼子みたいに見えて、どうしよくもなく愛おしくなる。
「夕飯までもう少し時間がありそうだけど、どうする?」
「……まだ、暫くは。」
 そう言うと、僕を引っ張ってヴェルヴェットのソファーに再び沈めた。僕を腕の中に閉じ込め、僕の髪の毛に鼻を埋める。
 僕は、シリカの胸の鼓動を聞く。此処が、僕のシリカの中心。洋シャツ越しに耳をくっつければ、血潮の音も聞こえてくる。
 僕の不安や、僕の迷いを払拭する音だ。この温もりも、香りも、全てがずっと僕のものであれば良いと思ってしまう。
「愛しているよ、僕のシリカ。」
「己れの、台詞だ……。」
 独り言のつもりで呟いたけれど、思いがけず返事があって、嬉しさで心がコロコロ転がる。小さく笑って、珪を抱き締め返した。
 ある意味、永遠の様なひと時だった。薄暗闇の中、肌触りの良いヴェルヴェットの感触と、珪を全身で感じる。
 洋燈の光が僅かに揺れ、僕等の影は一つの塊となって浮き上がっていた。
 
 ◆ ◆ ◆ 
 
 紹介された町医者の先生は、太陽の匂いがする人だった。療養中にお世話になることになっていて、何とも気さくで温かな雰囲気を纏っていた。
 寝惚けてしまったまま、シリカにおはようのキスをねだるところを見せてしまった。
「すいません、すっかり寝入っていました!」
 慌ててベッドの上で正座すると、先生は柔らかな笑顔を浮かべる。
「良いんだ。安眠は健康体への第一歩だからね。早速始めようか。」
「宜しくお願いします。」
 僕と珪でペコリと頭を下げる。検温、脈拍の検査、喉の確認をして、先生は一つ頷いた。
「随分良さそうだね。君の主治医から聞かされている事が合っているか、確認しても良いかな?」
 視線を合わせてそう言う先生は、とても安心できる人に思える。町医者、となると年寄りや小児が多いのだろうか。醸し出す空気が、そういった弱者の警戒を解くのに長けている様に感じた。
 僕の代わりに、シリカが病気の進行や服用している薬を伝えてくれた。頼りになるなぁと思いながら、二人のやり取りを眺める。先生に対して堂々と受け答えする僕の珪が誇らしい。
「また夜に来ます。激しい運動はなるべく控えてくださいね。」
「どうぞ、二週間ほど頼みます。」
「ありがとうございました。」
 恥ずかしい思いをしたけれど、元より相手はお医者さんだ。患者は大抵弱っている存在なのだから見慣れている筈で、きっと何も思わないだろう。
 僕は、なるべく元気で明るい素振りをした。というか、実際これといった不調は無い。
 簡単に挨拶をして、夕方にまた診察の約束をする。
 家の前の坂を降れば程なくして姿は見えなくなった。
「僕、あの人好きだなぁ。」
「はっ?」
 その台詞に、僕のシリカが大袈裟に振り返る。随分と動揺した声だった。
「お前、これから世話になる医者だからといって、気を許しすぎではないのか!」
 キョトンとしてしまったが、直ぐに合点がいった。ポロリと落ちた言葉だったが、勿論医者としての信頼だ。
「そういう意味じゃないよ。シリカは可愛いなぁ。」
 頬が緩むのを我慢できず、僕のシリカの頬を突く。何か言いたげだったけれど、軈て気まずそうなへの字口になった。
「……確かに、布団の様な人だったな。」
 何かの負け惜しみみたいな言葉に、僕は噴き出してしまった。
「布団って!  あれはお日様の匂いだよ。」
「どちらも似た様な物だ。」
「そう拗ねるなよ、僕のシリカ。」
 ヤキモチ焼きなシリカが可愛くて仕方ない。後ろから抱きつくと、拒絶はしないけれど素直にも受け取れないといった様子だった。
 会話の切り替えをしつつ、今日したい事を言えばすんなり通るかも、と下心を持って頬を擦り寄せる。
「今日は天気も良いし、小川へ行きたいな。」
 僕の企みなんて、シリカにはお見通しだろう。やれやれ、といった様子で、後頭部をガリガリと掻いた。
「その前に朝飯だ。着替えてこい。」
 ヤキモチが僕にバレてしまって、一瞬だけでも一人になりたいのだろう。無表情を取り繕ってるが、紅に染まった頬が物語っている。笑いを殺しきれていない返事をして、階段を登る。
 珪は、僕の事を愛してくれているのだろう。起き抜けに甘える僕も、背筋を伸ばして受け答えする僕も、好敵手であり、親友である姿を気に入ってくれている事だろう。
 でもそれは、僕が健やかで美しいことが前提だ。僕は、漠然とした病に対する不安について、正体の目星を付けていた。
 病気になり、僕が気が付かないうちに存在ごと黒ずんでいっても、変わらず僕の事を愛してくれるだろうか。死ぬのは明日かもしれない。そう考えると喚き散らしたくなる。
 それでも今は、お腹が空いていて、シリカとの朝食は楽しみだ。
 今日も一日、健やかな自分であろう。洋シャツに袖を通して、鏡に映る自分へ笑みを向けた。
 
 ◆ ◆ ◆ 
 
 二人して小川ではしゃぎ回り、しかも後先考えずに飛び込んだので、僕はお風呂に投げ入れられた。シリカもシリカで身体を温めるため、一緒に湯を浴びたけれど、長湯するのもよくないと言って二百数えて上がる。テキパキと寝巻きに着替えさせられて、自室のベッドに放り込まれた。
「シリカ。僕はそこまで眠くないのだけど。」
 多少むくれて見せたけど、珪はすっかり看病モードになっていた。
「冷たい川に飛び込んだのだ。寝入らなくても良いから横にはなっておけ。」
「はいはい。僕の珪がこんなにも優しいのは、他ならぬ僕の為だものね。」
「分かっているのなら良い。」
 天井を眺めるだけでは退屈なので、寝転がったまま川のそばで拾って来た石を観察する。照明に翳すと貫通した光が拡散して、キラキラと光りを纏った。
「それは、さっきの。」
「石英に似ているな、とは思うんだけど。」
 後で図鑑ひっくり返さなくちゃ、と呟きながらベッドの上で寝返りを打つ。掌で石を踊らせると、また違った表情が見えた。
 水晶に似た物が黒ずんでいる。病気に罹った僕に、少なからず重なる。燻された様な灰色は、それはそれで綺麗にも思える。
 これは御守りにしようか。例え僕が蝕まれたとしても、僕はきっと美しい──……。
「なんだか、眠いや……。」
「それはそうだろう。体力を使ったのだからな。」
「シリカは?」
「添い寝を所望するなら、やってやる。」
 石を持つ手ごと、シリカの手が重なった。手を繋ぎ続けると、互いの境界が曖昧になっていくと知っている。このまま僕の珪とくっついて、一つになれたら良いのに。
「また寝惚けて、先生の前でキスしても良いのかい?」
 揶揄ってみると、シリカはニヤリと笑う。
「今すぐ、その減らず口を塞いでやっても良いのだぞ。」
「ふふっ、期待しちゃうな。」
 口ばっかで、する気なんかないくせに。それでも嬉しい事には変わりない。まだ明るい外からの光が、祝福しているように思える。
「良いのか、本当に。」
 手を握ったままで、シリカが僕に覆い被さる。額にかかった髪を梳かして、睫毛が触れる距離で僕の瞳を覗き込んだ。
「え?」
 言葉の意味を咀嚼出来ずにいると、僕の珪は悪戯めいた目で、僕をじっくりと射抜く。
「本当に接吻して良いのか、と聞いている。」
 正直に白状すると、珪がそんな大胆な事を言うなんて思いもしなかった。目前に迫る僕のシリカが、情欲に濡れた声で僕の名前を囁く。薬缶が湧きそうなほどの熱が、僕の貌に集まった。
「ま、待って、僕はそんなつもりじゃ──……!」
 僕の言葉を無視して、距離を詰められる。固く目をつむり、眼前の状況から逃げる。フ、と息が漏れたかと思うと、唇ではなく鼻筋に柔らかな感触があった。可愛らしい音を立てて、軽く吸われる。思いもしなかった部分への感触に、僕は呆気に取られてしまった。
「……え?」
「どうした? 随分静かになったな。」
 わざとらしい笑みを浮かべるシリカに、僕が揶揄われたとのだと理解するのに半拍掛かった。

「珪、君って奴は……!」
 羞恥とも憤怒ともつかない熱が腹の底から目頭に集まる。茹で蛸みたくなっている自覚もあった。僕が恥じらっている様子が面白いのか、シリカは我慢できないといった風に笑いを漏らした。
 僕の醜態に満足したのか、ひらりとベッドから降りると、部屋の扉までの距離を余裕たっぷりに歩いていく。
「おやすみ、己れのヘイゼル。良い夢を。」
 僕が返事出来たのは、珪が部屋の外に出てからだ。
「おやすみ! 僕のシリカ!」
 ……少しばかり期待してしたというのに! 
 怒りを滲ませた挨拶も、どうせ珪にとっては面白くて仕方ないだろう。僕は掛け布団を被って、暫くジタバタとした。
 シリカの癖に! 悔しい、悔しい! 
 僕を期待させて、僕を恥ずかしがらせて、僕を揶揄うなんて! 必ず仕返ししてやる!
 その為には、先生に協力してもらうことにしよう。聞きたい事もあるし、シリカが居ると聞きづらい事でもある。
 僕は短い時間で思いつく限りの計画を立て、目算が付いたところで悪どい笑いを漏らした。
 両手を口で覆って抑え込まないと、勘付かれてしまうかもしれないというくらい、怪しい声だ。
 掛け布団から貌を出し、天蓋越しに天井を眺める。柔らかな絹の布から、光が透けて仄かに輝く様だ。
『今度は珪に、ジタバタしてもらおうじゃないか。』
 此処では≪翡翠の天使≫ではないのだ。清廉でも潔白でもない僕を知ってるのは、僕のシリカだけなのだ。
 
 なら、そんな僕を存分に味わってもらおう。
 
 僕は光に吸い込まれる様にして、眠りについた。
 
 ◆ ◆ ◆ 
 
 僕の計画は、予想通りに転がった。計画そのものは簡単なものだ。町医者の先生── 日南田迅人ひなたはやとといい、迅人センセと呼ぶ事にした──と診察中、二人きりになるだけだ。
 珪は、父様や母様から僕の体調について任されていたのだから、途轍もなくヤキモキしていた。僕と二人きりになる迅人先生にどんどん冷たくなっていく。それだけで僕は笑みを噛み殺すのに苦労した。
 
「お前、あの医者に一体何を話しているのだ。」
 僕のシリカは診察中、部屋の外の廊下に居る。きっと声は聞こえるけれど、内容まで把握するのは難しいはずだ。かと言って盗み聞きは、シリカのプライドが許さないだろう。
「極めて普通の事だよ。」
「なら、何故己れを締め出す。」
 僕は、先生と話す時に、わざと鼻にかかる様な甘い声を出していた。竹造先輩の反応が面白かった時以来かもしれない。予想すれば分かりやすい筈だ。そんな声を出すのは目的がある時か、悪ふざけをす時だけだというのに、僕の珪はすっかり苛ついている。
「そんな怖い貌しないでくれよ、僕のシリカ。」
「ッ!」
 耳へ軽い接吻を贈ると、ピアスがゆらゆらと揺れる。思いもよらない出来事に、僕の珪は弱い。咄嗟に文句も出てこない程度には、心も揺れている様だ。
 あと少し、もう少し、僕にヤキモチ焼いてくれれば良い。
「そうそう、星図なんだけれど。実はもう書いてしまったんだ。」
 課題の話を持ち出して、上機嫌な笑顔を浮かべれば、シリカは諦めた様な表情になった。
「……己れも、ほぼ出来ている。清書が未だ、だが。」
 重い溜息を吐かれたけれど、気に留めることはない。
「そうこなくちゃ! 明日の夜は雲ひとつなく晴れるらしいから、例年通りで良いよね。」
 先生が帰った後のシリカは、ずっと苦虫を噛み潰した様な表情になっていて、ついつい僕は浮かれてしまう。室内履きの音さえ、僕の心を表している様だ。
「じゃあシリカ。後でね。」
 部屋の扉を閉ざして、僕はそのまま扉へ凭れかかる。
 僕のシリカの貌といったら! 僕を揶揄うのが悪いんだ。その上、やり返されている事に気が付かないで、しかもヤキモチ焼いてる自覚もない! 
 可笑しくて愛しくて、色々な衝動が生まれては弾ける。嗚呼、僕の珪、僕のシリカ! 珪に怒ってる訳じゃない。手放すなんて出来ない。突き放したりなんかするもんか。シリカが音を上げるまで、僕の愉しみは続くんだ。