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 空虚になった部屋は、意外と広かったのだと知った。惰性で生き続けた俺を、隅から隅まで反映していたのだ。何もなくなった今もまた、俺を映し出している。俺には何も無い。もうじき退去確認が入って、昼間に出て、それで終わりだ。いよいよ新たな出発である。
 部屋の中にあるのは、服と貴重品を詰めたカバンと、花材とサボテンが入った段ボールと紙袋だけだ。アルバムの類は全て叔父の家に置き去りだし、着信拒否にしている。その辺りの過去を清算できないのは悔やまれるが、叔父に会うくらいならその過去はあいつにくれてやる。「自分なりに愛していたのだ」とか言って、自分をあげる何かに利用することは目に見えていたが、死んでしまえば関係ないのだ。過去に置き去りにした俺さえも、俺に関係なくなるのだから。
 コンビニバイトは、新居に移った後も二、三日続ける予定だ。正確には、死ぬ二週間前まで。梅雨明けは七月半ばになる予想なので、命日だけが決まっている。
 物件が決まったので、コンビニバイトの店長に辞めることを告げると、「新天地でも頑張って」と快く送り出してくれた。送別会を開くという申し出は丁寧に断った。万津は涙目になっていたのが、少しありがたかった。
 
 俺の葬式に呼ぶ人を、ようやく決めることができた。叔父には必ず知らせなくてはならない。古風で確実な手段として、葉書を出すことにしている。万津や七橋さん、三戸さんはどうしようかと考えて、彼らに染みを遺す事に決めた。「俺はこういう人間なんです」と語りたくなるのは彼らくらいしかいないし、店長も例外ではない。必ず巣立つ人材を選んでいる、という事は間違いないのだが、仮に、俺の死が店長へ知らされたら心底悲しむのだろうか。俺にとっては、その悲しみはとても欲しいものだ。だが、彼に絶望して欲しいわけではない。どう伝えようかと考えて、手紙にでもして置こうと思った。あんたの所為じゃない。感謝している。だから、出立できた、と。
 死人の手紙なんて、遺書じゃないかと笑ってしまった。自分には全くそんなつもりは無い。ただ、感謝を伝えたい、心温まるべき手紙だが、きっとそうはならないのだろうと予想もできた。
 新たに入った人には結局会えずじまいになりそうだが、それで良かった。同じような人種相手に、同族嫌悪を抱く気がする。知り合ったばかりの人間の死を知らされても、迷惑がるだけだろう。
 玄関のチャイムが鳴る。住んでいる間、そういえば鳴ったのは初めてだった。耳慣れないチャイム音が聞けてラッキーだとか、意味不明なことを思いながら、不動産屋を迎え入れた。
 
 念願の入居である。ひと月の間、自分の家と言えるところだ。見学の時は内装そのものに愛着は湧かなかったが、自分の家になった途端、最高の寝ぐらであると誰相手にも自慢したくなった。
 テーブルとソファーの下に敷かれたブラウンの絨毯は、毛足がしっかりしていた。足の裏からその高級さが弾力として伝わる。テーブルは小広く、艶出しされていてつるりとした光沢を放つ。降り注ぐ照明は、真四角のくぼみに埋め込まるようにして設置されており、一風変わったデザインになっていると気がついた。下見のときは窓と廊下くらいしか見ていなかったが、洗面所は広いしホテルみたいだ。室内の空調も快適で、キッチンには立派なオーブンが備え付けられていた。
 
 写真を撮って、万津に送りつける。すぐさま返事が来て、「引越し祝いしたいっす!」なんて可愛らしい反応が返ってきた。
 葬式に来てもらうなら、一人くらい道を覚えてもらう必要もあるか。そう打算が働いて「明日なら良いよ」と返信する。電車で一本とはいえ、終電が怪しくなる。なんなら泊まっていったって構わない。トントン拍子に決まって、宅飲みする約束をした。誰かと長い時間、一緒に夜通し飲むなど初めてかもしれない。
 死ぬまでにやっておくには良いかもな、と鼻歌混じりになる。花材をクローゼットにしまいこんで、広々としたベッドにダイブする。池に落ちた砂よりも柔らかい音がして、白鳥の羽に包まれたみたいに優雅な気分だ。
 俺は、ここで死ぬのだ。石灰みたく乾いた、この布の上。仰向けになって最期にみる天井を眺めた。真っ白で、シミひとつない。ボロアパートのは木目なのか汚れなのか分からない模様があったが、そんなものは一つもない。寝室にも大きな窓があり、カーテンを開ければ空も街も一望できる。
 安心して死ねる。ここなら、思い残すこともない。
 安堵したためか、暗闇から微睡みが誘う。予行練習にも思えて、そっと目蓋を閉じた。
 
 ◆
 
 翌日、万津は夜の学校が終わってすぐに向かって来てくれた。都心から離れた場所に引っ越したため、電車で四十分ほどかかる。駅まで迎えに行くと、ゴツい身体した男が手を振っていた。白いTシャツにゆったりしたデニムシャツ 、ボトムスは黒のスウェットと赤一色のスニーカーで、リラックスした服装だ。髪は最後に見た時と違い、かなり短めのツーブロックになっていた。結局、髪を伸ばすのはやめたんだな、と可笑しくなってしまった。
「わざわざありがと。遠かったよね」
「いやいや! オレこの辺来たの初めてなんで、結構面白かったっすよ!」
 体型や雰囲気に似合わず、人懐っこさを全開にするものだから、ああやっぱり好かれる人種だなとしみじみ思う。
 そういや、土屋さんの私服初めて見ました。たしかに、俺も万津のはそうかも。酒いくつか持ってきたんスけど、何か買い足します?  ツマミが何もないから、とりあえずどっか寄ろう。ていうか万津、すげー飲むタイプ? あ、バレました? そういう土屋さんは? いや、俺は全然。超弱いよ。アレッ、バーテンやってたとか言ってたしゃないっすか。そりゃ関係ないって。てか家めっちゃ豪華ですよね!? まぁ楽しみにしててよ。…………取り留めのない会話。
 話に花を咲かせながら、駅近のちょっとお高い自然派のスーパーに立ち寄った。オーガニックなんたらに目もくれず、酒の陳列棚に直行する。俺の背よりも高い棚にずらりと並ぶ商品はなかなか壮観だった。品揃えもよく、普通のスーパーではお目にかかれない種類なんかもありそうだ。ビールだけでは飽きるので、手頃な値段のワインボトルを何本か万津に抱えさせて、小さな瓶のリキュールと割り物をカゴに突っ込んだ。ツマミは適当な乾き物とチーズ、スナック菓子を四つ。これだけあれば十分だろう。一人では消費できないので、勢いに任せて量を買うわけにはいかない。処分の手間を考えたくないのだ。
 それでも、気が大きくなっていたのか、会計を通った後はレジ袋三つ分になった。
 
 ◆
 
 エントランス、ラウンジ、エレベーターホール、そして玄関。マンションに到着してから、万津は始終感嘆しっぱなしだ。解錠して室内へ招き入れると、石のごとく固まってしまった。
「え、…….これ。えっ!? これ家ッスか!?」
「家だよ」
 間の抜けた質問に、声を出して笑ってしまう。いつもみたいなニヤつき笑いではない。
 ひとしきり感動して回った後、最終的にリビングのソファーにちょこんと座っていた。大きな身体をせせこましく丸め、遠慮がちに浅く座っている姿は、まるで借りてきた大型犬だ。
 紙コップと紙皿を取り出して、簡単な宴会の準備を進める。まずは万津が持ってきてくれたビールで、乾杯。
「引越し祝い、ありがと」
「ささやかですけど、おめでとッス」
 久しぶりの酒は美味かった。思い返してもバーテン時代に何となく口にしていたくらいで、率先して飲む性格でもなかった。
「さっき言ったっけ? ここ、マンスリーマンションなんだ」
「へー! めっちゃ豪華なところだから、お高いんじゃないっすか?」
「思ったよりは高くなかったよ。やりたいことがあって、一ヶ月だけ契約したんだ」
「なんすか、やりたいことって」
「それは、これからのお楽しみ」
 舞い上がっている上に、口が滑らかになっている自覚もあった。進んでいく酒がそれを助長して、普段では考えられないくらいに浮かれていた。
「万津はさ、本当、すごい奴だと思ってるよ」
「どしたんすか、急に」
 浮ついた声を隠すことなく、万津を褒めちぎる。酒のせいにすれば普段言えない尊敬の念を表明したって、笑い話にできるだろう。
「というか、店長が有能すぎる。他にいないよ、あんな人」
「あー、分かります! めちゃくちゃ融通利かせてくれるから、逆にちゃんとしなきゃって思える、みたいな」
 ワカル。ソレナ。三文字言葉を口にしては酒を煽る。万津につられていると呆気なく潰れるペースになるので、奴が三杯飲む間に一杯消費する速度にした。なんかオレばっか飲んでません? ああ気にすんな、マジで俺、弱いから。なら遠慮なく。万津はそう言って缶酎ハイの、アルコールが強い種類のものを開けた。栓が清々しい音を立てて開かれ、炭酸の香りが漂う。その匂いに、ガスで死ぬのも悪くないなと思う。
 片時も忘れていない。俺はここで死ぬ。俺はもうすぐ死ぬ。俺にとっては、最後の酒盛りになるのだ。
「万津さ、ありがと、マジで。俺、宅飲みってやってみたかったんだよね」
「照れるじゃないっすか。てか酔ってんスか」
「お前こそ」
 酒豪に違いないが、頬だけでなく顔全体が赤い。そして俺は多分、首まで赤い。
 着実な酔いを混ぜながら、バイト先の人々を話題にして酒とつまみを進めていく。三戸さんはお母ちゃんでなんか頭が上がんないだとか、押しがすごいだとか、クセが強いだとか、もちろん褒めている意味で盛り上がる。
「ずっと聞きたかったんすけど、土屋さん、七橋さんから告られたりとかしました?」
 漫画みたく噴き出しそうになる。唐突すぎる話の流れとあり得ない疑問に、噎せそうになった。
「何で、七橋さん?」
「いやいやいや、どう見ても土屋さんのこと、好きだったでしょ!」
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないっすわ!」
 なんだ、あの子。俺に気があったんだ。俺も悪くないと思っていたのに。だけど所詮、俺はクズなフリーター。女子高生にしてみれば、自由気ままそうに生きる男が珍しかっただけだろう。酔いどれ脳みそでも、それくらいの判断を誤ることはない。
「ばーか。俺にあの子はもったいねぇよ」
「かー! これだからリア充は! 余裕か!」
「こんな陰キャつかまえて、それはねーよ。つかお前のほうがよっぽどリア充だろ」
 互いに口調が崩れていく。夜の九時半に始めて、あっという間に〇時を過ぎて、酔いと眠気が色々とピークだった。
 これ以上飲めないと伝えると、万津は三本目のワインボトルに直接口をつけて飲み始める。
「酒強いな、お前……。あれ、お前って未成年だっけ?」
 自分が二十歳だったことを思い出して、その後輩にあたるなら万津は年下なのだから、必然的に酒が飲めない年齢だったかと思い至る。まぁ、そんなものを律儀に守り通すタイプはそんなに居ないが、無理強いさせていたら申し訳ないと揺れる頭で尋ねた。
「いや、実は色々あって、土屋さんと同い年なんすよ」
 思いもよらない返答に、眠気が飛んだ。目の前の飲兵衛は同い年で、開業に向けて動いている。事実がラベルみたく張り付いて、なら尚更、俺はグズに違いないと笑ってしまった。
「もっと早く言えよ。そしたら敬語も要らないよ」
「いやぁ、バイトの先輩には変わりないっす」
 色々あって、と繰り返し言って飲み干していく姿は、今までの万津とは違って見える。何かを背負った兵士みたいに見えて、肩にかかっているものが見えそうだった。
「その色々って、聞いていいやつなの」
「そんな面白くもないっすけど」
 聞けば、高校で柔道をしていたのは本当だし、怪我でやめたのも本当だった。だが、その怪我は競技によるものではなく、交通事故で負ったものだったという。
「もう、本当に嫌になっちゃって。オレには柔道しかなかったし、生きる道なんて他に見つからなくって。特待で入ってたもんだから余計にっすね。辛すぎて、高校もろともやめちゃったんすよ」
 ヘラヘラと笑って、容易く過去を振り返る。よく言う、過去を受け入れる姿勢というはこういうことなのだと、万津の存在が模範回答を示していた。
「引きこもって、考えて、考えて。これからどうしようって。で、ヒントをくれたのが大学で柔道続けてる先輩だったんす。整体とか整骨だと、人体の知識とか活かせるし、その道に進む人も多いって」
 その後、遅れを取り戻すのにどうするか計画して、今の場所まで来るのに二年かかっちゃいました。
 そう言って、顔を真っ赤にして頭を掻く。酔っ払ったせいだけじゃない。
 ああ、俺との差は歴然だ。
「……死にたいとか、思わなかったの」
「思いましたよ。でも、なんか、もったいなかったんすよね」
 もったいない。どんな感覚だろう。俺も自分に対してそう考える事ができれば、少しは人生、違ったのだろうか。
「オレばっか語るとか恥ずかしいんで、次は土屋さんなんか話してくださいよ」
「……何もないんだけどな」
 引きずられて話す羽目になる。ぼんやりと虚空を見つめて、過去の出来事を辿ろうとした。
「俺、まず両親いないのね。で、叔父さんとこで育った。けど反りが合わなくて……」
 万津の顔が見られない。視線が泳いでしまう。ヤマもオチも無い過去だ。そんなものを語ったところで何になるのか。
「偽ブランド品で持ち物、固められてさ。小中学生でそんなの浮くだろ? おかげでその頃からぼっちでさ。習い事もさせてもらえなかった。勉強は学校行ってりゃできるタイプだったから、高校はそれなりに頭良いところ行ったよ。ただでも、成績とか実績は、叔父さんの手柄にされちまうから、何もしたくなかった。ぼっちは継続、バイトして、気まぐれで彼女作って、二ヵ月くらいで別れて、適当に行事こなして、卒業して、結局そのままバイト尽くし」
 な? 何もないだろ? 
 そう言って、やっと万津の顔が見られた。どうにも判断しづらい表情をしていて、やはり語るほどのものでもなかったと恥ずかしくなる。
「まぁ、反応に困るよな。なんかゴメンな」
「いや、そうじゃなくて、……」
 万津の奥二重の目から、大量の涙が流れ出た。堰を切ったよう、と小説で表現されるような、そんな勢いを持ったものは初めて見た。
「え、どうした」
「だって、それ、本当なら、アンタいつから一人なんすか」
 一人。思いもよらない単語だった。誰か、を想像した時にバイト先の人たちを思い浮かべてしまうのは、それ以上に強い結束がある相手が居ないからだ。万津は柔道を通して、手を差し伸べてくれた人がいた。俺にはそんな人間は居ない。
「そうか……。俺、ずっと一人なのか」
 声に出してみて、自らに足りなかったものを自覚することになった。結局のところ、俺は誰かに構ってもらいたかったのだろうか。馴れ合う連中が疎ましかったのは、その裏返しでしかなかったのだろうか。バーにいたマチみたく、低レベルであったとしても、気さえ合えば受け入れていたのかもしれない。
「なんすか、それ。なんで、アンタめっちゃ良い人なのに。おかしいっす、そんなの」
 考えてみれば、涙そのものが物珍しいものだった。俺、最後に泣いたの、いつだった? 
「泣くなよ。酒で摂取した水分、もったいないだろ」
 同情されてるのだろうか。それとも。酔った頭じゃ上手く理解できなくて、泣き崩れた万津の背中をさする。触れているうち、他人の話を聞いて涙を流す優しさが、この身体に詰まってるのだと感じた。
「土屋さん。やりたいことって、何なんすか」
 もう一度、同じことを尋ねられる。一度目より、何か確信めいたものを持った瞳だった。
「それは、その時のお楽しみ」
 そして俺も、同じことを答える。声音に迷いがないのは変わらない。
 万津の話を聞けてよかった。過去から逃げ回って、困難に対しても避けまくって、行き着いた先には道がない。来た道を戻るのには遅すぎる。
 強烈な眠気がやってきたので、グッと身体を伸ばした。
「万津、ベッドでかいから、使っていいよ」
「いや、アンタどこで寝るんすか」
「ソファーもでかいし、問題ない……。あ、風呂も、広いから、必要なら入ってこい……」
「ちょ、そこ床ですって。マジで酔ってんなアンタ!」
「ベッドでかいから……クイーンサイズだし……」
「あぁもう!」
 だんだんタメ語になっている万津が面白くて、可笑しくて、なんだか幸福な気持ちになる。
 ふかふかしている絨毯に頬を擦り寄せて、感触を楽しんでいるうち、とっぷりとした暗闇に包まれていく。
 
 幸福だ。俺は。他人から見たら不幸だとしても、俺は幸福なのだ。