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鬱陶しい雨の日が多くなっても、生活のメリハリを感じなくなることはなかった。
 
 資金貯めのために働いて、手筈を整えて、花材を探す。そのルーチンが自身の調子を上げている。良いサイクルで動けている感覚の中で暮らしていた。
 カラオケバイトもずいぶんと慣れたし、歩合制の旨味にそこそこありついている。一次会が終わったあとと思しき集団に、明るい声で話しかければ良い。相手は酔っ払いなので、勢いだけが必要になる。キャラが違うテンションで話しかけることになろうと、全ては金のためだった。二度と合うこともない相手であれば、そんな仮面もかぶることができた。GW前後なんかは特に稼ぎどきだったはずで、もっと早くからこちらに移ればよかったと今では思っているくらいだ。
 ボロアパートの一室に金や銀の花と枝が並べられていく。少しずつ買い集めていくうち、一角だけ華やかな雰囲気になり、俺ももうすぐその世界に行けるのだと思うと心が浮き立つ思いがした。
 働きながらではあるが、時間の融通はきく。ウィークリーマンションの下見、出棺代わりの清掃サービスの調査、それから葬式の案内リスト。諸々の準備は進んでいったが、どうしても決め手に欠けるものがあった。
 
 俺はどうやって死ぬべきか。
 
 世の中には自殺のやり方をまとめているサイトがあって、それぞれ長所や短所が書かれていた。死んだ人間が、食レポよろしく丁寧な文章が書けるわけがないが、参考になる部分はあった。
 初めは睡眠薬などを過剰に服用すればいいと思っていた。だが失敗率が高い上に、かなりの量を服用せねばならない。薬局で手に入るようなものでは到底不可能だと知った。
 ドアノブ等を利用した首吊り、毒物の服用……これらもまた、死に様が汚い。吐瀉物に塗れたくないし、糞尿を垂れ流して死にたい訳ではない。自分自身の最高のステージにおいて、穢らわしい有様になるのは絶対に避けたい。
 俺はどうやって死ぬべきか。目下悩みは明確で、しかも誰も答えはなく、自身が導き出すしかない。俺は暇さえあれば、インターネットの海に漂い、そして遠くを見つめて思いを巡らせた。
 例えば、コンビニバイトの、空いている時間帯なんかでも。
「土屋さん、休憩ありがとうございます」
 七橋さんが、レジカウンターに戻ってきた。夕食前のピークが終わり、落ち着いたところを見計らっての休憩だった。バックヤードのカーテンで仕切ったところで休むのが常で、どこかに食べに出たりはしない。節約してるのでと前に言っていたので、金銭感覚がしっかりしているのだろう。
 黒々しい髪が、店内の照明の光を反射して天使の輪を作り出している。死ぬ手前でお迎えがあるのなら、身綺麗な彼女みたいな天の使いが来ればいいなと、馬鹿馬鹿しいことを考えた。
「新しい人、やっと採用されるって聞いた?」
「あ、はい。教育はシフトが被った人がそれぞれで、というのも聞きました」
 初めての後輩だよね、と言うと、彼女はどこか嬉しそうにした。
「土屋さんと同い年くらいの男性だと聞いてるんですけど、年上の後輩ってなんだか不思議です」
 その情報は知らなかった。夜勤などもこなす予定の大学生辺りだろうか。なら、俺が死んでもなおのこと安心だ。
「いじめられたら店長に言いなね」
「大丈夫ですよ。ここで働いている人、みんな優しいですもん」
 冗談めかして笑い合う。彼女とも、こうして働く時間が限られていると思うと、丁寧に接していきたいと思える。
 頭一つ小さい彼女は、俺よりもずっと重みある人間だ。未来は明るい光の粒で彩られている。俺とは違い、終末の輝きではない。晴れの春の日、何もかもがうまくいくと思えてしまうような、輝きの向こう側がある未来。
 二十時上がりだったので、ついでにゴミなどをまとめてバックヤードへと引っ込んだ。
「土屋くん、お疲れ。これいる?」
 店長がヒョイと差し出してくれたのは、例によって見切り品ので、今日は惣菜パンだった。あざっす、と言いながら受け取る。もしゃもしゃの頭は鳥の巣みたいになっていて、少し笑ってしまう。栗毛色だから余計にだ。
 ここのバイトを、辞める日が着実に近づいている。そう思うと、さびれたバックヤードでも、安心感あるものに思えてしまう。
「最近、なんだか充実してきてたりする?」
 ゴミを裏口にある金網に投げ込んで戻ると、店長はそんなことを言った。何となく見破られているような気がして、頬を掻く。
「そうっすね……。物件の下見とか、してます」
「へぇ、いいじゃない! 良いところ見つかるといいね」
 店長は、店員の変化をよく喜ぶ人だ。安定した人材を確保するのであらば、本来は警戒するような内容でも我が事のように嬉しげにする。
 俺なんかは特に変化がない人間だったので、下見をしているという状態でも十分、話題になるみたいだった。
「実はさ、ちょっと心配していたんだ。シフト少し減らしてもらってるし、ちょっと前まで元気が無さそうだったから」
 人のことをよく見ていると思う。俺は居た堪れない気分になって「全然元気ッスよ」とか言ってカーテンの奥へと逃げた。
 しばらく、もぞもぞと着替えをして身支度をしていると、店長が不意に話しかけてきた。
「ここの採用条件って、土屋くんには教えたっけ?」
 採用条件。こだわりが強いのだろうと予測はしていた。現に、新たな人材を雇用すると宣言してから、何人も面接に来ていたが、決まったのはついこの間だ。当然、雇用された人材より前に面接に来た人間は不合格にしている。コンビニバイトでも、軽く見ていそうなタイプを弾いているのだと思っていたが、その基準というのは思いがけないものだった。
「頑張る人を応援したくてさ。何か未来について思うことがあって、将来に向けて何かしたいと思っていて、必ず僕の手元から巣立っていく人たち。そういう人を採用しているんだ」
 足元に穴が開いて、そのまま飲み込まれる心地がする。そうなんスか、と返すのがやっとで、俺に何故そんなことを、と困惑めいた疑問が心の中に渦巻いた。
「僕さ、サラリーマン辞めて、コンビニ店長になったんだよね。使い古されて、僕自身を消費されている気持ちになった。だから、僕は人を動かす側になりたいと思った。それでも、人を消費する行為だけは許せないから、雇用という形で、頑張る人を応援したかった」
 語られる言葉と共にPCのキーボードタイプの音が響く。カチ、カチカチカチ。その音ばかりが気になって、店長の台詞を取りこぼしそうになる。
 時間の融通を利かせてくれるのも。ひたむきな姿勢を見せる人々が集まるのも。廃棄や見切り品を店員に配るのも。
 未来を見据えて生きる人を見抜いて、その上で、全てを運営していると? 
「はは、なんか自分語りになって恥ずかしいや。僕も、土屋くんを応援しているから。何かあったら相談してね」
 俺はそんな奴じゃないです。買いかぶりですよ。そう言おうとして息を吸ったが、目と鼻の奥がツンと突っ張る。顔の中心が腫れ上がった感覚がした。炎症は熱を持って、呼吸を乱していく。
 店長はそれ以上は言わず、連綿と続くキーパンチの音と、微かな水の音が響いた。
 
 頑張る人? 
 俺が? 
 俺に期待を? 
 この人は、一生をコンビニ店長で「仕方なく」終えるのではない。選んでこの道を歩んでいるのだ。
 要領が悪く人に騙されるタイプでもない。お人好しには間違いない。痛みを知っているからこそ、この人なりの楽園を創っている。ささやかでも、無意味になりえるとしても「ただ自分がそうしたいから」という理由で、この人は働き詰めになっている。
 着替えには長すぎる時間を使って、どうにか涙と鼻水を引っ込める。もう一度、アザッスと唱えた。本心だ。こんなグズを、他のバイトやパートメンバーと同列に扱われて、俺が好ましいと思える人々と並べられて、同じ職場に立つことを許されて、これ以上ない感激だ。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様。次のシフトもよろしくね」
 顔が見られないまま、裏口から飛び出て駆け抜ける。泣き顔を晒したくない照れ隠しだと思われていればいいが。
 
 やめてくれ。俺は逃げるのだから。高潔で清潔なあんたの手で、俺の花道を汚さないでくれ。煌びやかで、金色で、銀色の一画に迷いを差し込まないでくれ。
 死ななければ。早く。これ以上、優しい温度で火傷をする前に。
 雨の粒が、道路を走るヘッドライトをくっきりを浮かび上がらせる。
 
 ◆
 
 梅雨明けと共に死のう。そう決めたのは、朝には雨が止んだから。
 燃えるような夏では腐敗が進む。だが秋や冬になるまで待てない。夏になる前ならば、空調をガンガンにきかせれば多少遅らせることはできるだろう。
 雲は多いが濃い水色がのぞく。青と水色の間は意外と狭いんじゃないだろうか。もっとも深さのある空の色に見え、それが広がる季節はとても短い。
 幸いなことに資金は順調に溜まっている。カラオケバイトは人の入れ替わりが激しく、人間関係としては希薄で心地が良かった。挨拶して、仕事して、それで終わり。心が摩耗することもなければ、コンビニバイトみたく火傷しそうになることも無い。
 今日にでも、死に場所を決めよう。一日休みにした今日を無駄にはできない。
 水たまりに反射する空を踏みつけて、街へと繰り出した。久しぶりの、雨ではない日だ。
 
 今日の物件は、タワーマンションといえる。一人で暮らすには広すぎるところで、家具も見栄えがするところだった。しかしウィークリーではなく、マンスリー契約になると伝えられる。それを聞いて、納得した。地上二十九階、クイーンベッドのある1LDK。ホテル暮らしをするより安上がり、という需要に向けた内容だ。
 室内のグレードは高く、心地いい暮らしができるだろう。白い壁に濃いブラウンで統一された床。モダンにもナチュラルにも取れる内装だ。
 しかし、本当に俺が死ぬのに丁度いいところなのだろうか。もっと言えば、俺が暮らしたいと思う理想の内装はこんなにも良質だろうか。ここではなくとも、小奇麗で広めのワンルームで十分ではないだろうか。
 疑問は浮かぶが、窓の外の景色をみて吹き飛んだ。
 最高の見晴らしが広がっていた。空が広く、ビル群が見渡せる。夜景もさぞかし美しいことだろう。この立地ならではで、海と遊園地のジェットコースター、観覧車も見えた。よく晴れた日の青空を想像して、舞い上がりそうになる。青空の何がそこまで自分を惹きつけるのかは分からないが、どうせ人生を閉じてしまうのだ。深く考えなくとも、快いと思うものが眺められるのは強い魅力だった。
 窓に背を向ける。長く続いているように見える、真っ直ぐな廊下。玄関からこの窓まで一直線に繋がっているところも気に入った。
 ここにしようと思うと同時に、ココニシマス、と口にした。
 契約書にサインをし、注意事項等々を確認。二週間後から入居する段取りにした。金額の面でも問題はなかった。一ヶ月の契約で、入居に三十五万円、退去に五万円。特殊清掃などがあることを考えれば更にプラスだろうが、予算内に収まる。花材が安く済んでいることもあり、余裕はあった。
 そうと決まれば、身辺整理がてら引越しの準備を始めなければ。家具は全て捨てるか売るかすれば良い。過去の物を持って行かなくて良いので、実質服くらいしか無いはずだ。引越しをするなら、大家へ連絡を入れなければならない。不動産屋経由でいいだろう。
 良い休みの日だ。日も高いうちから、大きな事柄が決定できたのだから。未来の死に場所から直接向かうと決めれば、足取りは軽かった。
 
 帰宅したのは、何だかんだで夜になった。再び天気がグズついて水を含んだ匂いがする。今日を休みにして動き回れたのは全くの正解で、むしろそうなる運命だったとさえ思える。
 今日見てきた物件の風呂場くらいしかないワンルーム。こことももうすぐオサラバだ。帰りがけに買ってきた追加の花材(木の実を模したウッドビーズで、実質的には花材に数えられないらしい)と、引っ越し用のダンボールを床に置く。腰を下ろす前に、やることがあった。
 フリマアプリを使えば、どんなゴミでも引き取り手が見つかるのは知っていたが、コミュニケーションコストを考えると億劫だ。キロ単位で買い取る古着屋や中古屋にでも投げ込めばいい。購入者は知らず知らず遺品を使うことになるだろうが、そんなことはどうでも良かった。
 真っ先に売ると決めたのは秋冬モノ。それから食器類とヒーター、小型の送風機だ。明日の午前中に引き取りに来てもらうべく、スマホからネットで申し込みを済ませた。来週に洗濯機と電子レンジ、炊飯器などの小型家電を手放すことにする。紙コップと紙皿、割り箸で出来合い物を食べる生活になれば何ら問題ない。
 引き取ってもらうものをポリ袋に詰め込んで、玄関先に置く頃には、押入れは空っぽに近しくなった。ガランとした様子を見て、妙な達成感に満たされる。一息ついて床に寝転ぶと、今日見たマンスリーマンションの景色が瞼の裏に蘇る。
 広々とした室内、最高の見晴らしの中で横たわる自分の姿を想像した。冷え冷えとした空間に、金と銀の花や枝に囲まれて、清涼な眠りに就いたように見える姿だ。青ざめた顔と唇は不気味に見えてしまうかもしれない。であれば周辺に光源を置けばいいだろうか。LEDライトであれば、熱を持たないので使えるはずだ。白い壁や大きなベッドに昼光色の小さな光を散らしたら、浮世離れした死に姿に彩りを添えてくれるに違いない。
 
 ああ、良いな。そうやって、死にたい。そんな風に妄想して、妄想で終わらせないために実行して、……。
 まるで、夢に向かって生きる人間みたいだ。