琥珀色の夜に溶け合い

「父様、シリカ! 只今戻りました!」
 自宅に戻って直ぐ、この姿を早く見て欲しくて飛び跳ねる声で呼び掛けた。二人は恐らく二階で服を選んでいる筈だ。階段を駆け上がると、シリカが迎えてくれる。目に飛び込んできた珪の姿に、僕は釘付けになった。
「うわぁ、見違えたね! 流石は僕のシリカだ!」
 グレーのラウンジスーツ、竜胆色のアスコットタイは珪の硬派な印象を保ちながら、光沢のある白銅色が遊び心を持たせていた。後ろに流した黒髪がシリカの聡明さをより演出しているし、袖口から覗くカフスは明星の如き煌めきだ。
 二人で並んだら、きっと注目の的になるだろう。金と銀の星に例えられたっておかしくない。
「どう? 我ながら中々、上出来だと思うのだけれど。」
 メッチェンの格好にされなくて、ホッとしているのが一番だけどね! と砕けて笑い、くるりと一回転して靴を鳴らす。赤いリボンを髪が揺れて、僕は雲の上でステップしているような心地になった。
 珪は瞬き一つせず僕に見入っていた。幼い頃に、僕の瞳を宝石だと例えてくれた時と同じくらい、シリカの目はきらめいていた。
「僕のシリカ、惚けてないで何か言ってくれよ。」
 僕に苦笑いをされて初めて、一言も発していなかった事に気がついたみたいだった。
「嗚呼……いや、スマン。……本当に、驚いた。」
 手を伸ばして僕の頬に触れる。うっとりとした表情に、僕の心臓は跳ね上がった。
「綺麗だ、とても……。」
 感嘆の息と共に呟かれた賛辞は、大袈裟な比喩なんかよりもずっと、熱のあるものだった。とどめと言わんばかりに、熱い息をほう吐いて、美しい、と小さく呟く。
「……僕のシリカ。そこまで熱烈に見つめられると、その。本気で照れてしまうよ。」
 目を伏せて小さく笑うしか出来ないほどだった。食い入る様に見つめる僕のシリカの方こそ、曇りのない美しさに溢れている。その姿は迷いのない信念を象徴しているかの様だ。
「清陽、私にも良く見せてくれ。」
 僕等のやり取りを見守っていた父様が、僕の前に進み出た。芝居掛かった素振りを見せながら、父様の側に駆け寄る。
「父様! どうかな、変じゃない?」
「とっても見違えたな。流石は私のマイスポーズの見立て!」
「もう、偶には僕を褒めてくれたって良いじゃない。」
 父様は僕の手の甲にキスを落として笑った。茶目っ気ある表情を見て、僕の中身は多分父様に似たんだろうなと実感する。擽ったさを覚えながらも、こういう形で賞辞を贈られるのは悪い気がしなかった。
 一頻り褒めちぎった後、父様と母様も準備があるからと階下へと行ってしまった。僕の部屋へと向かい、父様と珪で運んでくれた装飾品の箱を紐解く。中身は僕等二人で分ける様にとカードが添えられていた。
「そのピン、良いね。何の花だろう。」
「良く分からんが、気に入った。」
 シリカが手にとったのは、花のブローチだ。中央から膨らみを持ち放射状に広がった花糸と、それを囲う薄紫の花弁。品のある雰囲気に惹かれたのか、珪は胸元へと取り付けた。
「清陽のも良いな。」
 僕のピンブローチを目にしたシリカが、興味深そうに眺めた。僕が身につけているものは、竜胆の花と思しきものだ。黄系統の中で一輪咲く紫は全体の調和を取る一品だった。
「後日交換しないかい? 僕よりも君の方が合うと思うんだよね。」
「確かに、この花のブローチはお前の方が合いそうだ。」
 従者が忙しなく動き回る声や足音が聞こえてくる。階下の二人も、準備が整いつつあるのだろう。
「父様も母様も、綺麗になるんだろうな。」
「 約束を交わした人(マイスポーズ)、と呼び合う二人だからな。」
 僕は純粋に楽しみになって来た。きっと、華やかな一族だと噂されるくらいになるだろう。シリカへの見舞い話が来たとしても、出来る限り僕が蹴散らしてしまおう、と強気になれた。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 会場に降り立った瞬間から、周囲は僕達一家に熱のある視線を寄越した。想定していた通り、受付を済ませるだけでも注目の的となる。
 背筋を伸ばし、凛々しい姿で歩く僕のシリカ。僕に負けず劣らず、群衆の視線を集めている姿には惚れ惚れしてしまう。
「すごいね。皆、僕たち一家を見ている。」
 こっそりと僕のシリカに耳打ちする。家族らへ羨望の眼差しを向けられたら気分が良い物だけど、シリカに対する熱視線だけを取り除きたいとも思う。
 僕の珪が死角になった位置でそっと小指へ触れてきた。手遊びの要領で僕の小指を絡め、ひっそりと耳打ちし返した。
「宗田家は美男美女で成り立っているからな。」
 狐につままれた様な貌になったと思う。暫く置いてから、言外に含めた意味を理解した。頭痛がしそうな台詞だし、鈍感も行き過ぎれば只の無防備だ。
「君も僕らの家族であるし、良い加減、君も見目が良いと自覚しておくれよ。」
「日本人を煮詰めて圧縮した様な平凡な己れに何を言う。」
「嗚呼、それでこそ僕のシリカだ。」
 諦めからくる笑みを嫌味かというほど振り撒いて、首を振る。
 
 姿に周囲は更に騒ついた。憂い多そうな麗人が存外柔らかい笑みを浮かべるだけで、人々はその差異に驚き、心を撃ち抜かれる。そしてそういう輩は少しでもお近づきになろうと考える物だ。
「シャンとしろ、ヘイゼル。そうでなければ己れは、お前に付き従う騎士の様に振る舞うぞ。」
「へぇ、それは楽しそうだ。僕も君の騎士として振る舞おうか。」
 目を細め優雅に笑ってみる。エスコートばかりで麻痺しているのかもしれないが、僕と珪の背丈は同じくらいだ。寧ろ僕のほうが少し高いはずだ。オリエンタルな美貌を持つ主人に惹かれる騎士を演じるのなら、僕こそが相応しい。
「そうであるなら、余り己れを呆れさせてくれるなよ。」
 呆れているのはこちらだと言うのに! 
 声を大にして言いたいのをグッと堪える事が出来たのは、シリカの騎士の如き表情が見られたからだ。前髪を搔き上げる仕草だって様になっている。普段よりも凛々しく見える姿に惚れ惚れしてしまうからこそ、腹の底に溜まる苛立ちが重かった。
 どうしてもこの鈍感に一泡吹かせてやりたい。こんな社交場で、考えるのも非常識かもしれないが、逆に今しかチャンスが無いようにも思える。僕はシリカと二人きりになる為、悪巧みを働く事にすると決めた。
 
 煌びやかな飾り付け、華々しい人々に西洋式の立食パーティー。それらが始まろうとしている。
 ひと段落するまでは、大人しく《翡翠の天使》になってやろうじゃないか。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 一通りの紹介が終わって、一区切り付いた。壁側に立ち、来客者を眺めながら食事をとる。珪は静かに目を輝かせながら、舌鼓を打っていた。
「凄い方々ばかりだったねぇ。」
「これが社交界、という物なのだろう。」
 このパーティーは一般客向けにはなっているが、従業員のみではないだけで、招待されているのは今の日本を背負う人間ばかりだ。僕達は父様達の後ろについて回り、自分の事と学校での話を少々しただけだったけれど、目が回るかと思ってしまった。
「父様も母様も、尊敬するな。あれだけの人の名前と貌を覚えて、どんな話も出来てしまうのだから。」
「おまけに、呑み続けて居るしな。」
 一口で食べられるものを丁寧に咀嚼しながら、珪は辺りを見回す。どうやら僕等に話し掛けそうな人を警戒しているらしい。どうせ珪の事だから、僕に不埒者が近づかない様にと気を張っているのだろう。
 父様達に紹介されている間、僕は大抵、英語で話しかけられた。英語で返事をし、その後日本語で自己紹介をするものだから多くの人は面食らっていた。珪はマダム中心に声を掛けられ、好青年の様な笑みで短く応答していた。硬派な美貌に、婦人達は頬を赤らめていた。
「まぁ、お前もすぐあんな風になるさ。」
 卒なくこなすのは得意だとは思うけれど、今日みたく振る舞えたのは僕の珪が付いていてくれたからだ。メッチェンに話し掛けられても動じる事はないけれど、珪に気が向かない様に愛想よくしたに過ぎないのだから。
「シリカが横に居てくれたら心強いけど。」
 これからこういった場へ赴く事が多くなるに違いない。少しずつ二人で慣らしていくだろう。出来る事なら、珪には今のままでいて欲しい。
「憂鬱ではあるが、きっと見合いの話も来るだろう。」
 シリカから、見合いの話題が飛び出して、口の中が急に渇く。さも当然といった口振りだ。それだけの事で、僕と珪で考えている事が違うと悟ってしまった。
「僕は、僕のシリカと一緒に居たいな。」
「それは己れも同感だ。宗田家と五月女家は、ずっと共にあれば良いと、己れは思う。」
 決定的な一言だった。
 僕は、君と一緒になりたいというのに! 
 シリカは身体で死角を作り、僕の手を取る。手遊びはせずに繋ぐだけだ。僕の気持ちなんて知りもしない僕の珪は、運ばれて来たスムージーに口を付け、騒めく会場を眺めている。
 そうじゃないんだよ、鈍感シリカ。僕は君と、この世界中で二人きりになりたいのに。いつも、ずっと、態度に表してきたつもりだったけれど、シリカには通じてないらしい。
 それなら、全力でこちらを振り向かせて、僕が君のものになろうじゃないか。
 とん、とシリカの肩に額を寄せ、力無くしなだれる。シリカはすぐに振り返って、僕の頬に触れた。
「清陽……?」
 珪は期待していた以上にら青褪めた声を上げた。さりげなく腰に腕を回して支えてくれる。
「お前、呑んでいるのか。」
「ん。……勧められた物を、少しだけ。」
 全くの嘘だった。こんな風に大胆な作戦に出られるのは、〈何か古いもの〉が力を与えてくれたのかもしれない。
「休める部屋があるか、聞いてみよう。待っていろ。」
 言うが早く、シリカはボーイを捕まえて何か話していた。僕はそちらに耳を傾けることはなく、如何にしてもシリカを籠絡するかを考えていた。誠意の無い事だと思う。それでも、僕は行動を止められなかった。
「清陽!」
「ん……。嗚呼、シリカ。」
 壁に凭れたまま、ぼんやりとした声で反応する。正しくは、ぼんやりした振りだ。周囲には話し掛けようと機会を窺っている御仁が居る。拗れる前に、シリカを連れ去りたかった。
「待たせてすまない、行こう。」
 心底心配してくれている僕の珪に、ほんの少し申し訳なさが募るが、上手く事が運べそうな流れに充足感を得る。僕はシリカに手を引かれながら、こっそりと笑った。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 通された部屋は、ホテルの中でも上等な所であった。広々としたベッドは二人で寝転がったとしても落ちる事は無さそうだ。アールヌーボーデザインの洒落た椅子に腰掛けさせられた。
 シリカが看病モードに突入していて、あれこれと思案している。種明かしの頃合いとみて、僕はシリカの背広の裾を摘んだ。
「御免よ、珪。」
 僕は、悪戯が成功した悪餓鬼の貌でニンマリと笑う。その瞬間、珪はまさかと言いたげな表情に切り替わったのは見ていて面白いものだった。
「嘘なんだ!」
「はっ?」
 勢い良く立ち上がったかと思うと、そのまま慣性を利用して抱きついた。急な事で踏ん張りが効かなかった様で、何歩か後ずさりして僕を受け止める。
「今の君と、二人きりになりたくて。」
 態とらしいくらい、しおらしさ満点の台詞を吐いた。シリカは怒るより、脱力が強かった為か大きな溜息を吐いた。
「全く、そう言えば良い物を……。」
「あの場から上手く離れられる方法が、これしか思いつかなかったんだ。」
「父様や母様に心配を掛けさせるな。」
 げんなりとしながら、僕が腰掛けていた先ほどの椅子に座る。大病人が仮病で抜け出したなんて、可笑しな話だ。僕は目的の一つが達成されて、上機嫌になる。
 ふと、視界に入った酒棚に、父様が好きそうな銘柄があった。僕はそれを手に取り、未だにしな垂れているシリカに近づいた。
「ところで、僕の珪。」
「何だ、己れの清陽。まだ何かあるのか?」
「少し背伸びしたい気分なのだけど、付き合ってくれないかな。」
 酒瓶を掲げて揺らすと、黄金色の中身がトプトプと音を立てる。暫しの間が開いて、僕のシリカはじっとりとした目をこちらに寄越した。
「酒は呑んだ事が無いのだが。」
「だからこそさ。」
 僕は栓を抜く。酔った君が見てみたいんだから。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 酒は、美味いと思えた。舌が焼けそうなのに次が欲しくなる。喉を通過する熱さが、胃の中にじっくりと落ちていった。
 アルマニャック・ド・モンタールと書かれたラベル。趣きのある色合いをした液体が、ブランデーグラスに足していく。
「何か、甘い物が欲しくなるな。」
「ナッツとチョコレイトならあるみたいだ。」
 シリカはすっかり酒の味が気に入ったみたいだった。サイドテーブルをベッドの側へ寄せると、中身を取り出す。
 行儀は悪いけれど、珪との二人だけの秘密を新たに作り出している感覚は、酒よりも酔いを引き起こしそうだ。
「己れ達の所に、サンタクロースは来ないだろうな。」
「間違いなく、良い子にはして居ないものね。」
 密やかに笑い合う。窓の外はとっくに暗くなって、霜花が咲いている。月さえも冷たそうに光っていて、今日は冷え込みが強いのだろうと窺い知れた。
「それでも、良いさ。飛び切り綺麗で、大好きな珪が側に居るんだもの。」
 あまり酒酔いはしていないけれど、勢いに任せて甘い台詞で愛を説く。シリカは満足そうに微笑みながら、僕のグラスに琥珀色の美酒を注いだ。
「綺麗というのは、お前の様な奴の事を指す言葉だ。今の己れのヘイゼルを独占しては、何か罰が下りそうだな。」
 ……猛烈に、カチンと来た。褒められるよりも、その僕を独り占めしている事がどう言う事なのか、正確に理解出来てないのだから! 
 僕は盛大な溜息を吐いた。
「君は、本当に、全く分かってない!」
 芝居掛かった動作になっただろう。だからこそ、僕のシリカは油断している。時々繰り広げあった三文芝居が始められるとでも思っているのだろう。
「良い加減、少しは分かって欲しいんだけどな。」
 僕が怒っている事を、どうやら察知したらしいが構わず続けた。指でシリカの顎を掬い、有りっ丈の情欲と忿懣を載せて射抜く。
「ヘイゼル、何を。」
「少し黙って。」
 頬から指を滑らせて、耳元で揺れるピアスをなぞる。たったそれだけだったのに、シリカの肩が大袈裟に揺れた。
「ッ……! 止、めろ。」
「どうして? お互い、良くやる事じゃない。」
 弄ぶ指の動きを大きく、早くしていく。酒のせいなのか、シリカは過敏になっているのが確信できた。自身に起きている事が把握できないのか、珪は僕の手を勢い良く払った。
「……ッ何か、変だ。」
「酔いが回っているんじゃないかな。綺麗で可愛いよ、僕のシリカ。」
 熟れて濡れた瞳は、房を作る葡萄みたいだ。口に含めば芳醇な香りがしそうな気がして、シリカを乱暴に押し倒した。絢爛なベッドへと沈めると、質の良い絹布に黒髪が散る。乳白硝子から漏れ出でる、朧げな橙色が珪を妖しく照らしだした。
 渇きを覚えて、自分の唇をペロリと舐める。珪に噛り付いて、飲み干して、ぐずぐずに溺れてしまいたくなる。クラヴァットを解くと、シリカの眼から奥底で燻っている炎が見え隠れしはじめていた。
「止めろ、一体何を……!」
「いつもみたいに、肌に触れさせてよ。」
 わざとらしく、耳元で囁く。吐息をたっぷりと含んだ声は濡れていて、僕の声じゃないみたいだ。耳朶を食み、ピアスごと口の中で転がす。
「ンッ、……!」
 珪から腰に響く甘い香りがする。汗に混ざったコロンの匂いかもしれない。僕にされるがままになっている僕のシリカが可愛くて仕方がない。
「それにしても、酒に弱いだなんて意外だったなぁ。」
 抵抗はしていたけれど、体制をひっくり返させないようにするのは容易かった。元より体躯はほぼ同等だしアルコールが入っているのなら尚更だ。僕の下で暴れるシリカを押さえつけていると、ぞくぞくとした波が背中を這い上がる。
「お前、酔っているのか!」
「あの二人の子供だよ? 弱い筈が無い。」
 珪の首元を彩っていたアスコットタイを緩め、首元を肌蹴けさせる。シリカは慌てて洋シャツの襟をかき集めたが、その隙にサスペンダーを外した。するりとお腹の辺りに手を忍び込ませる。滑らかな肌触りに、ずっと触れていたくなる。
「莫迦者、止めろと言うのに!」
「熱い……。身体が、燃えているみたい。」
 鼓動が速くなっている。僕の脈拍なのか、珪の血潮なのか。皮の薄い部分を指でなぞったり摘んだりすると、僕のシリカは身体をくねらせて、息を詰まらせた。益々昂ぶる熱に、珪の腰が浮く。初めて見る僕のシリカの媚態に、僕の理性はジリジリと焼け焦げていった。
「それ以上は、清陽……ッ。」
 舌足らずになった発音、八の字眉の下で甘さを増す葡萄の瞳。会場で見た騎士を、僕の手で乱していく背徳感に、僕は興奮を覚える。
「珪……。」
 己れの上に跨ったまま、シリカに魅せつける様に釦という釦を外していった。二人の荒い息が部屋の中に響いて、目にも耳にも毒な空間になっていく。
「僕に、触れて。」
 チョッキと洋シャツ、スーツの前を寛げて肌をあらわにする。甘橙の電燈は蜂蜜みたいな色合いだ。このまま突き進めば、僕も珪も互いに溺れる事だろう。
 シリカは半開きになった口から熱い息を繰り返す。僕の姿を食い入る様に見つめ、僕が誘導するままに手を伸ばした。
「ふふっ、良い子だね、僕のシリカ……。」
 難しい事は考えないで、僕にしたい事をして欲しい。それは僕も望んでいる事に違いないのだ。僕の珪に覆いかぶさり、密着する。シリカは僕の首筋を食み、貪り始めた。時折混じる痛みに、僕は短く喘いだ。シリカの肌を弄っていた手を捕まえられ、その手首を舐り、歯を立てられる。
「あッ……。」
 乱れた呼吸に混ざって、淫らで甘い声が漏れた。
 それが、シリカの理性を焼いた最後の一つになったらしかった。身体を反転させ、僕を組み敷く。僕のシリカは、肩で息を繰り返しながら、肉食獣みたいな目で僕をじっくりと吟味していた。
「己れの、己れのヘイゼル──!」
 低く掠れた声に、僕は満たされる心地がする。僕は、ずっとシリカに食べられたかったのかもしれない。僕を食べて、僕という毒に浸されて、僕無しでは生きられないくらいになって欲しかったのだ。未来永劫、ずっと、僕が美しく闊達なうちに……。
 抱き竦め、足を絡めあい、肌を密着させる。触れたところから一つに溶けていく錯覚に陥った。至近距離で視線がぶつかり合えば、噛みつきたくなるほど興奮してしまう。互いの吐息だけで呼吸出来そうな距離で、珪の唇が欲しくてたまらなくなる。
 
 奪いたい。奪われたい。君の全てを、僕の全てを! 
 
 両頬を優しく包み、シリカの名前を呼ぶ。
 だが、あと一呼吸というところで、珪は僕の口を塞ぐ。何が起きたのか理解出来ず、僕は目を見開いた。
「──……駄目だ。」
 シリカの瞳にあった火が弱り、嘘の様に霧散していくのを見てしまった。
 珪は僕から無理矢理に身体を離し、自らの頬を強く叩いた。乾いた音が、この部屋にあった眠気に似た甘美な空気を打ち消す。
 シリカは何度も深呼吸をして、僕へと向き合った。
「己れの清陽。分かってくれ。己れはお前を欲しているが、それだけは駄目だ。」
「どうして。」
 声が震えてしまう。もう少しだというのに。あと少しだというのに! 僕が抱えている愛情は、シリカが僕に向けるものと同じだというのに! 
「ここへの口付けや、それ以上の触れ合いは、親友でも兄弟でもない間柄がする物だ。」
「どうして。何故! 僕に寄越す視線だって、僕に触れる時だって、それらどれにも当てはまらないじゃないか!」
 花火の日の触れ合いも、湖での誓いも、単なる恋人以上に濃厚なものだった。親友であり兄弟であるからこそだ。僕等の関係は、一言で言い表せぬ唯一のものなのだから。
「お前は宗田。己れは五月女。」
 その言葉に、僕の心はズキリと痛んだ。僕等二人の境界を象る一つだ。それがあるからこそ、今の今までこの距離だった。
「いずれは妻を娶る。お前は家業を継ぐのが夢だろう。己れは己れで、医者になる夢がある。」
 どうしてシリカは、そんなに僕無しで居られるの。
 そんな事が頭の中に浮かび、毒されているのは僕の方だと思い知る。珪無しで生きられないのは、僕だったのだ。
 僕にも夢はある。父様の後を継いで、この見目を生かして外国と日本を橋渡しできる存在になる事だ。
 シリカと同じ道を歩む事は出来ない。だからこそ、より強固な繋がりが欲しかったのだ。
「だからこそ、己れはお前と共に居たいと強く願っている。……総てを叶える立場を取るなら、ここから先へは進まない方が良い。」
 シリカらしい言葉だ。けれど僕は、それだけでは足りない。シーツを強く握りしめる手が、わなわなと震えた。頭で分かっていても、ぐらぐらと揺れる心の弱さは、どうにも出来ない。
「分かっているさ、……分かっているとも。」
 自らへ言い聞かせる言葉は、口から溢れていった。溢れるのは言葉だけでは足りず、目が潤む。心の奥底にある不安は、死した後だけじゃない。本当は生きている間だって、そうなんだ。
「だけど、だけど暫くは。せめて今この瞬間は、僕だけのシリカで居てくれよ。」
 目に溜まった潤みは、泪となって勢い良く零れ落ちた。僕の行く末を表すみたいに、敢え無く消えていく。次から次へと流れ往き、紺碧の空でみた箒星みたいな儚さだった。
「身体の調子は良い。症状も軽微さ。でも、前にも言っただろう。
 僕の与り知らぬ所で、僕がいつも通りから外れていく気がすると。」
 ベッドの上で膝立ちになり、珪の貌を両手で掬う。目から流れる星は己れの頬にも墜ちて、やはりそこからも消え去っていった。
「ねぇ、僕のシリカ。今日の僕は、どう見える? 君の好きな、君のヘイゼルを保っているかい? それとも黒ずんだ病人独特の、翳りが見えるかい? 
 僕は、ちゃんと、僕のシリカが好む美しさを……今までと同じ君のヘイゼルを、まだ持っているかい?」
 何度も肌に触れていたのは、珪が僕の事をどう考えているか、確かめていたからだ。《美しいヘイゼル》として、僕はいつまで生きられるのだろうか。美しくなくなったら、珪は僕から離れやしないか。珪と好敵手としても振る舞えなくなったら、僕は、僕は──……。
 そこまで黙って聞いていた珪は、僕を強く抱き寄せる。僕の不安を理解したみたいだった。優しさのある抱擁に、僕は腕の中で泣きじゃくった。
「そんな事を、考えていたのか。」
 腕に込める力が強くなる。シリカだって、僕の事を本当に愛している事は分かっている。なのにまだ足りないとぐずるなんて、何処まで僕は欲張りなのだろう。
 珪は、僕を真っ直ぐに見据えた。
「良く聞け、己れの清陽。いつだって、己れのヘイゼルは美しい。
 春風に吹かれるお前も、汗だくになるお前も。
 海辺でずぶ濡れになり、砂まみれになり、或いは落ち葉の山に埋まったとしても。
 婦人に見紛う格好や、気品溢れる貴族の様に着飾ったとしても。
 例え病に伏せようが、将来しわくちゃの爺になろうが、お前がお前であるだけで、美しい。」
「シリカ……。」
「愛していると言っただろう。ずっと共に居たいと言っただろう。
 ……つまりは、そういう事だ。」
 珪は僕の泪を舌先で拭い、次いで目蓋へ接吻を落とす。夏の花火の時と同じ瞳が、僕の目の前にあった。
「己れの魂が、何か別な物を求めて止まないのだ。
 お前の頭の天辺から足の爪先まで、何もかも総て攫ったとしても、物足りない程に。」
 
 頭の天辺から、足の爪先まで。
 
 僕は泪を切り落とす様に瞬きを繰り返す。
 僕が僕であり続ける限り、珪は僕を愛しているという。
 僕無しで生きていられないくらいになって欲しいと思っていた。僕に総てを奪われて欲しいと思っていた。
 でもそれは、とっくの昔に叶えられていたんだ。それも、今の僕だけではなく、未来の僕も含めて、シリカは僕の事を──。
 音が鳴らすつもりで、大きく瞬きをする。嗚呼、だから、別荘でもあんな悪戯をしたんだ。歯車が噛み合うように合点がいき、唐突に仕返しをしてやろうという気分になった。
「隙ありっ!」
「なッ──!」
 急接近すると、珪は反射的に目を閉ざした。唇ではなく、代わりに鼻先を軽く吸う。可愛らしい控えめな音もプレゼントしてやった。
「は……?」
「ふふっ、どうしたの。随分静かになったね?」
 あの時の珪と同じ表情で覗き込む。目を白黒させる僕の珪が面白くて、可愛くて、愛らしかった。
「別荘でやられた、仕返し。」
 ひょいと舌を出すと、シリカは力の抜けた貌で笑う。こいつめ、と言いながら僕の鼻梁を摘んできた。いつも通りのやり取りに、心が軽やかになる。
 乱れた衣服のまま、額を合わせ合った。指を絡め合い、睫毛が触れ合う距離で見つめれば、漆黒の瞳に僕の淡褐色が溶け合っていく。
「君って奴は、僕の事をどれほど好きなの。」
「知らなかったのか? ならば一生をかけて教えてやる。」
 珪は僕を慈しむ様にして見つめる。シリカの高潔な瞳は、僕の迷いを断ずるだけではなく、降り掛かる災厄から守ってくれるとさえ思えた。
「愛しているよ、僕の親友。僕の兄弟。僕の愛しい人。僕のシリカ。」
「愛している、己れの親友。己れの兄弟。己れの愛しい人。己れのヘイゼル。」
 これから、上手く生きていけば長い時間がある。僕は永遠を得てしまった気分だった。生きている間の不安は、一切合切解消してしまったのだから。
 きっも今日の事も思い出になって、白髪交じりのシリカと懐かしむ日が来るかもしれない。
「そうだ。良い雰囲気のカフェーを見つけたのだ。明日一緒に行こう、己れのヘイゼル。」
「そいつは素敵だ! 期待しているよ、僕のシリカ。」
 
 今日という日は、〈僕にとっての何か〉になるのだろう。遠くにある未来から振り返った時の、僕の大切な煌めきとして。